2017年07月12日

NHKBS1スペシャル「ラストドライブ」

NHKBS1スペシャル「ラストドライブ」

 ドイツにはASBという団体が行っている
 「願いの車」という活動があるそうです。
 これは、終末期の患者に対し
 最期の願いとして、希望する場所に
 医療などの設備が整った車で連れていってあげるサービスで、
 ボランティアと寄付によりまかなわれているため
 無料なのだそうです。

 オランダでも行われているようですが
 この番組ではドイツでの様子を取材しています。
http://courrier.jp/news/archives/5086/
 によると、もともとオランダで始まった活動で
 オランダでは「アンビュランス・ヴェンス」という団体が行っているそうです。

 この団体の設立者は救急車の運転手だったそうですが、
次の出来事をきっかけにこの活動を始めたそうです。

  ある日末期患者を転院先の病院に搬送中、病院の都合で待ち時間ができた。
  そこで、患者に行きたい場所はないかと聞くと、
  患者さんは元船乗りで、港に別れを告げたいと言ったそうです
  連れていくと患者さんは1時間をそこで過ごし、涙を流していた

 今ではこの活動はベルギーやイスラエル、スウェーデンにも広がり、
 同様の団体が設立されているらしい)

 この番組では、実際に旅に行く高齢者もですが、
 手助けをするボランティアたちの思いや事情、
 緩和ケアに携わるホスピスのスタッフや医師の話も盛り込まれ、
 深みのある構成になっていました。

 前半は西部のエッセンという町の支部で
 一人のおばあさんのラストドライブが主な話でした。
 後半はもう少し話が多彩でした。

○エッセン支部のラストドライブ
 ・ラストドライブの仕組み
  ラストドライブは、救急車を改造した車で行われるそうです。
  元々救急車なので酸素ボンベなど、もしもの時に備えるための設備は備わっている

  また、乗客が外を見られるように改造して窓を付けたそうです。
  (普通は救急車は窓がない)
  窓際にベッドがあり
  寝たきりの人でも乗られるようになっています。

  この支部では、コーディネートをするスタッフが3人いて、
  ドライブの付き添いをするのは80人の登録ボランティアなのだそうです。

  ドライブの乗客は、ホスピスで余命を過ごす人たち。
  私自身はホスピスを見たことがないので知らなかったのですが、
  ホスピスは治癒の見込みがなくなった人たちが、
  最期を安らかに過ごすための施設なようです。。

 ・今回のドライブ
  今回のドライブは84歳のマグダレーネさん
  気管支のガンで、脳に転移している、とのこと
  彼女は当時、高齢者のホスピスにいました。
 
  願いの車のスタッフは、ホスピスのスタッフから電話で依頼されるのですが
  「海岸に行きたいらしいの。
   夫とよく行ったそうよ。
   でも夫と行ったところは行きたくないって」
  となんかワケアリっぽいものの
  「分かったわ、カトウェイクならいいってことね」
  と近くの海岸を手配する。

  本人に他に希望がないか聞くため、
  スタッフがホスピスを訪ねると
  どうやらヘビースモーカーのおばあちゃんのようで
  喫煙所にいました。
  あんまり愛想はないけど、
  「本当に乗せてくれるのかい」
  「北京ダック食べたい、ポテトはいらない」
  と率直に希望を言う、さっぱりした感じのおばあちゃんでした。
  このホスピスでは過去にこの願いの車を利用された方は20人くらいいるそうで
  このおばあちゃんも知っている感じでした。

  事務所に戻ったスタッフは他のスタッフと打ち合わせる
  「サンドラがいいわ、彼女はこの日空いてるから」
  「乗客には付き添いの家族がいないの」
  「分かっているわ、ペーターをつけましょう、彼なら適任よ」

  サンドラさんもペーターさんもボランティアですが
  サンドラさんは元看護士で二度目のドライブで新人
  ペーターさんは元ソーシャルワーカーでベテランだそうです。

 ・スタッフのサンドラさん
  サンドラさんは元看護士ですが、仕事に燃え尽きて今は休業中だそうです。
  「私はこの国で、豊かな暮らしや幸せな家族に恵まれた、
   だからお返ししたいのです」
  「乗客から、楽しかった思い出や、美しかった風景の話を聞きたい、
   最後は笑顔になってくれると嬉しい」
  と話していました。

 ・最後のドライブ
  スタッフはこの2人と、運転手として元消防士のクラウスさん
  彼は救急救護の資格も持っているそうです。

  ホスピスにマグダレーネを迎えに行くが、彼女はそっけなくサンドラを迎える
  しかしサンドラは笑顔で対応していました。
  車に乗ると、運転席にクラウス、助手席にペーター、
  後部の所にサンドラが乗り、マグダレーネの話し相手になっていました。
  
  落ち着かない様子のマグダレーネに
  「好きに過ごしていいわよ」とサンドラは言うが
  「こんな贅沢するの、誰だって気が引けるわよ」
  「私もうれしいの」
  「なら、神に感謝しようか」

  「あんたの亭主は、あんたのしていることをどう言ってるんだい」
  「君のしていることは尊敬に値するって」
  サンドラが夫の画像を見せると
  「いい男だね」

  向かう先は国境を越えたオランダの海
  そのうちマグダレーネの亡くなった夫の話になりました。
  「いろいろあったよ」
  「夫が死んでもう19年だ、夫はガンで死んだ」
  「うちは子供に恵まれなかった、私も諦めた」
  などとぽつぽつ話し始める
  「いい思い出もあったでしょう?」とサンドラが聞くと
  「ないね」
  聞くと、夫は外で女性と浮気していたのだそうです
  「あんたは子供いてよかったね、幸せかい?」
  「ええ」
  「今の幸せを大切にしな、先のことは誰にも分からないから」
  
  カトウェイク海岸に到着。
  「車いすを変えよう」
  この海岸には、タイヤが太い砂浜向けの海岸が無料で借りられるそうです。

  というのは、オランダでも似た活動をしている団体がいて、
  海岸のスタッフがその活動に賛同し、
  支援するために、コミュニティで買ったのだそうです。
  海岸のスタッフは
  「これがなかった頃は、みんなテラスに座っているだけだった」
  「お金はいりません、何もいらない。
   簡単なもので誰かを幸せにしたい」
  と話していました。

  マグダレーネもその車いすに乗り、海岸近くまで連れて行ってもらう
  海風がきつそうでしたが
  「タバコが吸いたい」
  というので、みんなで体を寄せ合って風よけを作り、火をつけてあげる
  マグダレーネは
  「風が強いからよく見えなかったよ」
  と言いながらも
  「北京ダック食べよう」

  そして、ランチをしにカフェに移動しようとしたとき
  マグダレーネは突然
  「夫はいつも、お前は家にいろといった」
  「別れられなかったの、首を絞めたから」と話し出す
  ペーターが「ひどいな」というと
  「お前は別れられない、と首を絞めた」
  「夫が死んだあとは貯金は一銭もなかった、あると思ったのに…
   私は夫と母の介護をして、私も脳卒中を起こして…
   こんなの誰にも話したことはない、愚痴は嫌いだから。
   愚痴じゃないよね?」

  ペーターは後で
  「彼女はあのとき、暗い記憶を吐き出したんだ、
   背負っていた重い荷物を下ろしたのかも。
   でも結婚生活はそれだけじゃなかったはず、
   もし暗い思い出だけなら、最後にオランダの海は選ばなかっただろう」
  海は選ぶけど、夫と一緒に行った海を選ばなかったのは
  彼女の中の幸せと辛さの複雑さを示しているのかもしれない、とのことでした

  さてそのあとはランチ。
  ペーターはお店のスタッフに
  「彼女は今ホスピスにいて、この食事は最後の願いなんだ」
  とこっそり説明する
  「彼女は幸せね」とスタッフもうなずく
  
  マグダレーネはお望みの北京ダックを前にして
  「味はどう」「すごくうまい」
  表情には出ていないけど、彼女なりに冗談を言っていました
  「ホスピスの食事は?」「脱走したい」(笑) 
  「前に行っていた中国料理屋はもうお店を閉めた、
   オーナーが自分で撃ったカモを出していたんだ」
  などと話していました。
  「結婚は長い旅だ、一緒に歩く人はほしいけど、もう結婚はこりごり」とも…

  デザートなどもいただき、
  最後にオーナーさんが花火をお皿に乗せ
  そのお皿に「ようこそマグダレーネ」と書いて出してくれるサプライズ。

  オーナーさんは
  「私も二年前、父を亡くしたので特別な思いがある。
   いい時間を過ごしてくれたらうれしい」
  と話していました。
  彼女は中国系の方みたいで
  「アジアにもこういう活動があればいいが、人数が多いからできないかな」
  とも言っていました
  
  帰ってきたのは午後9時半と遅かったが、
  付き添った3人も「いい仕事だった」と話していました。

 ・マグダレーネのそのあと
  後日、ペーターがマグダレーネを訪ねていました。
  「犬が好きだと言っていたから」
  と自分の犬を連れていく
  「ほかに望みはないか聞きに行く、これは僕の義務だと思うんだ」
  とのことです

  彼は自宅からの運転中
  「人と関わることに興味があるんだ」と話していました。
  でもその理由を考えていると、
  「僕は問題の多い両親の家に育った」と話し始めました。
   父親が強権的な方で、
   いつも暴力を受けて育ち、誰も助けてくれなかったそうです。
   その辛い体験があるので、
   自分と同じく暴力や虐げを受ける人を見ると助けたくなるのかも、
   ソーシャルワーカーを目指したのもそうかもしれない、と。

  さてマグダレーネを訪ねましたが
  「もう望みは何もない、と言われたよ。
   墓場の方を指していた、もう死を受け入れたということだ」

  また、ホスピスのスタッフによれば
  痛みが広がり、隣人に当たったり暴力を振るうようになった、とのこと
  「彼女は親族が遠くにいて、今は交流も途絶えている
   彼女は絆が壊れているのです」
  
  しかしサンドラは
  「彼女は最初はひどく不愛想だったけど、
   旅の中でだんだん心を許してくれてうれしかった、
   辛い過去も含めて、彼女の人生に触れることができてよかった」
  と話していました。
  そして、サンドラはこの活動に何かを得たのか
  「6月から仕事に復帰します、
   末期患者の関り方を改善する仕事です」
  と話していました。

  マグダレーネは、ラストドライブの17日後に亡くなり、共同墓地に葬られたそうです。

 ・願いをかなえられない人もいる
  このホスピスにはほかに10人程度の高齢者がいるそうです。
  その中にディーターさんという80歳の元船乗りがいましたが
  彼は
  「私の願いはもうかなえられない」
  と話していました。
  彼は昔乗っていた船にまた乗って、世界一周の船旅をしたいそうです。

  彼はこの船は最高だ、といい、
  引退して船を降りた後も、停泊場に見に行くほど好きだったそうです。
  しかし、この船はもう解体され、今は近代化される予定なのだそうです。
  昔の船にはもう乗れない…
  ホスピスのスタッフは、思い出話を聞いていました。
   
  このホスピスは人がなくなると、哀悼の意を示すリボンをその人のいたドアに結びつける
  また、ご遺体が搬送されるまで、玄関先にキャンドルをともすのだそうです。
  そうして葬儀屋さんがご遺体を搬送されるのを見送る
  「これが日常です。
   永遠の命などない、私たちはみないつか死ぬ、ということを教えられます」
  とスタッフさんは淡々と話していました。

前半はここまで。

〇ミュンヘンのASB支部
 ここの支部は去年6月にできたばかりで、1年もたっていないそうです。
 スタッフの方は
 「本人や家族にとっては、不安が重荷になることがある
  死期が迫っての遠出なので猶更です。
  私たちは、その重荷を肩代わりするのが仕事、
  医学的なこともすべて任せて楽しんでほしい、せめて1日だけでも…」
 と話していました。

 スタッフの方も精神的なバランスが必要なので
 月に一回、スタッフ向けのセミナーが開かれているそうです。
 ソーシャルワーカーさんがいて悩みを共有する
 
 この日は「共感と同情の違いとは何か」という話でした。
 ミュンヘン支部のスタッフは
 「私はある男性が、妻の付き添いで救急車に運ばれているのに遭遇したとき、
  その光景を見てパニックに陥りました。
  祖父母の記憶がよみがえったんです」
 ソーシャルワーカーの方は
  「自分との類似点を見つけると、
   自分の体験を呼び起こして、
   自分の感情を乗せて寄り添ってしまうことがある」
  「死と向き合うことは個人的なミスも多い、
   距離を置くことができずに、状況に溺れてしまうのは共感だろうか」
  という話をしていました。

  さてこの研修に参加していたボランティアスタッフに
  ウーシーさんという女性がいました。
  彼女は夫をガンで亡くしたが、生前この活動を利用したそうです。
  素晴らしい活動だと思い、ボランティアに参加した、とのこと
  しかしまだ夫との思い出を引きずっていて、ドライブには参加していないそうです。
 
 ・ウーシーさんの話
  彼女の夫は2年前に肺がんが見つかる
  すでにステージ4で、去年の5月にはホスピスに入る
  ガンは脊髄などにも転移し、運転もできなくなった

  彼は家に帰りたい、と言っていたが
  座席にも座れないし、足はがりがりに痩せて立つこともできな状態だった
  
  そのときにラストドライブを知ったそうですが
  このご夫婦は自宅へ帰ることを選んだそうです
  「彼はやっと家へ帰れる、と喜びでいっぱいだった
   きれいなシャツを着なくちゃと張り切っていたわ。
   私は家を掃除して、彼が贈ってくれたハートをガレージ飾り付けた」
 
  お隣さんがそのとき撮ってくれた、という写真を見せてくれました。
  愛犬2頭と並んで映っている写真
  この夫婦はお子さんがいないそうで、
  犬が「私たちの子供」と言っていました。
  彼はこの時、喫煙も自由にできた

  しかしこのあと容体が悪化し、亡くなったそうです
  「願いをかなえた人たちは、大体二つに分かれる
   一つは楽しい思い出を語り、長く生きる人、
   もう一つはホスピスや病院に戻って崩れ落ちる人」
  後者はもうしたいことはしてしまった、と脱力状態になる
  彼女の夫も、好きなコーヒーやタバコも飲まなくなってしまったそうです
 
  「彼は家に帰って、なぜ自分がホスピスにいるのかを悟ったのです、
   彼の病状では在宅治療は無理だと。
   夫は家で死にたかったのだと思います」

  彼女は、ボランティアにはなったが
  夫の死から立ち直れておらず、
  まだドライブに同伴する気にはなれないそうです。
  冬まではうつ状態だったそうです
 
 ・復活する命、限りある命 
  取材をしていた時、ちょうどイースターの時期で
  みんなカラフルな卵を飾り付けていました。
  復活祭は日本ではあんまりなじみがないですが
  貼り付けにされたキリストの復活を祝うお祭り
  復活の象徴として、卵を食べたり飾ったりするのだそうです。

  よみがえる命と、限りある命…

  ここで葬儀屋の社長さんのインタビューがありました。
  彼は墓地に好きなお墓を作ってもらっているそうです
  「悲しいふりをしなくてもいい」
  野原の所にどこでも好きなお墓を作れる
  ギターを飾るなど、ユニークなお墓もありました。 

  彼は「難しいのは勘違いと共感です」とも話していました。
  ご愁傷様、と知らない人にも言って同情するふりはできる
  それは優しい習慣ともいえるが、
  哀悼の意を示す手段は時代とともに移り変わる、
  というような話をしていました。

  (葬式や悲しみなどという形だけのものではなく
  その人なりの哀悼の仕方があればそれでいい、ということでしょうか。

  私も人が亡くなっても葬式などで泣けない人です。

  何だろう、元々、
  人の人生は人の人生、自分の人生は自分の人生、死ぬときはみんな一人、
  という割りきりみたいなのもあるし

  私が死んだとしても、
  あなたの人生はまだ続くんだから楽しく生きてよ、悲しまないで、
  と思ってしまう。

  昔は自分は冷たい人間なんだろうかと、
  それに罪悪感みたいなのがあったけど
  哀悼とか悲しみの表現は人それぞれだと言われると少し楽になります)

  この葬儀屋さんの建物の中には、不思議な絵が飾ってありました。
  20枚くらいの一連の絵なのですが
  「これは母親の棺のそばで4日間過ごした娘さんが描いた絵」
  だそうで、

   最初はカオス的な線がバラバラになった絵
   それが次第に形を作り、母親の顔になっていく
   しかしそれがまたバラバラになり、線や点は消えていき、
   最後は何も書かれていない白い紙になる 

  …という一連の作品です。
  「死は最初カオスから始まる」というような解説をしていました。

  そこに夫のお墓参りをするウーシーの姿もある 
  彼女は
  「私も一人になって、最期にホスピスに入ったら、願いの車を利用するかもしれない、
   でも今は手伝う側にいたい
   暗い冬を超えた後は、日の当たる屋外に出たくなる、
   人のためになることをしたくなる、と話していました。

  ASBのスタッフも
  「彼女がやりたいと思ったら、ドライブには同乗してもらおうと思っています。
   私がかつてなったように、彼女もパニックに襲われる時が来るかもしれない。
   でも彼女はそれで共感を知るだろう、と思います」
  と話していました。

 ・緩和ケアをする医師の話
  緩和ケアをしている医師の話もありました。
 
  彼のいる施設では、3台の車を使って在宅治療をしている患者のために
  緩和ケアを往診で行っているそうです。
  患者や家族からの電話に対応する看護師スタッフも常駐している

  この日は、クロアチアに帰りたいという患者さんからの相談がありました。
  その患者は30年間ドイツに在住していたそうですが
  どうしても死ぬ前に故郷に帰りたい、と言っているのだそう

  彼はASBのスタッフに電話で相談していましたが
  スタッフは
  「国境までは車では遠いし、領事館での手続きも時間がかかる。
   外国だともしもの時に、国内のようにはすぐに対応できない」
  と難色を示すが
  「とりあえず、できるかどうか検討してみるわ」
  といって電話を切っていました。

  結局、この患者さんは願いの車を利用せずに、
  自分で飛行機でクロアチアにわたったそうです。

  この医師は
  「医学は死を避けようと、死と戦ってきた
   でも僕たちは死に寄り添う分野です。
   誰でも最後は死ぬし、それは助けられない。

   どう生きるかを、いつも考えることが大事です。
   死を意識して生きていれば、輝く生を生きられる
   願い事はほったらかしにせず、元気なうちにかなえておけばいいんです」
  というようなことを言っていました。

 ・末期がん患者の覚悟
  この医師が往診する患者さんは、一人暮らしの女性で
  今は娘さんがいる、ということでした
  末期の肺がんで、余命は分からないが、3週間くらいか…とのこと
  
  「今は痛みはないし、読書もできるけど、いつまで続くかしら」
  というこの患者さんは
  「在宅で治療するのが、娘に迷惑をかけるのではないか」
  と医師に相談していました。
  「一時的にホスピスに滞在する手はあるよ」
  と彼は言っていました。
  女性は
  「もし一時的にって行って長生きしてしまって、
  本を沢山持ち込んで半年も居座ったら迷惑ではないか」
  といっていましたが
  医師は「緩和ケア病棟は期間の制限はあるが、ホスピスは制限はない」
  と説明していました。

  娘さんは
  「母はお葬式の時に配るカードも用意している」
  と話していました。

  彼女は1年半前に母親の病気を知り、喪失感に襲われたそうです。
  しかし当人はすべての手術も延命治療も拒否し、
  淡々と死に備えた準備を進める
  「私の方が参ってしまった。
   私は母に長生きしてほしいと思ったけど、
   母の人生ではそれは終わったんです」

  医師はこの往診の時
  「ASBという団体がやっている望みの車の申し込みをすれば、
   希望している場所に連れて行ってもらえるよ」
  と願いの車を紹介していましたが
  彼女は
  「いいの、私はもう思い出だけで十分よ、
   そんなロマンチストじゃないわ」と断る
  「私が望むのは痛みがなく過ごせること。
   そして時々あなたが「こりゃあひどいな」とかいうのよ」
  「こりゃひどいな、なんて言ったっけ?」(笑)
  という会話をしていました。

  彼女の中では、人生に思い残すことはもうない…と思っているようです。

〇エッセンのラストドライブその2
 次にエッセンに戻ります。
 もう一つのラストドライブに同行していました。
 
 ASBのスタッフ同士の会話では
 「この患者さんは、若いけど末期がんで、もう寝たきりで移動できない
  胃がんから体中に転移して、今は脳、肺、肝臓に転移してかなり進んでいる」
 この患者さんはカリタス・ホスピスというところにいる
 トルステンという50歳の方でした

 彼は
 「病気は1年前に知った、手を尽くしたけどダメだった」
 病室には女性との写真が飾ってあり
 「恋人だよ」
 と教えてくれました。
 「職場で知り合った」
 「一緒にスポーツするのが好きだった」
 「自転車に乗ったり山登りをしたりした」
 そして
 「ウンターバッハ湖で泳いだり散歩したり、いつもそこでデートしていた。
  美しい場所なんだ」
 
 彼の願いの場所は、ウンターバッハ湖のようでした。
 
 恋人がお見舞いに来ていました。
 ドライブは次の日のようで
 「明日午後4時に病院を出発する、5時には君の職場に行く」
 と打ち合わせをしていました。

 「彼女と結婚したかったけど、もうかなわない
  かなわない願いならたくさんあるよ。
  世界一周もしたかったし、もっと生きたい」

 さて次の日。
 付き添いのスタッフは、
 マグダレーネのドライブに付き添ったペーターさんとクラウスさんでした。

 ペーターは
 「日曜にあったドライブがキャンセルになったんだ、
  乗客が亡くなったから」
 彼はしかし
 「これは起こりうること。
  オランダでは、旅の途中に6人か7人亡くなったと聞いている。
  もちろん僕たちも覚悟しています」

 ペーターとクラウスはトルステンの病院に行き、
 彼を移動用のベッドに乗せる
 外は晴天でした。
 「オーダーしといたんだ」とペーターは冗談を言っていました。
 もしもに備え、主治医の方も同行していました

 途中で恋人の職場の近くにより、彼女も同乗
 ウンターバッハ湖ではカフェがあるみたいで、そこを目指して走りました。
 
 カフェは窓ガラスが大きく、外の湖がよく見える
 ヨットをしている人もいました。

 ペーターが
 「最後の願いをかなえるボランティアです」
 とカフェにいる別の客にもパンフレットを配って理解を求めていました。
 「いい活動ね」

 お店の計らいで恋人にはワイン、トルステンにはビールが配られ
 トルステンは半起きの状態で器用にビールをのむ
 彼はツナサラダも頬張っていました
 サービスで出してくれたそうです

 カフェの方は写真も撮りましょうか、
 とみんなの集合写真も撮ってくれました。

 カフェの方は
 「私の両親はボスニアで生まれた移民です
  私はドイツで生まれ育ち、
  この国にチャンスを与えてもらった
  教育も就職もです。
  いいことはいいことで返す、
  それが続いていけばいい」
 と話していました。

 恋人は彼に
 「私たち、幸せなお客ね」
 としみじみ語る。

 「彼の病気で、私たちの日常はガラリと変わってしまった
  思い描いていた未来もすべて消えてしまった。
  でも私は前よりもっと彼を愛している、それは変わらない」
 と彼女は話していました。

 他のお客さんがいなくなったカフェで
 彼らは二人きりの時間を過ごしていました。
 夕暮れになり、彼女は湖畔を見て
 「こんな美しい風景は見たことがないわ」
 「また来ましょうね、
  今度は外で、テラスのあの辺りで
  またきっと来れる」
 叶うことはないのだろうけど、そう思いたかったのかもしれない。

 彼はラストドライブの24日後に亡くなったそうです
 彼と彼女が大好きだった、美しい湖畔の映像で番組が終わっていました。

○感想など
・ASBとはArbeiter-Samariter-Bund(労働者サマリア人連盟)
 という団体みたいで
 ホームページにも願いの車プロジェクトについての紹介がされています。
 全部ドイツ語なので読めませんが(笑)
 この団体自体は1888年に設立された結構老舗の慈善団体なんだそうです。
 名前のサマリア人は、聖書の「善なる人」を指す「善きサマリア人」から来ているようですね。

・ボランティアさんのサンドラさん、ペーターさん、ウーシーさんたちも
 それぞれ心に何かを負っているのが印象的でした。
 彼らのその後もちょっと気になる。

 それにしても、いろんな人が
 「自分は恵まれているから、他人に恩返ししたい」
 と自然にいうのがちょっと驚きました。

 宗教的な影響なのかな?
 日本の場合、他人には親切にするけど、
 どっちかいうと
 「当たり前だから」
 あるいは
 「おてんとさんが見てる」
 みたいな感覚で、
 恩返しの順送り、ていう大きな発想は無いように思う。
 (渋沢栄一さんのような社会的な成功者には、
 社会に貢献したい、恩返しせねばという発想の人は多いだろうが)

 でもこれってけっこういいかもと思いました。
 親切って、するのが難しい。
 ありがた迷惑にならんかなとか
 でしゃばりすぎかなとか
 相手に貸しを作ってしまうかなとか
 色々気にしてしまう。
 相手からお礼の言葉が無ければ無いで
 何となくわだかまりを感じてしまうし…
 (私は器の小さい人間です(笑))

 受けるときも、こそばゆい感じというか
 自分がこんなん受けていいんかなとか
 後で返さないといかんかなとか思ってしまうけど

 恩返しの順送りと思えば
 今は自分が受ける番だけど、次に誰かに返そうと思えるし、
 親切にした相手から見返りやお礼が無くても、
 これはいつか誰かから受けた親切の恩返しなんだ、と思えるのかな、と。

 恩返し、という発想は見習いたいです。

・緩和ケアの医師のいう
 「願い事は元気なうちにかなえておけばいいのです」
 という言葉にははっとさせられました。

 船乗りさんのように
 あるいは最後に出てきた、若い末期ガンの患者さんのように
 何かをやりたくても、できないものを残してしまう人もいる…

 極端な話、明日死んでもいい、
 と毎日思えるような生活をせねばと思わされた。

 そう言えば、たしかスティーブ・ジョブズも似たようなことを言ってた気がする。

 (「If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?」

 もし今日が人生最後の日だとしたら、今やろうとしていることは本当に自分のやりたいことだ ろうか?
 でした。)

・余命がわずかと知り、自分のお葬式などの準備を淡々と進めている母親には
 個人的には好感を持ちました。

 死に方、死の迎えかたは人それぞれ考えはあるのだろうけど、
 私も死を前にしたら、あれくらい潔くなれたらと思う。
 行きたいところは元気なうちに行ってしまい、
 行けなくなったらもういいわと諦めるという生き方をしたい。

・願いの車はいい活動だが、
 日本だと、何かあったときに、責任がどうとか騒がれそうだなと思います。

 そもそも担い手となる、ソーシャルワーカーなどの介護福祉のスキルを持つ人が少なそうだ。
 日本って介護福祉関係の仕事はキツい割りに給料低い、みたいなイメージがあり
 最初からなりたがる人が少ないから層も薄そう。
 もう少し地位が与えられればいいのにと思います。

 もしくはこういう活動が広まって、
 介護福祉職の重要性が理解されるようになったらいいのかもしれません…

最初は変わった活動だな~と思ったけど、考えさせられるものがありました。
というわけで今回はこの辺で。

posted by Amago at 10:16| Comment(2) | テレビ | 更新情報をチェックする

2017年07月10日

関ジャム 完全燃SHOW「勝手にミスチル論 プロが見たモンスターバンドの功罪」

関ジャム 完全燃SHOW「勝手にミスチル論 プロが見たモンスターバンドの功罪」

関ジャニ∞のバラエティ番組でした。
この番組見るのは初めてなんですけど
この回は勝手にミスチル論を展開するということで
独身時代に熱心なファンだった身としては見ずにはいられませんでした(笑)

っていってもここ10年くらいの歌はあんまり知らんのだが…。
それでもあーわかるわかるーって感じで面白かったです
(記憶を頼りに書きますので間違いあったらすみません)

ちなみにこの番組、ご本人たちが見るかは不明だが、
差し入れはあったそうです(笑)

分析されていたのは
プロの作詞家さん、プロデューサーさん、歌手のスキマスイッチさんでした。
スキマスイッチさんはapbankのツアーなんかにも参加されています。

皆さん
「何をしてもミスチル意識してるでしょ?と言われる」とか
「影響力が強すぎて、ミスチル聞いてる、っていうのが恥ずかしかった」
というコメント。

ゲストには千鳥のノブさんもいましたが
彼も大ファンだそうで、コメントには力が入っていました(笑)
最初は歴代の有名曲いくつかを流してくださって、懐かしくて感激でした。
その曲を聞いていた当時の自分も思い出しますね~

さて、まず作詞家さんの分析。
・ミスチルの歌は歌詞をメロディーに無理矢理詰め込む
 普通はメロディーに歌詞を合わせるとき
 音符と音の数は一致させる

 なので普通は同じメロディーの部分なら、
 一番の歌詞と二番の歌詞の音の数はだいたい同じになる
 (例えば、とんぼのめがねは「きいろい」めがね、と「あかいろ」めがね
  は数は同じ)

 しかしミスチルの歌の場合
 歌い回しを変えることで無理矢理歌詞を詰め込んでいる

 例として「名もなき詩」の歌詞を挙げていました。
 「ちょっとぐらいの汚れ物ならば」
 「たまに情緒不安定になるんだよ」
 同じメロディーだが、文字数が違う。

 特に後者は、普通に歌ってたら明らかに入らないのよね。
 「しかしそれを次に他の人が歌っても自然に真似できますよね、
  それがスゴいところ」

 特にこの歌の大サビでは
 「成り行き任せの恋に落ちて
  ときには誰かを傷つけたとしても
  そのとき心痛めるような時代じゃない」

 と無理やりもいいところで、かなり歌いにくいのですが
 みんなカラオケでは頑張りますよね(笑)

 (ちなみにこの歌が出たころ、私はミスチルを聞き始めたころで
  「歌詞見ないと何言ってるか分からんし、真似できん」
  と言っていたら、ミスチルを勧めてくれた方は
  「桜井さんって歌詞を無理矢理詰め込むのよ。
   でも2番目の音を伸ばすとだいたい歌える」
   と言っていたのを思い出しました。
  (後でプロデューサーさんが「ミスチルわり」と勝手に呼んでいます…)
  何回か聞くとヒアリングできるんですけどね(笑))

 しかもこの早口でいろんな言葉を詰め込むのは
 メッセージを力強く伝える効果もあるそうです。
 「長いメロディーの中に少ない言葉を入れたら、間延びするでしょう?
  短い言葉で言い切ることで力強さを与える効果がある」
 なるほど。
 
・ありふれたテーマを名曲にする
 これは「常套句」という歌の歌詞を例に挙げていましたが、
 これは
 「きみに会いたい」
 ということをひたすら歌っている歌です。

 似たような歌に西野カナさんの
 「会いたくて会いたくて」
 があるが、この歌は
 「会いたくて会いたくて震える」となっている

 この「震える」という日常的でない言葉を使っているのがミソで、
 このようにスパイスになるものがないと
 「会いたい」がありふれすぎて曲にならないらしい
 しかしミスチルの場合、これをちゃんとした名曲にしているのがすごい、とのこと。

 まあただこれは、ある程度キャリアや年齢を重ねて、
 大御所的な立場になったから出せる歌、なのかもしれないですけどね…
 (新人がこう歌っても、「ふーんそれで?」となるかもしれない)

 たしかに、ミスチルってインパクトある曲もありますけど
 意外に地味な「スルメ曲」も多い。
 最近の「ヒカリノアトリエ」もその類だとは思うのですが
 それも何でもないようなことを歌っているので、
 最初はだから何だとも思うのだが
 だんだん聞いていくうちに、その内容が聞き手の生活に重なってきて、
 なるほどそういうことかとジワジワ来るんですよね。

 それから、
 「常套句」というタイトルの付け方もセンスがあるそうです。
 「並べてみたら普通のことを歌っているなというのを
  自分が客観的に見て付けたタイトルが「常套句」」

 スキマスイッチさんは
 「皮肉にも聞こえますよね~、みんなこう歌うけど僕はこうだよ、みたいな」
 実力があるからこそできる技?

 関ジャニも「俺これなら「会いたい」ってつけるわ」と言って
 ゲストの古田新太さんに「ダサいわ」と突っ込まれていました(笑)

 次にスキマスイッチのボーカル担当の大橋さんの
 ボーカリストからみた分析。

・普通ボーカリストは歌によって歌い方を変えることはするが
 桜井さんの場合、歌の中のストーリーに合わせて変えている

 一番現れている歌として「HERO」を挙げていました。

 この歌は最初は
 「誰か一人の命と 引き換えに 世界が救えるとして
  僕は誰かが 名乗り出るのを 待っているだけの男だ」
 という弱い自分の歌い出し。
 なので一番の「ヒーローになりたい」
 というサビもファルセット(裏声)で優しい感じに歌っている

 しかし大サビになると
 「ずっとヒーローでありたいただ一人君にとっての
  ちっとも謎めいてないし 今更秘密もない
  でもヒーローになりたいただ一人君にとっての」
 と喉を使って力強く歌っている
 これは強い気持ちを込めた表現になっている、とのこと。

 私もこの歌、最初ファルセットを使っているので珍しい曲だな、と思いました。
 それまでファルセットの歌って、無かったような…
 最初、高すぎて(あと脳梗塞の再発を心配して)声が出ないのかなと思ったのですが(笑)
 大サビで喉を使ってちゃんと歌っているので、
 これは意図的なものだなと。
 大サビがたしかに心にズーンとくるんですよね。
 
 この歌はたしか911のテロ、
 あとご自身の小脳梗塞の発症の後作られた歌だった記憶があります。
 それだけに歌詞の内容以上に、何か伝わるものがありました。
 優しさというか、弱く無名なものが持つ強さというのか
 うまく言えませんがそういうもの。

 それまで恋愛の不条理みたいな歌が多かったように思うんですけど
 「小さな手」
 という歌詞はお子さんのことなのかなとも思いました。

 あと、この当時桜井さんは
 「歌い方がもっと上手になりたい」
 とか言っていたような覚えがあります。
 「もっと優しい歌い方とかできるようになりたい」と。

 たしかに桜井さんって、
 力強い歌声がウリみたいな所があったけど
 それとは違う、弱いものが持つ強さとか、醜いものが持つ美しさとか
 そういうものを言葉だけではなく、歌い方でも表現したいと思うようになったのかな…
 などと思いました。
 これ以降の曲にもファルセットはたびたび登場していたような気がします。

 さてもう一曲挙げられていたのが「タガタメ」
 この曲は日常の何気ないところから始まり、
 世界平和へ話が繋がっていく曲。

 最初は
 「ディカプリオの出世作なら
  さっき僕が録画しておいたから
  もう少し話をしよう」
 という出だしで始まるのですが
 この部分は語りかけるような感じで歌っています。

 しかし大サビの 
 「タタカッテ タタカッテ (戦って 戦って)
  タガタメ タタカッタ (誰がため 戦った?)
  タタカッテ ダレカッタ (戦って 誰勝った?)
  タガタメダ タガタメダ タガタメタタカッタ! (誰がためだ、誰がためだ、誰がため戦った?)」
 というところではのどをしめて、絞り出すように、叫ぶような感じで歌っています。

 歌い方を変えることで、場面の切り替えを表現しているし、
 最初語りかけるように歌うことで、
 最後の叫びのようなメッセージがより引き立つという効果もある、とのこと。

 さらに作詞家さんの指摘によれば
 「平和をテーマにした歌って作るのが難しいんですが、
  この歌はそこをうまく表現している」
 平和をテーマにすると、普通に作ると説教くさくなるそうです。
 この歌は日常生活から始まり、
 世界平和というテーマにたどり着くけど、
 普通はここを繋げるのが難しいのだそう。

 「この歌は、このつなぎを最短ルートで最も効果的に行っている」
 どういうことかというと
 最初は
 「ディカプリオの出世作なら
  さっき僕が録画しておいたから もう少し話をしよう」という日常の話

 その次は
 「この星を見てるのは 僕と君とあと何人いるかな」
 と星を見上げる
 今いるのは個人的な空間だが、見上げる星は公のもの

 そして
 「ある人は泣いてるんだろう ある人はキスでもしてるんだろう」
 と言うことにより他人に思いをはせることになる

 そして
 「子供らを被害者に 加害者にもせずに
  この街で暮らすため まず何をすべきだろう?」
 と自然に周りの平和の話にもっていく…

 という素晴らしい流れなのだそう。

 しかも作詞家さんの指摘によれば
 「本当に最短にするなら、
  ディカプリオの出世作、から
  ディカプリオの戦争映画の話にすればいいんですけど、そうしない」
 自分たちの日常と平和を結び付けたいから、そういう流れになった
 という感じの話でした。

 ちなみにこの歌は、
 実際に子供が子供に被害を与えた事件(何かは忘れた)を受けて
 「自然に生まれてきてしまった歌」
 として急にリリースされた記憶があります。
 ですので最初はたしか普通のCDではない、限定配信かなんかだったような…

 聞いてみたら本当にアレンジなどはシンプルで
 歌っていうか、ほぼ心の叫びなんじゃないかと思うもので、びっくりした記憶があります。

 もともとミスチルさんの歌って、
 歌を作っているというよりも、
 桜井さんが心にしまいきれない何かが、抑えきれずに出てきてしまったもの
 あるいは、何かに押されて世の中に出てきてしまったもの、
 みたいな印象があるのですが
 (桜井さんも、歌が降ってくる、みたいな表現をしていたと思います)
 それを一層感じさせるような歌でした。
 前回のアルバムの「Reflection」の「starting over」と「足音」も
 同じように「何かに押されてできた」感じでしたね…

 渋谷すばるさんなんかは
 「無理そうなキーであえて歌っている、
  その歌い方が、心をえぐられる印象を受ける」
 と話していました。

 まあ、でもそういう歌い方で25年歌っていけているというのは
 相当強い喉の持ち主なんだろうなぁ。
 桜井さん、喉大丈夫?

 さて次はプロデューサーさんの分析です。
 彼は主にアレンジとかメロディーの分析。
 「ミスチルはポップスの王道を行っているように見えるが、
  実は王道を壊す革命児」
 とのことです
 彼らは、ポップスのセオリー通りに曲を作ってないそうです。
 具体的な例として「終わりなき旅」をあげていました。

 コードのことはよく知らんから感覚的に書きますが
 この曲は最初から最後までギターが「ベンベンベンベン…」と鳴っています。
 
 普通は伴奏のギターは変化を持たせるそうですが
 この曲はそんなセオリーをフル無視し
 ひたすら「ベンベンベンベン…」と同じコードなのだそうです。
 (私の知り合いには、このベンベンがうるさいという人もいました(笑))

 プロデューサーさんの分析によれば
 「これは、終わりなき旅を行く足音を表現しているのではないか」とのこと。なるほど。
 
 さらにこの曲は全部で9回も転調しているそうです。
 最初のイントロから「息を切らしてさ」の歌詞に入るときに、まず転調している
 そこから「閉ざされたドアの向こうに…」というサビに入るところでも転調している
 
 プロデューサーさんによれば
 「これは、人生の旅の中で、いろいろ起きる変化を象徴しているのではないか」
 とのこと

 確かにこの曲、ギターでちょっと弾いたことがあるけど
 (しかし指が届かないので挫折しました(笑))
 変わった曲だなと思っていました。急に調が変わるのですよね。
 歌う時でも、最後の大サビでは3回?何回かわからんけど転調していて
 どんだけキー上げるんだと思ってしまう(笑)
 しかしその展開が、
 いろんな旅路の果てにつかむ希望のある未来、という印象を与える。
 私はこの広がりが大好きで、
 これを聞くと何があってもよしやるぞという気分にさせられます。
 一番といってもいいくらい好きな曲です

 ミスチルさんの曲って、ほかにも転調するものが多いなと思います。
 昔の「LOVE」なんかも、
 特に最後の「いいじゃないそれもまた一つのLOVE LOVE LOVE」
 の最後の「LOVE」1回ごとに転調だったかコードが変わるかなんかで、
 未来への展開を表現している、と聞いたことがある。
 でもそれがなんか自然というか、
 歌の流れからしたら必然に思えてくるのですよね。
 
 このプロデューサーさんによれば
 ミスチルさんはほかにも曲を出すたびにいろいろ挑戦しているんだそうです。

 例えば「深海」というアルバムでは曲間がなく
 すべてのアルバムが1曲、というコンセプト
 そのため暗い曲が多く、
 当時売れていた「Tomorrow never knows」などは入れていない
 
 常に王道を破壊するのが25年続けている秘訣ではないか、とのことです
 「Mr」王道だが、「Children」常に子供で何かを壊す
 という名前そのものだ、とうまいこと表現されていました。

 確かにミスチルさんって、いろんなものを常に取り入れているなという印象がある。
 ほかの音楽の真似っぽいこともしているし…
 (長渕剛さん調のもあったし、
  「ニシエヒガシエ」なんかはエルビス・コステロを意識したと聞いたことがあります。
  「コスモス」とか「斜陽」なんかは民族音楽ちっく?と思ったりもする)
 私はこういう、変化し続ける姿勢が大好きです。

 まあ、でもこれも毎回実験なので、
 もしかしたら本人的には不本意というか、意図どおりでもないときもあるのかもしれない。
 「光の射す方へ」なんかは、新しいポップスを目指すとか言っていたように思いますが
 その意図通りいったのかな…
 でもそこを恐れずにいろいろやっていくところ、しかも結果を出すのがすごいですね。

 ほかにはこのプロデューサーさんは
 「ミスチルわり」なるものを指摘されていました。
 簡単に言うとタタータター、というリズムが多い(2音目を伸ばす)のだそうです。
 その方が歌いやすいのかな?

 次にスキマスイッチの常田さんは
 長年ミスチルのプロデューサーをされていた
 小林武さんのキーボードのアレンジについても話をしていました。
 「口笛」という歌なんかでは
 最初のキーボードの掛け合いが曲に変化をもたらしています。
 「僕なんかは、小林さんに「盛り込みすぎ」と言われる」のだそうです。

 最近はミスチルさんもセルフプロデュースするようになってきたので
 小林さんから離れてまた新しいものが出てくる可能性はありますね。

 それからサポートメンバーをされている小春さんがゲストに出ていましたが
 「結構戦略家」
 という話をしていました。
 ツアーでも、前のツアーのアンケートを参考にして次の曲順を決めるとか
 こういう効果があるからこのアレンジを使うとか
 いろいろ戦略的に曲を作っているそうです。
 直感的に作っていそうだけど、いろいろと考えていらっしゃるとのこと。

 また、「ほかの3人の存在も重要」
 とも指摘されていました。
 この3人がいないと、自由に曲が作れなかったんじゃないか、とのこと

 たしかに4人の雰囲気を見ているとそう思う。
 なんかバランスがいいし、自由にやれてそうな感じを受ける。

 ちなみにミスチルさん、「himawari」という曲が7月に発売されるそうです
 (「君の膵臓をたべたい」の主題歌)
 宣伝のための番組だったのかな?
 ツアーもあるみたいですね。

 何気に見ていたけど懐かしくもあり面白かったです。
 これからも素敵な曲を生み出してほしいです。

というわけで今回はこの辺で。
 
posted by Amago at 12:28| Comment(0) | テレビ | 更新情報をチェックする

2017年07月09日

「菜食への疑問に答える13章」シェリー・F・コーブ著

「菜食への疑問に答える13章」シェリー・F・コーブ著

以前新聞の書評に出ていて気になっていたので借りてみた本です。

筆者は5年前から、
ヴィーガンという、動物性食品は一切食べない
(つまり、卵も乳製品も動物性油脂も全て食べない)
厳格な菜食主義者だそうです。

この本はなぜ菜食主義なのか、
という理由を
「なんで動物はダメで植物はOKなの?」とか
「お肉がないと美味しくないんじゃないの?」
あるいは
「ほかの動物もお肉を食べるでしょう」
など、
菜食主義者ではない人が抱きそうな素朴な質問に答える形で、
論理的に考えようとしています。

私自身は菜食主義ではなく、
菜食主義の人も周りにはいないので
彼らは自分の健康のため、あるいは嗜好でそうしてるんかな~、
とか勝手に思っていました。

しかしこの本を読んで
問題はそんな軽いものではないということを知りました…

食べること、命を奪うということは何かを
考えさせられた本です。

ちなみに訳者の井上太一氏も菜食者で、
動植物の倫理について考えている方だそうで
彼自身の意見も随所に書かれていました。

あと、菜食主義者、と言っても程度によりいろいろなので
この本では
ヴィーガンの人は「菜食人」
それ以外の菜食主義者(例えば肉は食べないが卵や乳は食べるなど)
は「菜食主義者」と区別しています。

というわけで内容から。
〇菜食人はなぜ菜食なのか
 最初に筆者は菜食主義の人がそうする理由について
 大きく三つある、と書いています。
 ・健康のため
 ・環境保護のため
 ・動物の権利を守るため

 最初の「健康」は、簡単に言えば
 動物性食品は生活習慣病の大きな原因となるから、ということらしい
 血が汚れる、という人もいますね。

 次の「環境保護」は、
 家畜を育てるのに消費する資源(その生き物が食べる飼料を育てるお金、手間、水、燃料…)
 あるいは家畜を育てるうえで排出される、水や大気の汚染
 などが、
 同じカロリーの穀物を育てるよりもはるかに大きい、ということらしい。

 そして最後の「動物の権利保護」
 は、これが一番詳しくこの本で扱われていることですが
 動物は家畜小屋という牢屋に閉じ込められ、
 卵や乳を取るために性奴隷ともいえる状態に置かれ
 と殺という手段により人間の都合で殺される
 そんな残虐行為に加担するのは耐えられない、という考え方のようです。

 しかし、特に最後の動物保護については、
 動物性のものを食べる人も菜食者も
 議論が感情的になりがちだ、と指摘しています。
 真実を知り、議論する態度が必要なのではないか、 
 そのためにこの本を書いたそうです。

 そして、「菜食主義者」がよく聞かれる質問について論理的に考える、という形で問題を提起しています。

 それぞれの議論については筆者が丁寧に書いてらっしゃいますが
 私のとらえた内容で書いてみます

質問は13個。
〇「動物がダメなのに、なぜ植物なら食べていいのか」
 これについては、筆者は食べていいもの、いけないものについて
 「情感」(sentience)を持つものと持たないもの、で線引きしているようです。

 動物については、痛みも感じるし、哀れみ、苦しみも感じている
 それは研究や経験で明らかである。
 痛みも苦しみも感情も、親子の愛情も感じる動物をどうして苦しめられるのか、と。

 「人間のように知性があるものだけが人権を持つ」
 という意見もあるが、
 それでは知性をまだ持たない幼子はどうなるのか?
 「幼子はいずれ成長したら知性を持つ」
 とするならば、
 それでは早死にする可能性のある障害者の子供などはどうなるのか?
 それでも殺すことはしないだろう、としています。

 いずれにせよ、動物も言葉はなくても苦しみがあればうめき声をあげて訴える
 彼らには知性がないとするのは短絡的だ、というようなことを述べています

 また逆に、
 「植物だって、切られたら何らかの防御反応をする、ならば苦しんでいる可能性はある」
 という意見もあるが
 我々も免疫防御システムはあるが、それを意識して行っているわけではない
 防御反応があるからといって、意識がある証拠にはならない、と述べています。

 植物に関しては「苦しんでいる可能性はある」が、
 それははっきり証明されているわけではない
 しかし、動物については苦しみ、感情、愛情を感じている事実、証拠はあるので、
 そこは尊重されるべき、としています。
 
〇「菜食主義になったら食べる楽しみがないのでは?」
 これについては筆者は否定しています。
 菜食主義でもおいしく食べられるレシピはある、とのこと
 筆者も食いしん坊だったので、
 菜食主義になると楽しみがなくなる、という恐れはあったそうですが
 知り合いにレシピを聞き、作ったりしているうちに
 それは杞憂だった、とわかったそうです。

 菜食主義の集いは、禁酒の人たちの集いと似たようなものと思われがちだが
 それも違う、とも話しています。
 確かに、どちらもその人たちと集まっている方が気楽、という共通点はある。
 しかし禁酒の場合、飲みたいものが見えないからホッとする、という感覚だが
 菜食主義の場合は禁欲しているわけではない
 むしろ、自分が見たくない肉の料理などが無いのでホッとする、という感覚らしい

 また、筆者は
 菜食人が、
 「楽しみが無くなるんじゃないの」
 と言われて
 「あなたは自分の快楽を、動物の苦しみより優先させるのか」
 と感情的になる人もいるのだが、それは
 「残念な反応」としています

 それは、人間とはそもそも快楽を優先させ、苦痛を避ける生き物であり
 それは菜食人とて例外ではない、と思う謙虚さが必要だとのこと

 動物性のものを食べるのをやめない人たちは
 自分を優先させる自分勝手な人などではなく
 動物性のものをやめたら楽しみが無くなるんじゃないか
 なにかが奪われるんじゃないか、
 という恐れのために決断ができず、習慣が変えられないだけのことで
 そういう気持ちも尊重しないといけない、
 とのことです。

 そのうえで、
 「そんなことないよ、美味しいよ」
 と気楽に言ってあげればそれで済むんじゃないか、と述べています

〇「肉を食べなくて、健康は大丈夫なのか」
 (後で調べたら、ネットではこれが結構論争になっているようですが)
 筆者はこれに関しては問題ない、としています。
 むしろ菜食の方が健康な生活を送れるのだそうです。
 動物性食品の摂取は、糖尿病や心臓病のリスクを上げる
 という疫学的な調査結果もあるそうです

 よくあるのは「タンパク質は足りるのか」という質問
 しかし野菜にも豆類にも十分タンパク質は含まれる
 菜食者のボディビルダーもいるそうです。

 また、「カルシウムはどうなのか」
 これも野菜で補えるそうです
 また、カルシウムは摂取することよりも、体に沈着することが大事
 動物性たんぱく質は、カルシウムの吸収を妨げるという結果もあるのだそうです。
 実際筆者の母親は、乳製品を沢山取っていたが骨粗鬆症になったそうです

 ほか「妊婦は肉を食べたがるが、これは赤ちゃんが鉄分を欲しているからだ」
 という意見については
 肉から鉄分などを取る習慣があればそう思うのかもしれない、とのこと
 鉄分も、植物には含まれる
 
 アメリカの栄養学会も、「菜食の食事はどの世代でも健康」
 という太鼓判を押しているのだそうだ
 
 ただしビタミンB12はサプリメントで補給しないといけないそうです。
 これは動物性食品に多く含まれているが
 動物が作るのではなく、微生物が作ったものを動物が摂取している
 なので、昔の人は土付き野菜からそれを摂取していたのだとか…
 それから日光に当たらない人は
 ビタミンDも接種したほうがいいそうです

 しかしいずれも、これらを強化した食品はすでに存在しているそうです。
 (アメリカの話なので、日本にあるかどうかは分からない)
 ほか、酵母パウダーをまぶして食べるのも効果ありなんだそうな

〇「卵や乳は食べてもいいでしょ?」
 菜食主義の中には、肉だけは食べないが卵や乳なら食べる、という人もいる
 これは、肉なら動物を殺すことがすぐに想起されるが
 卵や乳なら彼らの体を傷つけないイメージがあるのでは、ということです
 あるいは、いきなり野菜だけというのもきついので、
 卵や乳は取るというマイルドなやり方から入る、という人もいる
 
 しかし筆者によればこれは大きな誤解だそうだ
 卵や乳は、鶏や牛が自然に出してくれるもの、
 我々はそれをいただいている、というイメージを持ってしまいがちだが、
 我々は卵や乳を採取する際にも、動物たちを十分傷つけている
 というか、一瞬で殺すよりもっと大きな苦しみを与えている可能性があるそうです

 ここの章の描写は読んでいてかなりきつかったのですが
 確かに自分も子供を産んだので実感として分かりました。

 例えば牛が乳を出すのは、子供を産んで子供に与えるためで、
 妊娠によりホルモンが分泌され、その影響で胸が張る

 ですので、牛に牛乳を出してもらうために
 人間は牛を固定し、無理やり受精させる

 そうして子供を産ませるが、産んだ子供はすぐ母牛から引き離す
 もちろん母牛は産んだ子供を探し回り、嘆き悲しむ
 しかし人間はその牛の胸から乳を搾り取る
 
 乳が出なくなると、次の妊娠を無理やりさせる…
 ということを何回も繰り返して、
 体がボロボロになる
 (授乳はたしかにかなり体力使います)

 そして、もう子供を産めなくなったらと殺するのだそうです
 (しかし、と殺するときに子供を宿している牝牛もいるそうです)
 こういう廃肉がハンバーガーなど安いものに使われる

 また、卵を産む鶏については
 普通は年間に数十個しか産まないそうですが
 これを年間300個産ませるのだそうです
 卵を沢山産むため、こういう雌鶏は子宮の収縮が起きすぎて外に脱落する
 また、卵の殻にカルシウムが使われてしまうので
 骨はボロボロになるのだそうです。
 そうして産めなくなったらと殺される

 乳を搾り取られる牛も、
 卵を沢山産まされる鶏も、
 死ぬまで酷使されるので、寿命は野生のものに比べかなり短い

 また、雄たちに関しては
 どちらも不要なので
 生まれてすぐに選り分けられ、肉用に回されるかすぐに殺される
 子牛の肉などはこういう肉が多いそうです

 たまに「子供の牛などかわいそうだから買わないようにしよう」
 という人もいるが、
 根本はこういう乳や卵を作るためのシステムが原因で
 その際に出てくるお肉を少しでも有効利用しよう、という結果が子牛の肉
 なので、乳や卵を食べるのをやめない限り、不幸はなくならない、とのこと
 
 また、卵、肉を食べるための鶏、というのは品種改良により特化されており
 肉用の鶏肉はすぐに大きくなるようになっている
 なので、食用としてと殺する段階でも、体は大きくても中身はまだ子供の段階で
 と殺されるときに「ピヨピヨ」と鳴いていたという証言もあるそうです。
 また、食用の七面鳥などは品種改良により
 大きすぎて自分では動けないし、受精もできないような体にされてしまっているのだそう

 我々が乳や卵を求める限り、
 このような鶏や牛の受難は無くならない

 卵や乳製品を食べる菜食主義者の中で
 もし「この段階で十分動物は傷つけてない、これ以上禁欲しろというのか」
 と考えている人がいるなら
 もう一度考えてみてほしい、と筆者は述べています

〇「私チーズバーガー注文したいんだけど、食べていい?」
 筆者はこの類の質問が困る、と書いています。
 相手は「あなたはあなただから別にいいよ」
 と言ってくれることを期待しているのだろうが、
 しかし本音は「いや」なんだそうです。
 
 この質問は、チーズを食べることについてグルにさせられているようなもので、
 おそらく相手は、自分の罪悪感を軽くするために言っていると思われる
 しかし聞かれた菜食人としては、自分の信条を曲げるわけにもいかない
 「相手との友情を選ぶのか、それとも自分の菜食主義という信条を選ぶのか」
 という二者択一を迫られている気にさせられている、と言います。

 私はこの章の主題が最初よくわからなかったのだが、
 これは菜食人がどうやって周りにカミングアウトすべきか、という問題のようです。

 なぜ多くの人は動物がかわいそうだ、という感覚は共有できるのに
 動物を食べることは悪いと思わないのか。

 筆者はそれは、
 動物を食べたがることは正常、という社会通念、習慣のためだとしています
  例えば昔は奴隷制度を反対する人でさえ、
  白人と黒人差別は仕方ない、と考える人か多かった事実があるそうです
 社会で普通のもの、とされていることはしてもいいと考えがち
 
 菜食人は、そういう「普通」とされていることについて
 「あなた、本当にそれでいいの?」
 と存在自体で相手に突き付ける。

 (筆者はここまでは書いてないけど、菜食人は、本音では
 「世界から動物性食品がなくなってほしい」
 「相手にも変わってほしい」
 と思っているのだろうと思います)

 だから、相手は菜食人だ、と言われることで、
 自分が肉を食べることに口出し、批判されている気分になってしまい
 自己防衛的な反応を取ってしまう可能性は大いにある
 (このため冒頭のチーズバーガーの質問をして、自分の罪悪感を減らそうとする)

 このため、公表すること自体で、人間関係に摩擦が生じると予想される
 なので菜食人は相手にカミングアウトをためらってしまう

 筆者はLGBTの人のカミングアウトと並べてこの問題について考えています。
 
 共通点を考えると
 どちらも自分の信条を隠すことは可能であること、
  (どちらも見た目では明らかにはならない)
 カミングアウトにより他人に不快感を与える可能性があること、
 だそうです

 異なる点は
 LGBTは他人にも同性愛になるように求めることはない
 (ただ、同じ性的な嗜好を持つが公表しない人たちに対して、
  自分に嘘をつくのはよくない
  ということを示す、という意味合いはあるかもしれない、とのことですが)
 一方菜食人は、他の人にも動物性食品を食べる是非を考えて欲しい、と願っている

 …筆者はこれを並べてどうするべき、という結論は出していなくて、
  その話題を意図的に避ける人、公表して何を言われても受け流す人
  みんなに考えてもらうよう働きかける人、
  色々だが
  一番いいのは相手が興味を持って質問するのを待つことではないか、
  と述べています。
  考えてもらうよう働きかけたところで鬱陶しがられるのだそうです。

  一般的には、大っぴらに言うか
  誰にも言わない、言っても目立たないように振る舞うか、どちらか極端なことが多いようです。

 ちなみに訳者も最後に意見を書いていますが、
 冒頭のチーズバーガーの質問については
 「ごめん、それ聞かれると困る」と正直に言うのが一番なんじゃないか、とのことです

まぁいずれにせよ、菜食人の前では動物性の物を食べない方が彼らにとっては良さそうです

○「お肉になっている段階で、動物は既に死んでるじゃない」
 これについては筆者は、
 この論理はなりたたない、
 肉、卵、乳製品などを食べる人がいるから、動物への残忍な行為が起きているんだ、
 というようなことを書いています。

 ちょっと変わった狩人が、動物を撃つのが好きで
 撃った動物を道端に置いて放置する
 それを誰かが拾って、もったいないから食べる

 …こういう状況なら話は分かるが
 現実はそうではない。
 動物へのと殺や動物からの略奪が行われるのは
 それへの需要があるからだ、と。

 世の中には、動物の虐待ビデオ、児童ポルノのビデオを見て
 性的興奮を覚える人がいるんだそうですが、
 これらのビデオを買い所有する人は、
 それらを作る人(つまり直接虐待に手を出した人)
 と同様に罰せられる。 
 動物性食品を欲しがることはこれと似たようなものだと。

 しかし現実には罰せられない。
 それはなぜかと言えば、動物性食品を欲しがることは「正常だ」、とされていること
 もうひとつは我々が直接手をを下していないからだ、としています

 心理学的に、人間は被害を受ける人を目の当たりにすると
 一番痛みや罪悪感を感じる

 そのため、
  自分で人を刺して殺す
  発砲して遠くの人を殺す
  爆弾を投下してよその国の人を殺す
 罪をもっとも感じるのは自分で直接刺す行為だが
 手段は何であれ、人を殺すことの罪は同じ

 動物に対しては
 このような心の痛みを回避するために
 我々は業者に頼んでその役割をしてもらっている

 動物への残忍な行為を直接しない、見えないために
 我々はそれを「無いもの」と思ってしまうが、
 動物性食品を求める限り
 その行為に荷担している事実は変わらない、
 と述べています

○「中絶は反対なの?」
 筆者はこれについては、中絶は問題が全然違う、という話をしています。

 共通するのは、
 中絶も動物性食品を食べるのも
 何の罪もない者の命を奪う、という点

 しかし、筆者の論法によれば
 中絶するか否かは、母体にかかる負担を考える必要があるので話が違うらしい
 望まない妊娠を続ける場合、
 母親は望まない子供に栄養を与え、出産のリスクを負わねばならない
 
 ここで例えを出していたのですが
  AがBを殺したい、と思ってCに依頼する
  CはBを刺すが、瀕死の時にたまたま通りかかったDは、巻き込まれるのがいやで助けない
  ここでEはBに臓器提供をすれば助かる、と言われるが断る
  FはBに臓器提供をしてBの命を救う

 …というシナリオで、
 ここに出てくる人の役割を大きく分類すると
  殺人者はAとC
  傍観者はDとE
  慈悲深い助ける人はF
 になるのですが

 もちろんAとCは非難され、Fは称賛される
 しかし同じ傍観者でも、Dは非難されるが、Eは仕方ないと思われる
 妊娠や中絶の場合、これらの人物のだれになるかが立場により解釈が変わる、
 というところに問題があると述べています

 つまり、
 中絶賛成の人から見れば
 中絶する行為はE(出産の危険があるので仕方ない)、中絶しないのはF
 中絶反対の人から見れば
 中絶する行為はA(医者に胎児を殺すことを依頼する)あるいはD、中絶しないのはF

 賛成、反対は、菜食人であってもどちらも取りうることは可能、だそうです。
 なので菜食人だから中絶賛成かは意見が分かれる
 
 もう1つ、菜食人と両立するかどうかは
 「情感があるかどうか」という部分もあるそうです。

 胎児は初期の段階なら、まだ意思は持たない
 しかし後期になると耳も聞こえ、目も見える、
 何らかの痛みを感じる可能性はある
 アメリカでも多くの州は20週以降の中絶は禁止されているそうです
 (おそらくこれは、母体への負担もあるのでしょうが)
 
 これらを考えると、筆者は中絶は賛成するが、
 後期中絶は反対、という立場を取っているようです。

 また、望まないにしろ、妊娠をするには男性と交わる必要があり
 それをしなければ妊娠しなかったわけで
 そういう意味では母親にも責任の一端はある
 (レイプなどで不可抗力の場合は別でしょうが)
 しかし筆者は、交わったところで妊娠確率は2%程度なのでそこは免れる、としています。
 
 つまり筆者は、中絶と動物性食品の摂取は別ものの問題なので
 どちらの立場も取りうる、と述べています。

 ちなみに訳者は、この章の筆者の論理展開は首をかしげる、というようなことを書いています。
 中絶される胎児の人権と、母体の負担は同列にはできない。
 また、胎児が人格を持つことを考えれば、後期中絶はそもそも選択肢にいれるべきでない。
 また妊娠確率が低いからと言って、
 望まない妊娠を防ぐことを怠った母親が無くなることはない、とのことです

〇「他の動物もほかの動物を食べるでしょ」
 筆者はこの意見の根拠は二つあると考えられる、としています
 一つは、「ほかの動物が肉食なのは、それが自然にかなっているから」という意見
 もう一つは、「ほかの動物も食べるんだから、人間も食べたっていい(お返しみたいなもの)」という意見

 前者については、人間は肉体の構造からして、
 肉を食べるのは「自然」ではないとしている
 肉食動物は、あごが外れない作りになっていたり、歯や爪が鋭い
 消化器官も、肉の消化に耐えられるように強酸性の胃液をもち、大きい
 一方草食動物は、すりつぶすための歯だし、あごは横にはスライドするが縦方向に外れやすい
 消化器官は細長く、胃液は酸性が強くない

 ここで人間の体を調べると
 歯は犬歯はあるものの、そんなに鋭くはない、
 あごも外れやすい、
 胃腸も細長く、肉は加熱せねば消化できない、肉を入れれば腐敗するような作り

 つまり体の構造的にも肉食用になっていない、と述べています

 また、自然にかなっていればそれをしていのか、という問題もある
 自然界の生物を見ると
  強制的な性交、幼い子を殺す行為、ゼノフォビア(自分の集団以外の個体を憎悪する)
 という行為は、自分の遺伝子を残すために見られるが
 これらは人道的に見てレイプ、殺人、差別に当たる行為で許されるものではない
 そこを判断して止めるのが人間の知性で、
 自然ならしてもいいという論理にはならない、と述べています

 もう一つの「動物がするなら人間もしてもいい」という根拠については
 一つは、これは「ほかの人間が殺人してるから僕もしていいんだ」と言っているのと同じで、
 全く意味をなさない、としています
 また、動物は肉食であったとしても、どの種ものべつまくなしに食べているわけではなく
 食物連鎖の相手だけを食べている。

 ほかに、「身を守るために動物を殺して食べている」
 という見方もあるが、
 現在別に動物は襲ってくるわけではないし
 筆者によれば肉を食べなくても栄養は摂取できるので、生きるために殺さねばならないわけでもない

 むしろ、肉を食べることで環境を破壊し、資源を無駄遣いしている
 先進国が肉を食べることで発展途上国の飢餓を産んでいる事実もある、
 と述べています
 
 また、動物は意思がなく、本能で相手を殺して食べている
 人間は分かった上で動物を殺したり、略奪している意味で罪は深い、とのことです
 
〇「宗教では人間が上、というけど…」
 この章は聖書系の信者ではない私にとってはいまいちピンとこないものでしたが
 筆者はユダヤ教の家のうまれなのだそうです

 ユダヤ教では、「人間はほかの種より特異な能力を持つので、多くの規範を持つ」
 とされており、人間はほかの生物よりも価値がある存在、とされているようです

 しかし、筆者はだからこそ、責任も伴う、と考えているようです。
 人間は命を壊す能力も持つが、生かしたり創造する能力もある
 これがゆえに謙虚さが必要なのでは、とのことです

 聖書などでは、奴隷や動物のいけにえを容認するような記述はあるそうです。
 (具体的に引用もされていました)
 しかしこれに関しては、聖書に書いてあることをすべて実行する必要もない
 聖書というのは絶対の教えではなく、
 その時代の人間の誤解や混乱を反映したもの、ととらえれば
 今の時代の文脈で人道に反すると思うことはしなくてもいいのではないか、とのこと
 
 また、聖書の創世記などを丁寧に読み解くと
 人間は動物を守り、植物を食べるように諭していると読めるのだそうです

 それから、ユダヤ教などでは、豚の食べ方には厳しい決まりがある
 これは、本当は肉は食べないほうがいいが、
 それでも食べるというなら苦労や不便を経ないといけない、
 という教えだとのこと

 また、ユダヤ教に関して言えば
 動物をと殺することは許されているが
 いろんな箇所に、乳飲み子の動物を食べてはいけない、
 親子で一緒にいる動物を引き離してはならない、と供述されているそうです。
 ですので、乳を取るために子供を親から引き離し雄牛を殺すシステムはこれに大きく反している

 基本的に、聖書は決していけにえを奨励しているのではなく、
 動物への思いやりや気遣いを持つよう諭しているもの、と述べています

〇「先住民族も動物を捧げる儀式をするでしょう」
 先住民族には、いけにえを捧げる儀式や動物に感謝する儀式がある
 これがあるなら許されるのでは、という意見もあるようです

 しかし筆者によれば
 そもそも先住民族は動物性のものはほとんど食べない
 アメリカの先住民族は穀物や野菜を主に食べ、
 感謝祭はあるが、あれはもともとは七面鳥は関係ないものだったそうです

 また、彼らの儀式は「感謝」「謝罪」のためとされているが
 筆者は「葛藤」「悔恨」を示すものではないかと解釈しています。

 考えてみれば、殺人の被害者遺族が加害者に
 「ありがとう」と言われたらただの侮辱になる
 また、「ごめんなさい」ならまだましに聞こえるが、
 それでも相手は行為自体を変える気はないように聞こえる

 「儀式」は、相手を痛めてしまったという現実から目を背けさせてしまう一面もある
 我々は動物が喜んで自分を犠牲にしてこちらに差し出してくれた、
 謝ったら許してくれる、と勘違いしている、と述べています
 
 エスキモーは
 「人間の食するものにはすべて魂が宿っている、
  彼らが復讐することないように弔わねばならない」と言っているそうです
 ほかの民族でも、清めの儀式などを行うが
 これは動物から恨みを買わないための儀式なのだそうです。
 
 これらの儀式を行う民族は、動物の魂を恐れているが
 ほかに栄養源がない、食べないと生きていけないために仕方なく食べていた
 つまりここには「後ろめたさ」があるということです。

 一方、アメリカでのファストフード店では
 キャラクターに鶏を使い、その鶏が食べられたまま喜んでいる、
 というCMを流しているそうです
 ここには、動物はと殺に対し何も感じない間抜け、と見下す気持ちが隠れている
 そうすれば我々は罪悪感なく食べられるから、と述べています
 
 つまり先住民の持つ動物への畏敬、悔悟の念は
 今の動物性食品の消費には見られない、とのことです

 また、筆者は先住民族がしている習慣だから見習うべき、
 という論法もおかしい、とも書いています
 先住民族でも、奴隷制を受け入れた人もいるし、儀式を儀礼として行っている人もいる
 見習うべきは見習い、よくない風習は受け入れないのが知性だとのこと

〇「人道的な飼育をされた動物ならいいのでは?」
 ここの章は私はちょっと理解しがたかったのですが
 (質問する人の考え方自体が理解できない)
 「人道的な飼育」を推し進める人も世の中にはいるそうです

 これは、動物はどのみちと殺され、食べられる運命にあるが
 せめて生きている間は苦しめないようにしよう、
 そのように苦しめない育てられ方をした動物の肉、卵、乳を買おう、ということらしい

 しかしこれはおかしいと筆者は述べています
 まずそういう肉などを買ったとして
 個体それぞれの運命は変わらない
 どんな飼われ方をされようが、需要があればいずれは殺されるし
 それが先延ばしされるわけでもない
 
 また、業者からしても勝手な論法だと思うだろう、とのこと
 業者は、一番コストがかからず、いい品質の肉や卵や乳を提供するかを考えている
 それを消費者の都合で、「これが人道的」「これは非人道的」と勝手に決めるな、
 自分は別に好きで動物をいじめているわけではない、
 それにおたくが決めた「人道的」な方法は、本当に動物にとっていい方法なのか?
 というわけです。

 アメリカの学者で人道的飼育を提唱した方がいたそうですが
 取材したジャーナリストに
 「どのみち殺されるのに、人道的な育て方をするのに意味があるのか」と聞かれ
 「それは、末期がんの患者にどのみち死ぬからモルヒネを投与しない、というのと同じこと」
 と答えているそうです

 しかしそれもおかしい、と筆者は言っています
 末期がんの患者は、何をしてももう助からない運命とわかっているから緩和ケアをする
 しかし、動物の場合、人間が食べないと決めれば彼らの命は救われる
 それはホロコーストで、
 「一番人道的な方法」として毒ガスでのユダヤ人殺害を選んだヒトラーと同じ
 ユダヤ人を殺害しない、という選択肢はあるのにそれに目をつぶっている、としています

 また、筆者は人道的な飼育、の一番の罪は
 動物に対する裏切りになること、と述べています
 人道的に育てられたら、動物は周りの人間を信用し、自分は価値があると思う
 しかしその人間が実は自分を殺す人だった、
 とわかった時の苦しみは大きいのではないか、とのこと

 ちなみに、カズオ・イシグロさんの小説「私離さないで」
 には似た状況が描かれている、とも述べています
  この話は、臓器提供するためにクローン技術で生み出され生かされる人たちがいて
  主人公も(最初は知らないが)いずれは提供する側になる運命、という設定だそう
  臓器提供される子供たちは、教育など恵まれた環境で育てられる
  この話では、操作する側の人間の間で
  「こんなことをしたら提供者が裏切られた気分を味わう」「罪のない人たちの命を奪う」
  という論争を巻き起こすのだそうです。
 (これは日本でもドラマ化されてたような気がします。
  なんかくらーいおもーい話で、見る気はわかなかったけど…)

 筆者は、本当に動物を大事に思うのであれば、
 動物を殺さない選択肢を考えるべきだ、と述べています
 
〇「動物を食べなくなったら、家畜がこの世からいなくなっちゃう」
 この章も質問自体がちょっと理解できんなと思ったのですが
 我々は動物を利用することで、彼らを生かしているんだ、
 そうでなければその種は滅んでいるかもしれない、ということらしい

 これについては、筆者はそれは人間の自分勝手、と述べています
 1つは、ある種を利用するために生かすとしても、
 残すものはそのDNAであって、それぞれの個体ではない、ということ
 牛とか鶏の遺伝子は残されるし、種としては生き残るが、
 育てられ、いずれは殺される各個体の生命を守っているわけではない

 また、残すDNAも、人間にとって都合のいいものだけ
 動物にとってベストであるわけではない
 例えば、鶏などは、たくさん卵を産むよう、早く大きくなるよう品種改良されるが
 その結果、卵を産んで子宮を脱落させ、傷み苦しむし
 大きくなりすぎるので自分では動けず、生殖もできない
 つまり鶏自身にとっては衰弱、苦痛を与えるだけの不幸な品種改良になっている

 畜産利用が減れば、動物は減るかもしれないが、
 どのみち人間も野生動物を「被害管理」と称して打ち殺し、野生動物を絶滅させている事実もある

 肉や乳をむさぼるために生かすこと、
 自分たちの都合に合わせてDNAを選抜することは
 果たして動物たちにとって幸福なのか、と述べています。
 
〇「動物のものを完全に利用せずに生きるのは無理なんだから、努力しても無意味じゃないか」
 どんな菜食人でも、動物を完璧に利用せずに生きるのは難しいそうです
 食べ物でなくても、と殺の副産物は道路やタイヤ、医薬品、有機肥料などに使われている
 また、植物を栽培するときも、
 農業機械にひき殺される動物もいるし、ミツバチを使って受粉をさせる問題もある

 ですので、動物を食べないことに意味があるのか?
 という意見はあるそうです

 これについて筆者は、
 菜食人はこの世界で動物を完全に傷つけないで暮らすことはできない、
 と自覚しておいた方がいい、と述べています
 「あなただって動物を傷つけているでしょ」
 と批判する人はいるし、
 それはたしかにそうなので、そこは謙虚に受け止めるべきだと。

 その一方で、「完全は無理なんだから諦めたら」
 という意見を二つの問題に分解し、それぞれについて反論しています。

 一つは、努力には意味があるのか。という問題。
 もう一つは、菜食自体が動物にとって本当にベストなのか。という問題。
 
 前者については、
 努力しても完璧にできないから努力しない、という話なら、残るのは無力感しかない
 と反論しています。
 筆者は子育てしている女性ですが
 怒ってはいけないと思っても時には感情的になってしまう
 でもだからといって子供に感情に任せて当たり散らすのがベストとは言えない
 努力を続けることがプラスになるのだと。

 菜食についても、無意識に食べている自分を意識的な選択に変える力がある、と述べています
 
 後者については、菜食という選択肢はそもそもベストなのか。それが動物を救っているのか。
 ですが
 道路やタイヤなど、とさつの副産物でできているものについては、
 と殺自体が行われなくなれば、代替品が考えられるだろう、とのこと
 それだけを作るために動物を痛めつけることは高コストになり、考えにくい
 今動物由来のものを使っているのは、
 と殺に伴う副産物が大量にでき、それを有効活用するためだから、とのこと

 また、栽培用機械で動物がひき殺される事態については
 動物を大事にしようという意識が強まれば、別の方法や機械が考えられる余地がある、とのこと
 また、動物を育てるためには
 穀物そのものを食べるよりも、たくさんの飼料用の穀物を育てなければならない
 ですので、動物を育てる方が、たくさんの動物をひき殺す可能性が高くなる
 つまり穀物や野菜を育てることが、逆説的だがひき殺す動物の数を減らすことにつながるそうです

 そして最後にミツバチについてですが
 はちみつについては、子供の餌を奪っていることになるので
 筆者としては食べたくないらしい。
 これについては、今ははちみつもどきが売られているのでこれで代替できる。

 ミツバチを受粉に使うことについては
 これは直接痛めつけているわけではないが、ハチを操作しているし、女王バチを殺すことにもなるのは事実。

 しかし筆者は、我々は何も食べないわけにはいかない、
 果物や野菜、穀物は生きていくために必要なので致し方ないと述べている。

 こういうと、動物のものを食べるのも一緒じゃないか、となるが
 カロリー効率を考えたら、動物を育てるには飼料用作物も育てなければならないので、
 植物そのものを食べる方が犠牲は少ないそうです

 つまり、どのみち命を犠牲にすることには変わらないが、
 菜食生活を採用することで、その犠牲をなるべく減らせる、ということを言いたいようです

○まとめ
 筆者はこの本は菜食でない人に考え方を知ってもらうために書いたものではあるが
 菜食の人がどう質問に答えるかの参考にするかもしれないことを想定して
 菜食人への提言のようなことを書いています。

 菜食人は、そうでない人に質問されることが多い
 そのため動物性の物を食べる人はその理由を聞かれないのに、
 なぜ自分達ばかり質問攻めにあわねばならないのか、という気分にさせられるのだそうです

 あるいは、菜食人に対して悪いイメージを持たれている
 という被害意識を持つ人もいる。
 菜食人は「怒りっぽい」「独善的」「禁欲主義者」
 と言われるそうで、
 それに対し怒りを示してしまう菜食人もいる

 しかし菜食でない人の立場で考えてみると
 菜食人の存在そのものが、
 菜食でない人を落ち着かせなくさせる、という事実がある
 自分は、動物への虐げに荷担していることを自覚させられる
 責められていると思う人もいるいるかもしれない

 このため、菜食でない人は自己防衛的な質問をする人もいるかもしれない
 (チーズバーガーの質問など)
 ということを菜食人は考慮する必要がある、と述べています

 筆者はこれに対しては
 質問はお互いを理解しあうチャンス、と思うのがいい、と述べています

 菜食でない人の質問は
 単に異世界の人への素朴な疑問、好奇心から来る質問がけっこうある
 「食べ物の楽しみは?」とか、
 「健康は大丈夫なの?」
 とかいう質問はその類いのもの
 また、
 「中絶への意見は?」とか
 「宗教との矛盾は?」という思想的なものもそれに入る

 菜食人はこれらに対してきちんと答えていくことで
 菜食人でも楽しく食べられるよ、とか
 ほかの価値観とも矛盾なく生きていけるよ
 ということを示せるのではないか、
 と述べています

 また、
 「卵や乳製品ならいいでしょ」とか
 「人道的な飼育ならいいでしょ」
 などという問いは事実を知らないことからくる質問なので
 答えることにより相手の学びになり、誤解を解くことができる、としています

 筆者はほかにも質問はあるかもしれないし
 その全てに答がすぐに出せるわけではない、としています。
 また、正解があるわけでもなく、考え方は人それぞれ。

 筆者は、
 菜食はゴールではない、
 ただ菜食を選んだことで人生が変わったという経験を語ることはできる
 我々は、暴力を減らし、命あるものを思いやる道徳を身に付けていく必要がある、
 それをみんなで考えていってほしい、
 という感じで話を終えていました。

 訳者は後書きでこれに加えて
 いくつかの質問も加えていました。

○「肉を食べなくなったら畜産業の人の仕事がなくなるのでは?」
 これに関しては
 いきなり畜産業の仕事がなくなるわけではなく
 徐々に仕事が減ってフェイドアウトしていくと予想される
 その間に代わりの職業は見つかるはずだ、としています。

 また、この論法だと、
 奴隷制度が無くなると奴隷売買業者の仕事が無くなる
 と言っているのと同じだと述べています

○「貧しい人はどうするのか」
 最近では海外のセレブでヴィーガンが流行っているみたいなのですが
 菜食にしようと思うとお金がかかるイメージがあるようです
 しかし筆者は、小松菜を油揚げで炒めるとか
 少ない予算で菜食レシピを考えることはできる、とのこと

 つまりできる範囲ですればいい、
 という言葉になるが
 この言い方は訳者は好きではないらしい
 この言い方になると、できる努力もしなくなる余地が出てくるからだそうです

 我々は、社会に対して提案をする、
 例えば今菜食を選びたくてもできないのなら、
 コンビニやレストランにベジタリアンの物を置く提案もできる、
 と書いています

○「価値観の押し付けじゃないのか?」
 これに対しては、
 菜食人は価値観を押し付けているわけではない、と述べています。

 「命を粗末にしない」という価値観は人類共通のものとして認識されているはずで、
 菜食人は事実を述べ、
 動物を苦しめるのをやめませんか、
 と提案しているだけだとのことです

 訳者がこの本を翻訳した理由は
 1つは日本の動物擁護論を前に進めることだそうです
 日本の動物擁護の議論は感情的になりがち
 もう少し冷静な議論をしてほしい

 もう1つは、
 「命を大切にする生き方とはどんなものか」
 を一度考えてほしいと思ったのだそうです

 この本を読んでも分かるように、
 動物性の食品を求めることは、
 動物を家畜小屋に押し込め、
 性奴隷の行いで卵や乳を搾取し、
 と殺という殺戮を行っているのを容認しているのと同じである、と。

 この本を読む人は、
 すぐに菜食人にならなくても
 今後動物性の物を消費するときに違う感覚を抱くようになるはずで、
 それは倫理観に変化が起きた、ということを示している
 それを生き方を変える力に変えてほしい、
 と述べていました。

○感想など
・この本を読んだ直後は、
 さすがに動物性の物を食べることに罪悪感を感じました。

 しかしこの感覚はどこかで味わった気がして、
 思い出すと中学の頃、環境問題やエネルギー問題についての話を聞き、
 暖房をつけることに罪悪感を持ち、
 ぬるいお風呂に入ったり、暖房を使わず毛布にくるまって家の中で過ごした経験です。

 そのあと大学に進んだあと
 環境問題の専攻は取らなかったものの
 環境保護団体?のシンポジウムなどを見に行ったことなどもありました

 でもそこで感じたのは違和感…
 なんだろな、一種の宗教なんですよね。
 なんか情報が偏っているし
 感情的な議論になりがちというか…

 しかも環境に優しい商品とか
 健康食品とかフェアトレードのものって高いのよ。
 貧乏学生には無理です。
 しかも環境にいい商品てのは性能がよろしくない…

 禁欲的な生活って長続きしない。
 もう少しお気楽にいい生活はできないものかと思い、距離を置くことにしました。
 (私には無理でした)

 この本を読んで思ったのは、
 菜食主義者にもそういう情報の偏りがあるのではないかという懸念です。

 なので実践してる人ってどうなのよ、と思ってネットでも調べてみました

・色々読んでみて最初に突き当たったのは健康との関係です。

http://macrobiotic-daisuki.jp/bejitarian-yumeijin-nikukiken-16705.html
 などによれば、世界の偉人でも菜食主義者だった人は多い。
 アインシュタインやガンジーなども菜食主義者だったそうです

 また世界の政治家やセレブには菜食主義者もいて、
 クリントン元大統領、アルゴア氏もそうだし、
 歌手のマドンナさんも長年菜食主義だが、精力的にコンサートなどしているとのこと。

 しかし一方で、菜食だったがやめたという人もいました。
 中谷美紀さんなどはしばらく肉を食べていなかったが
 体調不良になってしまったそうです。

 そして、同じように体調不良が理由でヴィーガンをやめた方のブログが話題になっていました。

 http://neem.ti-da.net/
 この方のブログはかなり反響があったそうです。

 私も拝見しましたが
 彼の体験談と意見は傾聴に値すると思います。


 彼は真面目で厳格なヴィーガンだったようで
 9年間動物性の物を食べないばかりか
 白砂糖も食べない、野菜やお米は無農薬、減農薬のもの、
 調味料も無添加という徹底ぶり。
 また、そういう食品を売り、ヴィーガンの考えを広める活動もされていたそうです

 しかし5年目に原因不明の発疹や発汗がおき、体臭もひどくなった
 虫歯や病気にもかかりやすくなり、
 さらには常に低血糖で空腹感に悩まされていたそうです

 同じく菜食に熱心な彼の相方も、健康不良に悩まされていたし
 彼によれば「ヴィーガンで健康な人は見たことがない」
 ヴィーガンへの疑念が生じてきたそうです

 そのあとに歯科医をしている方のFacebookでヴィーガンへの反論を見て、
 (その方は肉食推進派で、
 人類が穀物を食べるようになったのはごく最近のことで
 人類の歴史から見れば肉食の方が理にかなっている
 ガンや虫歯などの現代病の原因は穀物や糖である、
 という趣旨の主張をされていたそうです
 私はその理論も極端だなぁとは思うのたが…)

 彼は反発もあったが、
 その後いろんな本を読み、
 それまで彼が勉強してきた菜食を主張する人たちは
 江戸時代は菜食、粗食でも健康だった、
 というのが根拠だったそうですが
 (海外の菜食人の根拠は分かりませんが)

 もっと長い人類の歴史から考える肉食推奨派の主張は
 彼にとって目からウロコだったそうで
 現実には体調不良もあり、そこから肉食断糖の食事に切り替えたそうです。

 すると肉食により体調は劇的に改善したそうです。
 空腹感もなくなり、性格も穏やかになったのだそう
 菜食生活を続けることで、慢性的な低血糖に陥っていたようだ、
 と書いていました。

 彼は本当にゴリゴリの菜食主義、勉強もたくさんされていたみたいで
 菜食主義を突き詰めると陰陽とかバランスとかいう話も出てくるんだそうです

 しかし今となっては、それは根拠のない宗教的なものにすぎないと感じるそうです

 彼のブログには反発も多く
 菜食主義者からは、やり方が悪いからだとかいう意見もあるそうですが
 菜食主義者の中でも生の野菜を食べろとか食べるなとか
 意見は別れるし
 そもそもそんなに厳格にやらねばならないものは続くのか?
 ということを書いています。

 彼は今では穀物も肉などもバランスよく食べる生活をされているそうです。

 彼は経験から、ヴィーガンで健康を保つのは、
 よほど栄養学に詳しい人でない限り本当に難しい、と述べています

 もちろん菜食で体質改善する人もいるが、
 それは元々過剰な糖質依存(ファミリーアイス一気食べするとか)
 など偏った人が多いのだそうです
 そういう人が改善しても、
 そこから菜食生活を長く続けるとやはり不健康になってしまうのだとか

 そういえば、
 最近は高齢者こそ肉を食べろとか
 長生きの人は肉食が多いと言われています。

 「肉を食べなくても健康だ」
 という菜食人の意見を聞くと
 肉を食べろというのは肉を売りたい人の陰謀か?という気もしてくるのだが

 私の個人的な経験から言うと
 若い頃は肉をそんなに食べたい気にならず、
 実際そんなに食べていませんでした。

 (食べたら気持ち悪くなるのもあるし
 スピ系の人が血が汚れると言っているのもあったのかもしれないし
 独り暮らしだと食べきれないのもあるし
 食べなくても別にいいやというのもあったし…)

 しかし最近はなぜか肉が食べたい。
 むしろ米が受け付けなくなってきた。

 年取ったら体のタンパク質を作れなくなるから
 体が欲するようになったんかなぁとか、勝手に思っているんですが…

 健康と菜食の関係は
 もう少し疫学的研究がなされてもいいのかなとも思います。

 (ちなみに先程のブログの方は、
 人間の体も肉食寄りに進化している、
 と書いています。

 「人間の消化器官は菜食寄り」
 とする今回の本の主張と違うのが興味深いので、一応記しておきます。

 ヒトは進化を遡るとチンパンジーから枝分かれしていますが

 チンパンジーは雑食で、
 主に果物を食べるが、昆虫やほ乳類からタンパク質も得る
 初期の人類も似たような食事で
 果実やナッツも食べるが、タンパク質として小動物は食べていたといいます。

 その後ヒトは道具を使い、
 別の種の骨髄や脳を食べることができるようになり、
 腸は植物用の長いものから肉食用の小さなものに変化したそうです

 そしてタンパク質の摂取が増えるに従い、
 脳がどんどん大きくなった。
 逆に言えば、大きな脳を作るためにタンパク質や脂質を効率的にとる必要が出て
 体も肉食用に変化していったとも言える

 腸の長さについては
 肉食動物は腸は体長の約4倍、
 肉食系の雑食の犬は体長の5~7倍、
 草食動物だと20~25倍
 なんだそうですが

 人間はというと、体長の7~9倍だそうで、
 腸の長さからしても
 一番近いのは雑食の肉食系の犬なんだそうです。

 人により体質は違うので一概には言えないかもしれないが、
 一般的に今のヒトは肉食寄りの体になっていて、
 菜食のみで生きていくのは大変ではないかとのことです)

・もう1つ突き当たったのは、動物倫理の問題です。

 今回の本を読んだとき、
 たしかに動物を痛め付ける行為はどうかと思ったが、
 動物はダメだが植物はいい、
 という論法はやはり違和感を覚えました。

 私はバイオロジーの世界で研究していた人間ですので
 動物実験でウサギを使ったこともあれば
 微生物の遺伝子組み換えをした経験もあります。

 ウサギは採血するために殺さねばならないし
 微生物は最後には高圧滅菌しないといけない
 考えれば恐ろしいのかもしれないが、実験なので無機的に行うしかない。

 一般的には、菌を殺すよりウサギの方がかわいそうに思えるのかもしれないのですが
 しかしどちらも命を操作するという点では同じです。

 筆者は酵母をまぶして食べたり、昆虫は感情はないという立場ですが
 私の研究していたところでは、
 菌たちを弔う石碑というのがあり
 「実験がうまくいかないときはそこにお参りしてこい」
 と言われたものです。
 微生物も恨みの気持ちを持っているのかも…
 と先人は考えたのかもしれません。

 筆者は家畜が人間に都合よく遺伝子操作されたと話していますが
 植物の遺伝子組み換え作物だってそれは同じだし
 古くから行われている品種改良だって本質的には同じようなものだと思います。

 稲は人間に都合よく変えられたため、
 稲穂が重すぎて頭を垂れているし
 野生種よりは病気に弱くなっている
 (アレルギーが増えているのはコシヒカリ系の品種が増えているから、と指摘する人もいます)

 作物の栽培自体も、
 その場所を単一作物にするわけだから人間の都合。

 考え出したら、人間が存在し、文明を進歩させていくこと自体が罪、
 ということになってしまうと思う。

 でも、だからここで原始的な世界に戻るのは現実的ではないし、
 進歩がないし、
 それは他の種にとって果たしていいことなのか分からなくなる。

 筆者は宗教の話の章で言っていたけど
 「人間は命を壊す能力もあるが
  命を生かし、創造する能力もある
  そこに責任を持つべきだ」
 まさにそうだと思うのです。

 動物を食べようが、植物を食べようが問題は変わらないように私は思う。
 操作される命、殺される命に思いを致し、
 人間が自分達のすることの重さを自覚することが必要ではなかろうか、と思います。

 ちなみに先に紹介したブログの方も
 健康だけでなく、現在の畜産のシステムの問題点、環境問題についても言及されています。

 そのなかで、彼がタイの少数民族を訪問した経験を語っていました

 その村では、
 小動物の狩猟もするし、
 家畜を育てたり米栽培もして生活しているそうです。

 彼はそこで、家畜に脳天を叩いて殺す体験もしたそうですが、
 それまでに彼らの餌は毎日人間が手作りするのも目にしている
 たしかに、その民族は動物を殺して食べるのだが、
 彼はそれを「命を繋ぐ」
 と表現していました。

 一方、彼は農薬だらけの畑で働いた経験もあるそうで
 その野菜たちは異臭を放ち、
 「まるで墓場」と表現していました

 植物にも命はある。
 いろんな生物が循環して命を繋いでいる。
 それを人間の都合で、単一作物の栽培で工場化してしまうのもどうなのか。
 命を繋ぐために動物を食べることと、どちらが悪なのか。
 問題は動物を食べる食べないではないのではないか、
 と彼は言っています。

 彼が身をもって知ったように
 ある程度の肉を食べないと人間は体が持たない
 ならば、命をいただくことに真剣に向き合うべきではないか、と。

 彼としては
 自給自足をし、必要なだけの命を、その有り難みを感じながら食べて繋いでいく、
 という生き方が理想なんだろう、としています。

 しかし現代のように人が多すぎる世の中では、
 現実的にはみんなが自給自足するのは無理であることも認めています。

 であれば
 なるべくそれを実感できるように
 育てられるものは自分で育てるとか
 搾取ではない方法で動物を育てていく農家を応援するとか
 もっと方法があるのでは、と。
 彼は現在そのための活動もされているようです。

 そういえば昔「レッツ天才テレビくん」という番組で
 小学生の子達が農場で動物にふれ合ったあと
 その動物を焼いて食べる、
 という経験をして
 一人の子供は最初泣いて食べられなかった、
 という場面がありました。

 一緒にいた大人の方が
 「辛いと思うけど、だからこそ命を大切にいただこう」
 と諭していたのが印象的でした。

 もしかしてそういう
 命をいただくことの重みを実感する経験
 というのが必要なのかなぁとも思います。
 命をいただくのは手間ひまかかりますからね…

 翻って私自身はどうかというと
 自給自足するでもなく
 畜産の経験もないですが
 せめてできることは
 1つはいただいた命を大切に残さず腐らせず食べること。

 私は基本的に食べ物を捨てたり残すのは嫌いで
 自分の子供にもそれでぶちギレたことがあるくらいです。
 最近では低糖食ブームで
 ご飯だけ残して肉だけ食べるとか
 ピザの具だけ食べるとか
 そんなことをしている人もいるようですが
 それも自分の都合だけで選び取る行為でどうかと思います。

 もう1つは、なるべくファストフードとか
 明らかに搾取畜産に荷担していると思われるものは買わないようにすることなのかな、と。
 コンビニの製品もなるべく控えようかなと思いました。

 それにしても
 卵や乳製品って、アレルギーの人の話を聞くまでもなく
 今やあらゆる加工食品に入っていて、完全フリーなのを探すのは不可能に近い。
 (不可能ではないのかもしれないが、探すのは困難)
 そんなに使わねばならないものなのか?
 いろんなものに使って需要があからこれだけ卵や乳が搾取されるのでは、
 とも思います。

 動物の卵や乳の代替品
 (できれば人体や環境にも良いもの)
 が発明されてほしい、とは思います
 発明されているのかもしれないが、一般的に使われるようになってほしい。

 色々考えさせられました。
 食べることは好きなので、力が入ってしまいました…

 というわけで、長くなりましたが今回はこの辺で。



posted by Amago at 20:32| Comment(0) | 本(人生) | 更新情報をチェックする