2017年10月19日

Eテレオイコノミア「おしゃれの秋!ファッションの経済学」

Eテレオイコノミア「おしゃれの秋!ファッションの経済学」

今回はファッションの経済学。
又吉さんがブランドを立ち上げるとしたら…というお話でした。
講師は大竹先生。

〇今回の舞台
 冒頭で、又吉さんと先生が新宿を歩いています。
 先生は
 「ファッションの話なら私帰ってもいいですか」
 と言ってましたけど…(笑)
 (でも大竹先生の服、毎回なにげにお洒落だなあと個人的には思うんだけど)

 さて二人が訪ねたのは、文化服装学院、という専門学校の資料室。
 1世紀分の3万5千点もの服装が貯蔵されているのだそうです。
 民族衣装とか学園祭の奇抜な服など、種類はさまざま。
 見ているだけで楽しそうですね~

○今回のゲスト
 今回のゲストは篠原ともえさん。
 一時期バラドルとして出ていましたけど、
 しばらくブランクがあったかな?
 (その間、デザインの勉強などされていたみたいですが)
 最近はデザイナーとしても活躍されています。
 子供向けの番組「みいつけた!」に声優としても出演されていますね。

 篠原さん
 「又吉さんはどんなブランドを目指すんですか?」
 又吉さん
 「微妙な違和感があるブランド」
 微妙な違和感、ってのが難しいですね…
 篠原さん
 「先生、なんかヒットする要因ありますかね」
 先生
 「…分かんないです(笑)」

 この資料館にもいろいろ服があって、
 篠原さんが良さそうな服を探していました。

 先生
 「ところで二人はいつからお洒落になったんですか?」
 又吉さん
 「お洒落になった、ていうか…
  服に興味を持ったのは小学校の時ですね」
 又吉さんはサッカーしていたので、ほとんどジャージだったそうですが
 祖母の家に行くときは普段着を着ていて、
 それをたまたまクラスの女の子が目撃して
  「それ自分で選んだの?お洒落~!」
 と言われた、
 それが嬉しかったのが原点だそうです。

 篠原さんは
 「子供のころ、母親が服を作ってくれたのもあるんですが、
  中学校の時、制服をアレンジするのにハマったんです」
 上着の袖をわざとちょっと短くしてブラウスが見えるようにしたり、
 校章の所にリボンをつけるなどしていたら
 それを真似する子も出てきて、
 流行ってしまい、アレンジ禁止令も出されたのだそう。
 そのときファッションを流行らせる楽しさに目覚めたそうです。

 (確かに中学とか、制服アレンジしている人いました。 
  私はもともとダサい制服をアレンジしてもやっぱりダサい…
  と思って何もしなかった人ですが(笑))

○流行の経済学
 さてここで、先生が
 「何かが流行する仕組み」
 をオセロを使って説明していました。

 あるファッションブランドが、新しい商品を開発したが、
 開発にお金がかかり値段は高い。
 あなたはこの商品買いますか?

 黒一色だったオセロの中で、
 右上1つだけをひっくり返して白にしていました。
 これを新しい商品が出たばかりの状態、とする

 篠原さんは
 「誰もみたこと無いようなファッションだったら、私買います」

 先生は
 「篠原さんのように、高くても新しいものがいい、という人が少数いるとします」
 と言って、右上の白いオセロの周りのオセロ4つくらいを白にする

 ここで、ブランド会社の社長は値段を下げる
 「こうすることで、残りのオセロの人が買うようになります」
 似た商品がたくさん出てきて安くなると、
 安いなら買ってもいいかな、みんなが買うなら買おうかな、
 という人が買うようになる

 こうして、みんな同じ格好をするようになり流行が成立する

 ちなみに最初のオセロの人たち、つまり
 「高くても人と違うもの、新しいものを好む」人は「スノッブ」

 後の大多数のオセロ、つまり
 「みんな買うなら買う」という人たちを「バンドワゴン」
 というそうです
 
 (バンドワゴンは、パレードの楽器隊が起源の言葉。
  「バンドワゴン効果」というのは盆栽の回でも出てきました。
  (かつての盆栽ブームで、みんなやってたから
  ちなみに「高いから買う」という人もいて
  これはウェブレン効果、というそうです)

 スノッブは人と違うことに価値観を見いだす人で
 篠原さんは
 「私絶対スノッブですね」
 90年代、シノラーファッションが流行ったときも
 「この頃、カラフルなアクセサリーがなくて自分で作ったんです、
  そしたら一週間後には原宿とかで商品化されて売ってましたよ」

 又吉さんも
 2012年のお洒落芸人に選ばれていて、
 そのときのファッションを見ると奇抜な格好。
 「この頃は、どうやって変な格好をするかを目指していましたね」

 一方バンドワゴンは行列とかに並びたがるような人だそうです。
 又吉さんは
 「中学くらいの時、ダッフルコートがダサい、て言われてる時期があって…」
 そのとき又吉さんはそれを知らずにダッフルコートカッコいい、と思って買ったが
 「又吉ダサーい」
 と散々言われたそうです。
 でも二年後に流行りだし、「貸して」と言われ
 あのときバカにされたのはなんやったんやろ、と思ったそうです(笑)

 篠原さん
 「又吉さんは完全なるスノッブだと思いますよ」
 (スノッブというより、流行に左右されずに自分の感性で選んでいるのかな…とも思います)

 ということで
 スノッブ…高くても買ってもらえるが、売れる量は少ない
 バンドワゴン…安いけど沢山買ってもらえる

 又吉ブランドはどちらをターゲットにするか?
 又吉さんは
 「まずはスノッブですね。
  バンドワゴンなら別に服でなくても飲食とか、小説でもいいですから」

○価格競争に負けない差別化
 先生
 「では、又吉さん値段設定はどうしますか?」
 又吉さん
 「うーん、素材と作ったものとかの利益を考えた上で…」
 しかし先生は
 「甘いですよ」

 というのは、又吉さんが新しいブランドを立ち上げたとしても、
 ライバルが同じものを作り、
 より値段を下げてきたらどうするのか?
 どんどん値が下がり、値下げ競争となってしまう

 又吉さんは
 「うーん、工夫する…例えば名前をつけるとか」
 篠原さん
 「どんな名前?」
 又吉さん
 「例えば、普通の服ならブルーとか言いますよね、
  それを、「あのとき見た鳥」とか…」
 想像しにくい色ですね(笑)

 しかし先生は
 「目の付け所はいいと思いますよ、
  差別化をはかるんですよね」

 「差別化」とは、
  他に真似できない付加価値を自分の商品につけること

 それなら値段が高くても、買う人は買ってくれる
 先生は、「名前ぐらいでは差別化ができないとは思いますけど…」
 篠原さんは
 「でもファッションの世界も同じかも。
  人間力とか、どんな人が作ったかで買ってもらえるとか
  どんなデザインなら買ってもらえる、とか…」

○原価無視の価格設定
 さてそんな差別化により、売り上げを伸ばしている企業があるそうです
 又吉さんが取材に行っていました。

 この企業はCG制作会社だったが、
 最近はアパレル業界にも進出しているそうです
 業界の既成概念にとらわれない強みがあるのだそう

 代表の近藤さんは
 「うちでは、原価とか一切考えずに、
  見たときの感覚で販売価格をつけています」

 例えば部屋着用のピンクのガウン。
 又吉さんに値段を考えてもらうと
 「肌触りいいですね…初めてのさわり心地です」
 値段をつけてもらうと
 「1万円くらい」

 近藤さんは
 「そうですよね、それくらいなら買ってもいいかなという感覚ですよね、
  うちはそれより少し低い値段で売るんです。
  でもこのくらいだと、業界で普通につけたら2万くらいするんですよ」
 このお店では、実際は7800円で売っているそうです

 又吉さん
 「そんなやり方で採算とれるんですか?」
 近藤さんは
 「そうですね、この値段、と言ったとき、
  工場などの現場が「原価と同じです」とガックリくるときもありますよ。
 でもそうなると、現場が工夫するようになるんです」
 同じデザイン、クオリティ、素材でどれだけコストを削れるか、
 パターンの取り方などを頑張って工夫するようになるそうです

 近藤さんは、この会社で新しい価値観を作りたいのだそう
 「うちはライバルは見ていない、隣をみていたら同じものしかできない」
 又吉さんが
 「逆に他の会社に真似されそうですね」と聞いても
 近藤さんは
 「他が真似できるならしてみろ、という気持ちでやっています」

 先生によると
 「この会社は、
  消費者がいくらなら買うか、という見方をしているところが独占力につながっている」
 とのことです
 消費者からしたら、こんないいのがこの値段?みたいな嬉しさがあるんでしょうね。

 又吉さんは
 「僕リーバイスのジーンズしか買わないですけど、ブランドも独占なんですかね」
 先生
 「ブランドは、ここにしかない、ここなら買える、
  と信頼されていくうちに、ブランドとしてだんだん定着していくんですね」

 又吉さんは
 「うーん、そうなると、なかなかそういうものを作るのは大変そうですね…」と弱気モード。
 先生
 「あの、又吉さん、ここまできて作らないは無いですよ」
 番組成り立たないからね(笑)

○ファッションが地位財でなくなってきた
 最近はアパレル業界には逆風が吹いているようです。
 街頭では
 「服はあんまり買わない」
 「安いものに目が行く」
 「安いのを買って捨てる」
 …など、あまり服にお金をかけない人が多い。
 
 実際、34歳以下の女性だけで見ても、
 2008年と2016年とで比べると
 服にかけるお金は、月17100円から10700円、
 6400円くらいダウンしているそうです

 先生によると
 「ファッションが地位財でなくなってきた」

 「地位財」とは
 他人との比較で自分の価値を測る財のこと

 例えば3千万円の家を買う人と5千万円の家を買う人、
 絶対的に見れば5千万円の方が高い家、価値のある家だが
 3千万円の家の周りに2千万の家だらけ、
 5千万円の家の周りに6千万の家だらけだったら
 前者の方が立派に見えてしまったりする
 満足度が周りの状況に左右されてしまう財、なんだそうです
 (ということは、高級住宅街には住まない方が良さそうですね…)

 服でも、みんなより高い服だと嬉しい、
 という感覚がかつてはあったそうです

 先生
 「バブル期のころ、大学生が最も欲しかったものは何だと思いますか?」
 又吉さん「車?」
 篠原さん「ファッションだから…スーツ?」

 実際に1989年の新聞の記事に、大和銀行の意識調査がありました。
 答えは「タキシードのようなフォーマルウェア」

 当時はタキシードパーティー、というのが流行っていて
 大学生でもパーティーにフォーマルウェアで行っていたそうです
 ダブルのスーツなども着ていたのだとか
 「パーティーにスーツ?大学生が?」
 「ダブルのスーツって、50代くらいの方が着るイメージですけど、
  若い人が着ていたんですか?」
 と二人ともビックリでした。
 私もこれは知らなかったなあ。パーティーって何?合コン?

 又吉さんは
 「そういえば中学生のとき友達の家に遊びに行ったとき、
  お兄さんが紫のダブルのスーツ持ってて、これ着てくんだって言ってたけど
  めちゃめちゃダサかった…」(笑) 
 先生は
 「興味がない人でも、みんな着るから持ってないと辛かったんですね」

 しかし、今はその傾向が薄れているのだそうです。
 又吉さんは
 「たぶん、バブル期に高いのがいい、っていう人ばかりいて、
  それを斜めから見てた人たちが、
  安くてもいいものを、という価値観にしていったんじゃないですか」
 「安くてもいい」人たちがスノッブとなって、今の傾向を作っていったのでは、とのことです
  ユニクロブームとかはそんな感じなのかしら。
 
 又吉さん
 「ということは、今は服を作るのは難しいんじゃないですか?
  先生、僕に借金させようとしてませんか(笑)」
 
○レンタルもする洋服屋さん
 最近は違う戦略で売るお店も出てきたそうです。
 例えばある企業では、2年前から服のレンタルサービスも始めた

 この企業では携帯電話やスマホで簡単にレンタル予約ができ、
 月々の料金を払えば一か月借り放題、というサービスなのだそう

 レンタルだらけになったら、服を買う人はいないんじゃないの?
 しかしこの会社の澤田さんという方によると
 「調べると、レンタルと購入ではユーザーが異なることが分かりました」
 レンタルする5000人のうち、
 7割が新規のお客さんだったのだそうです。
 しかもレンタルしたものを購入したい、という人も出てきたらしい
 「多い方は、半年で19着購入された方もいます」

 篠原さん
 「今だと、服を着てSNSに投稿して満足、っていう人もあるから、
  レンタルは時代にあった便利さかもしれないですね」
 又吉さんも
 「買わなくてもいい、という便利さがありますね」
 篠原さん
 「でも私たちの業界もよくありますよ、
  スタイリストさんが用意してくれた服が良かったから後で購入したり…」
 又吉さん
 「そうそう、僕も買いました」
 
 先生はこれを「保有バイアス」という言葉で説明していました
 「保有バイアス」とは
  いったん保有したものは価値が高くなり、
  手放すときに抵抗を感じてしまうこと
 又吉さんは
 「自分の古着を売るとき、
  値段を聞いて安すぎたからもういいです、となったことがあります」
 これも保有バイアスなんですね。
 
 篠原さん
 「又吉さん、レンタルどうですか?
  お試しして愛着持ってもらう方がいいかも」
 又吉さんは
 「でもそれだけになっちゃって、貸せる服ないです、ってなりそう…」
 とあまり乗り気ではなさそう?

○お洒落は決断力を消耗する?
 次に、お洒落とは真逆の、いつも同じ服にする、という人の話。
 又吉さんは
 「仕事が忙しくなってきたら、
  とりあえずセットアップを買うことが増えてきた」
 という話をしていました。
 確かに、芥川賞受賞されたころはお忙しかったのか、
 写真を見ると甚平みたいな恰好が多い…

 又吉さんは
 「仕事に行くとき時間がなくて、セットアップにして
  でも無難にはいきたくないからちょっと勝負して、
  でも途中の移動の車の中とかでやっぱり変やな、ってなって、
  変えたくてしょうがなくなる時がある」
 篠原さんも
 「私も途中で小物を買い足すことあります」
 
 しかし又吉さんが忙しくて服を選べない、というのは
 実は理にかなったことなのだそう
 というのは
 「決断するときに消費する意思は、
  使うたびに消耗していく」
 という考え方があるそうです

 先生によると
 「たとえばスティーブ・ジョブズ(アップルの創業者)
  いつも黒いタートルネックとジーンズでしたけど、
  彼のようにほかのクリエイティビティがある人は
  エネルギーをファッションに使いたくない、となる」

 「又吉さんも、究極の1着、というのを作ったらどうですか?」
 「これが「THE MATAYOSHI」みたいなブランドになるかも」

 …そこで又吉さん、「頑張ってみます」とイラストを描いていました。
 ラストで見せてくれましたけど、できたのは「地球」というデザイン。
 でもこれ、微妙な違和感、というよりかなり違和感があるような気が…(笑)

〇感想など
・昔「色彩検定」というのを受けたことがあって、
 本を読んでいたら
 「「流行の色」は1年前に作られる」
 といきなり書いてあって困惑しました。
 流行って、みんながするようになって「自然に」できるもんじゃないの?
 流行って作られるものだったのか?と。
 勝手に決めるな、と思ってしまいました(笑)

 でもよく考えたら、
 服を買うときって、その年によって似たような色とかデザインしかなくて
 ほかのデザインを買いたいときに見つからなかったりする。
 (例えばお腹冷えるから股上高いパンツがいいのに、
  ヒップハングタイプのズボンしかないとか…)
 毎回それがモヤモヤしますね…勝手に今年のデザイン決めないでくれって。

 値段についても、決まっているようで業界の言い値、みたいなところもあるのかなと思います。
 もちろん材料費とか必要経費はあるんだろうけど
 プラスアルファを含めたトータルの値段は作り手が決めるものですし。

 だから服飾業界って、
 商品そのものも値段も作り手主導なのかな…と思っていました。
 だから、近藤さんの企業のような、買い手目線でいろいろ決める、
 というやり方はもっと出てきて欲しいな~と思います。

 最近ではデザインについて、消費者からアイデアを募集する、
 という取り組みもあるとかないとか聞いたことがあるんですが
 デザインや色についても、業界主導でなく、
 消費者が作り上げるものになってほしいなあ。
 それで流行るものが真の「流行」ではなかろうか。
 
・バブル期の話はなんとなく懐かしかったです。
 そういえば今思い出したら、当時のテレビ
 (ダウンタウンの若いころの漫才姿とか)には
 若者がぶかぶかのスーツ着てる姿とか結構映っていた気がする。

 私はこの時代、まだ子供だったので実感は薄いが
 「みんなが持っているから買う」という価値観は
 確かにこのころは強かったかもしれないですね。
 ある意味、選ばなくていいから楽だったのかも?

・レンタル服についてはどんなんがあるんかな~と思って調べたら
 今いっぱい業者が出ているんですね。
 運送業者に頼むので、全国どこでもできそう。
 男性ものも出ているのでびっくりしました。

 しかもスタイリストさんが選んでくれるサービスもあるし
 洗濯しなくてもいい、とか…
 スタイリストさんにお願いする場合は、
 こういうイメージ、とか希望を伝えると好みのものを選んでくれるんだそうです。

 店での試着だと、限られた時間だから着心地とか完全には分かりにくいけど
 本当に良かったら買える、という選択肢があるのもいいですね。
 私も独身時代にこんなのあったらよかったのになあ。

 でも実は近所に貸衣装屋さんがあって、
 子供のスーツ(卒業式と入学式にしか着ないやつ)
 は全部そこで頼んでいます。便利だなあ。

・服選びにエネルギーを使わない、というのは
 私も子供ができてからスティーブジョブズさん並みでして(笑)
 1シーズン2、3着くらい、ほぼ制服状態で着ています。。
 (ちなみにだんなも、職場に行くときは似たような感じ)
 服選び、って自己満足的なところもあるから、もういいかなと思ってしまう…

 又吉さんとか篠原さんは仕事柄人に見せるというのもあるのだろうが、
 途中で服買い足すとか、着てる服で落ち着かなくなるとかいうのは
 やっぱり服にはこだわりがあるんだなと思います。

・又吉さんは「差別化のため名前を付ける」と思い付きのように言っていたけど
 昔本で「ネイルの色の名前を変えるだけ(~の緑、みたいなイメージ的な名前)で
 売り上げがアップした、という話を読んだことがあります。
 (「選択の科学」という本だったかな)
 名前付けとかブランドなどで商品自体に対する印象が変わる、
 (「ラベリング効果」だったっけ)
 というのは心理学とか脳科学でも聞かれることみたいです。
 
 ただそれはラベルする名前が有名になってからのことなので
 最初はやはり分かりやすい名前の方が売れるのかな…

又吉さんのファッションも篠原さんのファッションも
個性的でなんとなく好きなので
これからもウォッチしていこうかな~と思います。

というわけで今回はこの辺で。
posted by Amago at 13:42| Comment(0) | テレビ(オイコノミア) | 更新情報をチェックする

2017年10月18日

ローソン「かぼちゃとクリームチーズのコロッケ」「パンプキンサラダサンド」「石川県産味平かぼちゃの濃厚プリン」

ローソン「かぼちゃとクリームチーズのコロッケ」「パンプキンサラダサンド」「石川県産味平かぼちゃの濃厚プリン」

久しぶりにコンビニでごはん買いました。
かぼちゃで攻めてみた。

「かぼちゃとクリームチーズのコロッケ」
かぼちゃコロッケ、てよく惣菜コーナーで見るけど、最近はそう言えば買わないですね…
コンビニでは珍しいかな?と思い買ってみました。

開けてみると割と大きい。
楕円形の平たいコロッケです。
さていただきます。

衣はやや厚くてサクサク。
げんこつコロッケとかと同じく、これは定番の美味しさです。

お、かぼちゃは甘い。
食感はねっとりなんですが、
かぼちゃが濃いめで密度があります。

チーズは、見えるけど味はよくわからない。
ピザまんの中のみたいに伸びるわけでもなく、あんまり主張はないかな…

でもこのコロッケ、なんか普通の惣菜のかぼちゃコロッケとなにか風味が違う。
なんだろうな、イメージでいうと、
普通の惣菜のかぼちゃコロッケは和風だけど、これは洋風な感じです。
普通のはもう少し甘辛いけど、
こちらはもっと複雑というか、
甘さの中にもかすかな苦み?酸味?がある…
なんかオリーブオイルで炒めたかぼちゃに似ている。
でもそれがかぼちゃの甘みをよく引き立てているような。
そして生クリーム的なこくがあとからずーんと来ます。
…っていうのは多分チーズの風味なんだろう。
チーズの味はよくわからない、と書いたけど
陰の存在感がある。

具は多分かぼちゃとチーズだけ?
かぼちゃは皮ごとなのか、緑色のものが見えます。
なのでかぼちゃ好きな人はかぼちゃを堪能できると思います。

よーく味わうとちょっと不思議な味にも思えますが
あんまり考えずに食べたら、やっぱり甘めのかぼちゃコロッケかな(笑)
衣がサクサクで食べやすいですが、
カロリーは200キロカロリーくらい、おやつにするには高いかな…

さて次。
「パンプキンサラダサンド ?」
かぼちゃのサンドイッチ、
毎年ハロウィンの時期に出るんですがなかなか買えません。
が、今回は大量に置いてありました。

かぼちゃのサンドイッチも珍しいですね。
さていただきます。

よくみると二種類違うものです。

1つは具がリーフレタス、レタス、ベーコン、カボチャサラダ。
カボチャサラダ、てのは
みじん切り玉ねぎとかぼちゃのペースト、かぼちゃの潰れそこなったのが入っるもの。
マヨネーズベースなのかな?

こちらはかぼちゃも甘いけど、玉ねぎのシャキシャキ感と甘みが印象的でした。
ベーコンは適度に塩辛い。
玉ねぎ、かぼちゃの甘さとベーコンの塩味がバランスよくて、
かぼちゃを使っているけど惣菜的なパンに仕上がっていると思います。
ナッツも入っていたかもしれないがよくわかりませんでした

もう1つは、
スライスしたかぼちゃを焼いたもの、チーズっぽいかぼちゃソース?、リーフレタス、ナッツ?

一口目からかぼちゃの甘さがビックリです。
スライスかぼちゃ、そのままでも素材の甘みがあって、ホクホクして美味しい。
これにチーズベース?のソースみたいなのと、
ナッツのコリコリ感と香ばしさがナイスな取り合わせ。

どっちのサンドもおいしいけど、個人的にはスライスかぼちゃの方が好きです。
こっちは甘めなので好みは別れるかもです。

昔どっかで食べたかぼちゃサンドイッチ(ファミマのだったっけ?)ってレーズン入ってた気がするけど
これは入ってないからいいなと思います。
かぼちゃはナッツだけの方が合う気がする。

さて次。
「石川県産味平かぼちゃの濃厚プリン」
思ったより小さめサイズのプリンでした。
開けてみるとココアパウダーでハロウィンのおばけかぼちゃの顔が描かれていて、かわいいですね(笑)

さていただきます。
家で蒸したプリン、みたいな感じです。
固めで卵の風味がけっこう強いです。

しかしスプーンですくっていくと、
内部はかぼちゃのザラザラ感がして、ねっとりまったり濃いです。
かぼちゃって万次郎かぼちゃみたいに水っぽいのと、
栗かぼちゃみたいにホクホクなのとかありますが、
これは多分ホクホクタイプかなと思われる。

プリンなのでもちろん甘いのですが
プリンにしては甘さ控えめ、
素材のかぼちゃの甘みがうまく出てるのかな、という味でした。

底にはカラメルがあって、
ほろ苦い香ばしさが甘みによくあいます。

こぶりかなと思ったけど
かぼちゃが思ったよりあって、食べたらちょうどいいくらいのサイズだなと思いました。

しかしながら個人的には、卵風味もう少しおさえ目のプリンの方が好きなんですが…
(昔セブンとかモンテールから出てた、ほぼかぼちゃペースト?みたいなねっとりしたかぼちゃプリンの方が好き)
まぁこれは好みです。

ちなみにこれは石川県産の味平かぼちゃを使っているそうですが
味平かぼちゃ、てのは耳慣れない名前でした。
北海道とかでも作られているみたいで、

色んなかぼちゃの品種を比較してくださっているサイト
http://hokkaido-yasai.jp/wp/faq/veget/pumpkin/1269/
によると
「味平かぼちゃは栗や男爵芋に似た ホクホクした食感が特徴」
「高糖度で風味の良い品種として人気」
だそうです。
いいねー、美味しそう~。
ホクホク系のかぼちゃ好きなので、
買えるならそのまま蒸して食べたいくらいです(笑)

ちなみにうちは義母さんとだんなは、
ホクホクかぼちゃは
「喉に詰まるから嫌い」
「甘いから嫌」
なんだそうな。
(義父さんは血糖値が気になるので食べない)
上の子くらいしか食べてくれない…

ハロウィンのせいでかぼちゃは秋のものとされるが
本当は夏の物なんですよね…
でもまぁこの季節、色んなかぼちゃ料理やスイーツが楽しめるので嬉しいです。

今日もごちそうさまでした、ありがとう~
posted by Amago at 19:41| Comment(0) | 食(コンビニ) | 更新情報をチェックする

2017年10月17日

Eテレ「100分de名著 歎異抄 第2回「悪人こそが救われる」第3回「迷いと救いの間で」」

Eテレ「100分de名著 歎異抄 第2回「悪人こそが救われる」第3回「迷いと救いの間で」」

前々から興味があった親鸞の「歎異抄」。
一年半前見逃したので、再放送していただいているのがありがたい。
今回は2回目、3回目をまとめて見ました。
(先週は2回目見てる暇がなかったので…)
解説の釈徹宋さんの話し方が心地よくて、すっと胸に入ります。
なるほど~、人間の複雑さみたいなものを感じてしまいました。

ところで恥ずかしながら、私「たんいしょう」かと思っていたのですが
「たんにしょう」だったんですね、知りませんでした…(今更知った(汗))

進行は磯野佑子アナと伊集院光さん、
解説は前回と同じく、文学者で僧侶の釈徹宗さん。

第2回「悪人こそが救われる」
前回は、「自力と他力」の話でしたが
この回は「悪人と善人」の話。
釈氏は、
「悪人こそが救われる、悪人正機説ともいわれますが
 親鸞の言葉のなかで一番有名かもしれませんね」

たしかにこの言葉、よく聞かれるけど
なんで悪人「こそ」が救われねばならんの?という気になりますね…

〇悪人こそが救われる、の本意
 この言葉は「歎異抄」の第三条にあるそうです

 原文を訳した解説によりますと
 
  「善人すら浄土に行ける、ましてや悪人はなおさらだ」

  世の中の人は普通、
  「悪人すら浄土に行ける、ましてや善人はなおさら」という。
  これは一見もっともだが、本願他力の心に反している。

  なぜなら、
  善人、つまり自力の善で往生しようとする人は、
  阿弥陀様の願いに沿っていない。
  しかし善人でも、自力にとらわれた心を翻し、
  本願の力にお任せすれば、成仏できる。

  なぜなら、どんな厳しい修行をしても迷いの世界から逃れられない、
  そんな我々を見て阿弥陀様は立ち上がったのである。
  阿弥陀様の願いは、
  我々のような悪人を救い、浄土に往生させて仏にすることなのである、
  その本願の心にお任せする悪人の心を持つ人こそが、往生できる

 …とかいう内容でした
  
 磯野アナは
 「なにか、私たちのいう善人、悪人とは何か違うみたいですね」

 釈氏によると
 親鸞の言う善人、悪人は少し我々とはニュアンスが違う。
  ・善人とは、自分で修行して煩悩を消し去り、悟りを開ける人
  ・悪人とはそれができない人

 伊集院さんは
 「なるほど、今の言葉で言えば、
  落ちこぼれを救うための教えなんだから、ということですね」

 釈氏はキャッチャーのストライクゾーンの例えを出していました
 普通は、仏が救うストライクゾーンに善人がいて、
 悪人はもうちょい頑張れよ見たいな感じなイメージがある。

 しかし、親鸞の場合、ストライクゾーンにこそ悪人がいる。
 この人たちは本来の救いの対象で、正機というのだそうです
 悪人正機、というのはこのためらしい。
 そして善人は傍機(ついでに助ける人)、という扱い
 「ですから、泳げない人をまず救う船みたいなものなんですね」

 釈氏はさらに、
 「もう少し深く読むと、
  親鸞は「善人の危うさ」みたいなのも言っているんです」
 つまり、自分たちで修行した、救われた、という人たちは本当に救われているのか?
 幾ら修行をしても、内面を見たら煩悩は完全に消えていないはずで、
 そう考えるとすべての人は悪人ともいえる、
 悪人の自覚を持ちなさいよ、とも親鸞は言っているのだそう

 伊集院さんは
 「さらに言うと、俺たちは善人だ、って言ってる人は
  実は善人じゃない場合が多いですよね」
 そして
 「ネット上の炎上とか最近ありますよね。
  批判する側は、最初は自分が正義の気持ちで批判しているんですけど、
  だんだんエスカレートしてきて、バカヤローとか死ねとかいう言葉になる、
  外から見ていたらどちらが正義なのか分からない…」

 釈氏は
 「善人の暴走が始まることを戒めているんですね」
 「それから仏教は面白い宗教で、
  どんな考え方も偏っちゃダメ、っていうんです。(中庸)
  これ現代人が考えないといけないことだと思います、
  自己点検が必要だ、と言っている」

「デキない人」をまず救ってあげよう、というのが仏のやさしさ。
また、「デキる人」の、自分たちは頑張って勝ち組になった、というおごりがよくない
ということなのですね。

〇いくら念仏を唱えても悟れない…
 次は第九条の話です。
 これは、唯円がある日思い切って親鸞に悩みを打ち明ける、という場面です
 唯円
 「念仏をいくら唱えても、躍り上がる喜びが感じられない。
  浄土に行きたいとも思えない、
  この気持ちをどうしたらいいのか」

 それに対して親鸞はどう答えたか。
 「この親鸞もなぜだと思っていましたが、唯円、あなたもですか」
 なんと親鸞も、自分も同じだ、という。

 そして、
 「浄土に早く往生したいとも思わないし、
  ちょっと病気になったら死にたくないと思う、それは煩悩の力。
  果てしなく遠い昔から、生まれ変わり出てきたこの迷いに満ちた世界が恋しい、
  浄土に行きたいとも思えないのは、煩悩のなすわざ」
 さらに
 「だからこそ、我々は往生できる」と続けたそうです。

 釈氏の解説によると
 「僕の勝手な想像なんですけど、
  たぶんこのとき、唯円は師匠と二人きりになって、
  この際だから思い切って聞いちゃおう、と告白したんだと思います」
 当時唯円30代、親鸞は80代。
 「唯円は、僕はいくら念仏を唱えてもちっともうれしくない、
  浄土に行きたくもない、と打ち明けるんですよ。
  そして親鸞は、わしもそうなんや、という。
  80代でそんな言葉はふつう出てこないですよ。
  それから唯円、よくぞ聞いてくれた、と思いますね」
 この第九条は、これがないと親鸞の人柄はよくわからなかった、
 と言われるものなのだそうです
  「よくぞ聞いてくれた、そしてよくぞ書き留めてくれた、と思いますね」
 磯野アナは
 「でも「ワシもや」といった親鸞もすごいですよね…」

 たしかに、この立場にして「ぶっちゃけ、いくら念仏してもなんも変わらなくね?」
 と言った二人はスゴいですね(笑)

 釈氏は
 「親鸞は、自分もいくら救われると言われても喜べない、という気持ちを吐露する
  でも喜べないような人を救うために仏はこの世にいるんだから、
  いつかは救われるんだ、と親鸞は言うんですね」
 伊集院さん
 「俺らできないけど、できないやつを救うために仏さまはいるんだから、
  俺ら救われるぞ良かったな、って言ってるんですね、
  でも救われると思っちゃったら救われない、から仏さまは救ってくれる…」

 釈氏は
 「親鸞は、悟ってしまったら、煩悩はないのか俺は?と自分に聞くんです。
  原文を読むと、しびれるような語感のある箇所がいくつもあるんですよ…
  「苦悩の旧里は捨てがたく、いまだ産まれざる案養生度は恋しからず候」」
   いかに迷いの世界にいるとしても離れたくない、
   ちょっとの病で死ぬのが心配になる、
   浄土はちっとも恋しくない、
   でも「いたしかたなく」浄土に行かねばならない、と親鸞は言うんです」
 
 また、
 「仏教は今まで、私が修行して仏の所に自分で行く、というものだったが、
  親鸞は、仏が私のところに救いに来る、という形にしたんです。
  そして、仏は私を救いに来るが、私はそこから逃げようとしている、と。
  これ、どこにも着地させてくれない、光と影の緊張感がありますでしょう?」
 
 「キルケゴール、という哲学者がいるんですけど、
  彼も「私は穴の開いた船に乗っている、
     降りることもできず、いつまでも水をかき出しつづけなけらばならない」
  と言っていて、親鸞の世界と通じるものがあると思います」

 伊集院さん
 「なるほど、私は救われないかもしれない、と思うから救われる、
  でも救われると思っちゃうと救われない…」
 釈氏
 「なかなか着地させてもらえないんですね」
 磯野アナ
 「唯円はこれが誤解されるのを危惧して歎異抄を書いたんですよね」
 釈氏
 「何をしても救われる、というのも違うし、
  救いの喜びがある、というのもまた違う…」

 ここのくだりは堂々巡りで分かりにくいんですが、
  念仏さえすれば何をしても救われる、というわけではなく
  念仏唱えたって煩悩まみれ、悩みだらけなのが我々の人生、
  でも煩悩だらけでどうしよう、悟れないかも、と悩んでいる人にこそ、
  仏は救いに来てくださる、
  でも救われるからと安心して悩みもしなかったら、やっぱり救われない…
  煩悩に煩わされ続けること、救われないかもと悩むことこそが救われる道、
  ということなんでしょうかね。
 
〇社会の中の「悪人」
 親鸞が歎異抄で悪人こそ救われる、と書いた真意は、実はほかにもあるそうです
 それは、社会通念として「悪人」とされてきた人たちを救うこと

 彼の肖像画にその気持ちが表れているそうです
 彼の肖像画には、猫の川の草履、シカの骨の杖、タヌキの川の敷物など
 獣たちから作られた小道具があえて描かれている

 当時は
 猟師さん(命を奪う仕事)や、 商人(お金を扱う人)は
 さげすまれ、「悪人」とされてきたそうです
 鎌倉時代の百科事典「塵袋」という本には
 「悪人」という欄に、こういう職業、
 社会的に抑圧された身分の人たちを指す言葉として書かれている

 しかし親鸞は、
 「彼らもいし、かわらのごとくの私たちと同じ」で
 「仏さまが黄金に変えてくださる」
 と言っていたそうです

 当時は仏教の価値観が世の中にあって、
 殺生やお金を扱うことはタブーとされてきた
 伊集院さん
 「それは、生活のために必要でも、ということですか?」
 釈氏
 「そうですね、幾ら生活に必要でも、彼らはさげすまれていた
  そういう宗教の価値観に縛られていた人たちに対して
  親鸞は道を開いたんですね」
 磯野アナ
 「パイオニアですね」
 伊集院さん
 「絵の中に動物から作られた道具を描いたのも、
  お前ら使うだろ、必要なんだろ、それを私は否定しないよ、って言ってるんですね」

 釈氏
 「親鸞にとっては、これがきれい、汚いというのはない、
  私はこんな仕事をしているから救われない、という人に対して、
  そんなことないよ、あなたこそ救われる、といったんですね。
  「いしかわら、礫のごとくわれらなり、そこにこそ仏の救いがある」と」

 釈氏は
 これは社会の通念と真逆の発想で、
 これこそが宗教の役割ではないか、とも言っています。
 宗教は社会と逆の価値観を提示してこそ存在意義がある、
 みんなからダメだと言われている人を、あえて救うことに宗教の存在価値がある、
 とのことです。

 伊集院さんは
 「今の言葉で言うと、
  例えばお金がないとダメだとか、負け組だとか言われますけど
  そういう人こそ救われるんだよと言っているんですね」
 でもだからこそ、敵視されたり誤解されたりするのかな…
 
 という感じで終わっていました。

「第3回 迷いと救いの間で」
 3回目は、「歎異抄」後半のことで
 唯円が親鸞の教えを間違って解釈されている例を取り上げ、
 それを一つ一つ論破していく箇所の話でした。
 釈氏によると、この後半がこの本の本題なのだそうです

〇第十一条~第十八条の構成
 後半は、第十一条から第十八条からなり
 それぞれ漢字4文字の題がついていますが、
 これは唯円ではなく、後世の人が理解しやすくするために後からつけたものだそう

 それぞれ、「間違った解釈」を取り上げ、一つ一つ違う、と言っています。
 …色々見ていくと、なかなかややこしい。

 ざっと見ていくと
 第十一条「誓名別信」
 「あなたは阿弥陀さまの本願を信じているのか、
  それとも念仏の不思議な力を信じているのか?」これは×。

  阿弥陀さまの本願の力と、念仏の力は分けて考えてはいけないらしい。

  (これは分かりにくかったしあんまり解説もなかったのですが
   私の勝手な想像でいうと
   念仏だけ唱えて、
   阿弥陀さまのことをあんまり理解していない民衆、を批判する僧侶を戒めたもの?

   しかし親鸞に言わせれば、
   念仏を信じる=阿弥陀さまの本願に頼ること、だから、
   念仏を信じるだけの人でもそれでOK、
   そういう人は阿弥陀さまの本願も分かってる、ということかな??)

 第十二条「学解往生」
 「教典を学ばねば往生できない」
  これも×。
  難しい経典など学べない人でも阿弥陀さまは救ってくれる、とのこと

 第十三条「専修賢善」
 「何をしても阿弥陀様が救ってくれるなら、悪いことしたっていいじゃん」
 「…なんていう人間は成仏できない」
  これも×。
  阿弥陀さまの本願に甘えて悪を犯した人も、阿弥陀様は救ってくれるのだそう

 第十四条「念仏滅罪」
 「念仏を唱えれば罪はチャラになるんだって、レッツ念仏!」
  これも×。
  念仏を唱えて罪を消す、というのは自力の考え方になる

 第十五条「即身成仏」
 「私はもう悟りました」
  これも×。
  煩悩を抱えて生きる人間が、この世で悟れることはあり得ない

 第十六条「回心滅罪」
 「悪いことをしても、心を改めたら救われるんだ」
  これも×。
  心を改めれば救われる、というのは自力の考えにつながる

 第十七条「辺地堕獄」
 「自力で成仏する、なんてやつは地獄に行くぞ」
  これも×。
  自力の人も、仏は救ってくださる

 第十八条「施量別報」
 「お布施の額次第で浄土のランクが変わります」
  これも×。
  お布施の量で功徳の優劣は変わらない。

 釈氏によると
 唯円がこの本で「その解釈違います」と言っている内容は、
 大きく分けると
 ・専修賢善
 ・造悪無碍
 の二つになるそうです。

 「専修賢善」とは、
 「良いことをしないと往生できないよ」
 という考え方
 十三、十四、十六、十八条がこれに当たる

 「造悪無碍」とは、
 「悪をしてもOK」
 という考え方
 (十一、十二、十五、十七条)

 いずれも極端で、
 どちらにも偏ってはいけない、と教えている。
 これらをバランスよく配置、批判しているところに
 唯円の優れた構成力がある、と釈氏は話していました

〇第十三条 専修賢善
 磯野アナ
 「伊集院さん、このうち気になるものは?」
 伊集院さん
 「うーんと、何やってもいいんだぜ、ていう人に「×!」ていう人がいいのかと思ったら
  それが「×!」だった、ってやつ何だっけ?」
 釈氏
 「十三条の「専修賢善」ですね、
  これは一番行ったり来たりさせられます」

  阿弥陀さまの本願に頼り、悪をしてもいいんだ、むしろ悪をしちゃえという人を
  「本願ぼこり」というそうですが
  本願ぼこりは成仏できない、
  と批判する人も親鸞は批判しているんだ
  と唯円は書いています。
 
 親鸞がそう教えている、という根拠に
 唯円は親鸞との対話を書いています

 親鸞「唯円、私のことを信じるか」
 唯円が「親鸞さまの言うことは謹んでお受けいたします」 というと
 親鸞
 「それでは、人を1000人殺してくれ、
  そうすればあなたの往生は確かなものになるだろう」
 そこで唯円は
 「私のような器では一人として人を殺せません」
 と答える

 親鸞は
 「それでは、どうしてこの親鸞の言うことに背かない、と言ったのか?」

 そして、
 「何でもできるなら誰でも1000人殺せるが、
  世の中は思い通りにならない、だからみんな1000人殺さないのだ、
  それは、その人の心が清いからではない。
  また、1000人殺すつもりは無かったのに殺してしまう人もいる。

  そのように、人間とは状況次第で何をするか分からないもの、
  そんな私たちを悲しんで、憐れんで阿弥陀仏は本願を立てたのだ、
  良いことをしないと浄土に往生できないというのは、
  阿弥陀さまの本願を疑っているということだ」

 ということを言われたそうです

 我々が何をしでかすかは過去の縁次第、
 そんな全ての人を救おうと阿弥陀さまは立ち上がれた、
 悪をしたら救われない、というのは阿弥陀さまの本願を疑っていることだ、と。

 「じゃあわざと悪ばっかりしてるあいつはどうなのよ?」
 という人に、唯円は
 「親鸞も、「薬があるからといってわざと毒を飲む必要はない」
  とは言っている」
  もちろん悪はよくない、という。
 
 しかし
 「だからと言って、悪は往生の妨げにはならないのです。
  それにあなたも、阿弥陀さまの本願に甘えているではないか、
  どんな悪を本願ぼこりといい、何をそうでないというのか?
  線引きするのは大人げない」
 とたしなめていました

 釈氏によれば
 「何をしてもいいんだという本願ぼこりは往生できない、というのは×。
  なら本願ぼこりはいいか、悪をしてもいいかと言ったらそれも×。
  じゃあ悪を犯してはいけないのかといえば、
  「悪をすることも往生の妨げにはならない」
  と言ってるんですね」
 …堂々巡りですね。

 伊集院さんは
 「前回、この時代では、
  今からしたら悪ではない狩りなどの仕事も悪とされていた。
  でもその人たちも救う、と親鸞は言ったけど、
  それだけじゃなくて、人殺しとか、明らかな悪も救ってしまうんですね…」

 磯野アナは
 「それにしても1000人殺してくれ、にはビックリしました」
 伊集院さん
 「仏教は殺生ダメ、て言ってるのに、仏教の師匠が1000人殺せ、てのはショッキングですね」
 釈氏は
 「唯円も驚いたんじゃないかと…」

 しかし、
 「親鸞が言いたいのは、
  今私が人を殺さないのは、善人だからか?ということですね。

  我々も一歩間違うと誤って人を殺してしまうかもしれない、
  それをしないのは縁がないからに過ぎないと言っている。
  でも縁があれば人を殺すこともしてしまうかもしれない、
  それが人間の本性なんだと。

  だからある意味、我々が善人か悪人かというのは
  自分の都合で考えているのかもしれない」

 伊集院さんは
 「前にNHKのドキュメンタリーで、
  人を殴っている様子を見て脳を測る、というのをやっていたんです。
  すると殴られるのは誰しも嫌だから、嫌悪する脳の部分が反応していたけど
  これを、家族を守るためにこの人に罰を与えている、という情報を入れると
  同じ映像を見ていても快感に変わってしまうんだそうです。
  ものすごいものを見ていると思った」
 悪も状況次第で快感に変わるんですね。

 釈氏によると
  我々は、善悪について知性や理性、社会の倫理、などをもとに判断しがちだが、
  親鸞はその危うさを指摘している、とのことです
  「悪を批判している人は、
   何が善で何が悪か、それを真剣に考えて言っているのか、と」

 伊集院さん
 「でもそうなると、何をどうすりゃいいのとなりますよね…」
 釈氏
 「しんどくなってきますよね、だからこれを知らなければ良かったと思うこともあります」

 まあでも戦争の時代になれば
 良かれと思って人をじゃんじゃん殺す人も出てくるわけで
 自分も生まれた時代が違ってたらそうなっていたかもしれないわけで…

 それに人を殺すまでしなくても、
 知らず知らずに良かれと思って誰かを傷つけている、というのは誰しもあるはず。
 だから善悪ってのは線引きできないし、
 誰でも善人、悪人になりうる。

 仏さまはそれをまとめて救ってくださるとおっしゃっている。
 我々ができるのは、
 自分の善も悪も、つくろわずにそれが自分だと認めること、
 そしてあとは仏さまに謙虚にお任せすることだ、ということなのかな…
 
〇第十四条「念仏滅罪」
 十四条では
 「念仏すれば罪が消せる」
 という問題を扱っている
 この考えはなぜ誤っているのか?

 唯円の解説によると
 たしかに念仏を唱えれば罪が消える、と書いてある仏教の書はあるが
 これは仏教が禁じている罪が、どれだけ重いのかを示しているのだ、
 とのことです

 そして、
 「念仏を唱えれば罪が消える、と信じるのは
  それこそ、「自力」で罪を消し去って往生しようとする心に他ならない。

  一生の間、我々が心に思う煩悩は、
  自分をこの迷いだらけの世界に繋ぎ止めるためのもの。
  それに向き合い、命が尽きるまで念仏を唱え続けることで、
  初めて浄土に往生できる

  しかし人生は思いがけない出来事があったり、
  病気などで心安らかに死ねない人もいる、
  そういう人は念仏を唱えられないまま死ぬかもしれないが、
  そういう人は、念仏で罪は消せないから往生できないのか?
  いやそんなことはない。

  すべてを決して捨てない、
  という阿弥陀さまの本願を信じてお任せすれば
  たとえ念仏できないまま命が尽きるとしても、
  速やかに往生できる」

 釈氏の解説によると
 「罪を消すための念仏は、
  自分の都合の念仏だ、と言ってるんですね」
 「本物の念仏は、他力に基づいた念仏。
  そして、私たちは罪や煩悩を抱えたまま、浄土にいくんだと」
 伊集院さん
 「念仏で罪が消えたというよりは、罪を抱えていくということですか…」
 釈氏は
 「念仏は、自分の罪がありありと見えてくるものだと言っているんですね」

 念仏を唱えたって罪は消えることはなく、
 むしろ罪を実感させられる。
 でもそれを消そうともせず素直に抱えている人をこそ、
 仏様が浄土に連れて行ってくださる、と言うことですね。

〇信心を持てば念仏すら要らない、といった唯円オリジナルの解釈
 磯野アナ
 「唯円は念仏すら唱えなくていい、みたいなこともいってますけど…」
 釈氏は
 「実はこれ、親鸞は言っていないんです。
  親鸞は
  「本物の信心には必ず念仏が備わっている、
   信心と念仏は裏表になっている」と言っている

  でも唯円は信心1つで救われると言っているんです。
  この、信心に特化した考え方は唯円オリジナルで、
  もしかしたらそう言わざるを得ない至る事情があったのかもしれない」

 伊集院さん
 「おそらく勝手に想像するに、
  唯円が現場を見ていくうちにそうなったのかも。
  例えば、言葉を発することもできない病で、でもものすごい信心がある、
  そういう人が亡くなる現場を見たりして、
  そういう人も見送りたい、ということを考えた唯円の優しさがあるのかもしれないですね」

 釈氏
 「この「信心重視」と
  「罪を無くさずとも救われる」
  この二つを強調しているは唯円の特徴ですね」
 伊集院さん
 「面白いですね。
  名著としてみると、
  「親鸞の言葉」を「唯円が書いた」というのに、違う所があるのが面白い」

 親鸞の言う「他力」をさらに拡大解釈して、
 阿弥陀仏さまの心の広さを強調したのが、唯円かもしれないですね。

〇親鸞の念仏に対する考え方
 では、親鸞は念仏についてどう言っていたのか?についても言及されていました
 親鸞は
 「念仏は、無義をもって義とする、
  不可称不可説不可思議のゆえに」 
  と書いているそうです。

  最初の無義の「義」は自分の思慮分別、計らい、計算など
  次の「義」は本来の意味、原則という意味で、
  要するに
  「念仏には、自己の計らいや思慮分別を入れないのが本来の姿、
   なぜなら念仏というものは、唱えたり、説明したり、考えたりすることができないから」
  知性で把握できるものではないから、
  自分の計らいを捨てていかないと本来の念仏にならない
  ということらしい。

 磯野アナ
 「計らいとは計算ですかね?」
 釈氏
 「そうですね、計算して念仏して罪を無くそう、というような念仏は計らいの念仏。
  そういうものを超えて阿弥陀仏に任せるんだということですね」

 磯野アナ
 「任せるっていうと、何もしなくていいのかな、と思っちゃってやっぱり誤解されやすいですね」
 釈氏は
 「そうなんですよね、でも任せるというのが我々現代人には難しい。
  近代知性、理性に囚われている我々には、
  「南無阿弥陀仏…」に抵抗があるようなところがありますでしょう?」
  我々は知性で生活している、逆に理性に頼らないと生活が成り立たない。
 伊集院さん
 「宗教的なことじゃなくても、お任せ、お手上げとはなかなか言えないですね」

 釈氏は
 「我々は常に計らって暮らしている、人生は計らいだらけです。
  敵か味方か、役に立つか立たないか…
  どこかで「おかえり」ってっきゅっと抱いてもらえる場所がないと
  あまりに我々の人生は過酷じゃないですか。

  でも例えば子供でも、子供の世界って過酷ですけど、
  家に帰ってきゅっと「おかえり」って抱いてもらえたら安心できる、というところがあるでしょう?

  それと同じなんですね。
  阿弥陀仏さまにどこかで抱き締めてもらえる、そう思えるからこそ、
  凡人、愚者である我々が苦難の人生を歩める、というところがある…」

 天命を尽くして人事を待つ、じゃないですけど、
 煩悩は煩悩として悩み、
 あとは流れに任せなさいということなんでしょうか。

 さてここまでで、
 磯野アナ
 「伊集院さん、今まででどうですか?」
 伊集院さん
 「うーん、まだ宙づりのままなんですけど、
  最初は理屈で読んでみて、
  あれはダメ、と言われ、かといってこれもダメ…って宙づりにされていたんですけど。
  でもだんだん読んでいくうちに、
  宙づりっていうとひもにがんじがらめに縛られて、というイメージだったけど、
  ちょっとふわっと浮かせてもらえるような、気持ちいい方向になってきました。
  まだ不安ですけどね」

 それから
 「これから何かの縁で何かしてしまって、
  謝罪会見を開くことになって「今のお気持ちは?」と聞かれたら
  「南無阿弥陀仏」っていいたい」(笑)
 その心は、
 「だって理屈をこねようとして、人って炎上していくでしょ?
  行動は理屈がないといけないって言われがちで、
  だから理屈をこねていくんだけど、
  それがまた批判を浴びるわけでしょう、
  だから阿弥陀仏に委ねて南無阿弥陀仏もありかな、と…」
 磯野アナは
 「いやでもその前に何もない方が…」(笑)と言っていましたが
 伊集院さんは
 「でも縁ですからね、良かれと思って何かあるかもしれません」
 とまじめな顔で答えて終わっていました。
 なるほど、悪を犯すのも縁ですからね。伊集院さん、飲み込み早いな~

〇感想など
 歎異抄は解釈が難しい、なかなか着地させてもらえない、
 ということが強調されていましたけれど
 個人的には、仏様の懐の大きさというか、
 何か大きなものに抱かれているような安らぎを感じました。

 私はもう少し若いころ、
 仕事も何もかも面白くなくて、自分は何がしたいんだろう
 何をするのが自分の天職なのか、みたいなことを考えて
 自己啓発系の本を読んだり、そういうセミナーに行くこともありました
 
 でもそういう自己啓発って、
 やり方が願望達成型というのか、
 何か目標を立ててそこに向かって頑張るぞみたいなものが多くて、
 行ったときはパワーをもらえるような気がするんですけど
 なんかしんどくなってくるんですよね。

 そこで読んだ本だったかなんだか忘れましたが
 「目標達成型のものは、自分ではない何者かになろうとしている、
  いうなれば今の自分を否定している。
  それよりも今の自分で十分、と認めることの方が大事」
 という考え方を知ってなるほど、と思いました。

 それは、
 「こんな悪いとこあるからしょうがないじゃん」って開き直る、というのとは違う。
 「私はこんな悪いとこがあるから直さなきゃいけない」って頑張るのも違う。
 「今の私は悪いとこもいいとこもある、それはそれで認めよう。
  じゃあ、今の私は何をしたいんだろう、何ができるんだろう」
 と考えてやれることをやって、
 あとの結果は天にお任せ、という生き方をしていくことなのかなと。

 そんな風に生きていたら
 欠点もそのうち気にならなくなるかもしれないし、
 もしくは欠点が実は、誰かの役に立つのかもしれない。。
 あるいはどちらでもないのかもしれないけど、
 それすらも天にお任せしてしまえばいいのかな、と。

 歎異抄で
 「なかなか落ちつかせてもらえない」
 「悪をしていいの、悪いの、どっちなの?」
 というのもそれと似ているのかな…と思いました。
 「私の悪いところを直せばいいの、直さなくていいの、どっちなの?」と。
 
 仏教で修行とか念仏唱えて頑張って悟るぞー、ってのは
 自分でない何者かに「なろうとしている」状態なのかなと思います。
 この世にいる限り悟れない自分が、
 悟っている自分に「なろうとする」のはどこか無理がある。

 だから、悟れない自分、煩悩まみれの自分を認めてしまって、
 じゃあそこで何をしたらいいんだろう、と考えて、
 みんなと一緒に苦しんで、その時ベストの選択だと思うことをする、
 いうなれば「自分なりに生きる」
 そしてあとは「仏さまにお任せする」という生き方をすること…
 そんな私たちの姿を、仏さまは陰ながら見守ってくださっている、
 ということなのかな、と…

 お任せする、というと、なんか責任放棄にも感じるんですけど、
 「結果にとらわれない」
 ということなのかなと思います。
 いい人になろう、とかこうなろう、とこだわらないこと、
 それが仏教の言う「中庸の道」にもつながるのかな、と。
 
 キリスト教などは「裁きの宗教」ですよね。
 善悪があって、強い神がいて、それを裁く…
 なんかこういう裁き系の宗教だと苦しいな、と思ってしまいます。
 もちろん貧しい人、苦しい人こそ救われる、んでしょうけど
 なんか極端だな~というか…

 歎異抄で書かれているものを見ると
 もっと普段の生活の中で、
 善も悪もしていいんだよ、と言われているような優しさを感じます。
 悩んでもいい、怒っても泣いても苦しんでもいい、
 でも行き過ぎないようにしなさい、
 中庸にまた戻って来たらいいんだよ、と…
 そうやって、悩んだり苦しんだり悪を犯したりする私たちに対して、
 陰ながら、一緒に泣きながら見てくれている神さまがいるのかな、と思います。
 (キリスト教の神だと、悪をしている人は見捨てられそうなイメージがあります)

 さて来週はどんな内容なのかな…
 また勉強させていただきます。
 
 というわけで今回はこの辺で。
 
 
 
 
posted by Amago at 15:28| Comment(0) | テレビ | 更新情報をチェックする