2016年07月23日

「わらしべ長者」について考えてみた

「わらしべ長者」について考えてみた

以前子供がお子さまセットのオマケで紙芝居をもらいました。
その話が「わらしべ長者」
この話けっこう奥が深いなぁと思いました。

今回はこのことについて。

あらすじを書くと、

 貧しい若者が神様にお金持ちにしてください、とお願いする。
 神様は「お堂を出たとき最初に手にするものがお前を金持ちにしてくれる」と告げる。

 外へ出ると、あったのは一本のわら。
ちょうどアブが飛んでいたのでわらでくくりつけた。

 そしたらそれを見ていた男の子が、アブが欲しいと駄々をこねたので、
 お母さんがミカンと交換する。

 若者がミカンを持っていると、次に喉が乾いたお姫様に出会う。
 そこで反物とミカンを交換する。

 そしたら、次に布を買いに来たが、乗っている馬が動けなくなって困っているお侍に出会う。
 そこで反物と馬を交換する。

 若者は馬を一生懸命世話をし、やがて馬は元気になる。
 そこへ、旅に出たいが手段がない、という長者に出会う。

 そこで、馬と引き換えに広大な田畑と家のお世話をしてくれと頼まれる。
 長者は旅から帰らなかったので、田畑と家は若者のものとなり、
 わらしべ長者と呼ばれるようになる。

わらしべ長者って、何も努力せず棚ぼた式にお金持ちになったのかと思っていたのです。
でもよくよく読むと実はそうでもないのかも…と。

わらしべ長者さんは、凡人にはできそうでできない行動パターンがあるのかも、と思います。

例えば
・いただけるものを素直に「受け取っている」

例えば唐突にわらとか布とか馬とかをいただくわけですが、
それにたいして
「何これ?」とか、
「こんなん要らない」
はたまた
「いやいや私には受けとる資格はありません」
とか言わずに素直に受け取っている。

この「素直に受けとる」行為ってなかなかできそうでできないように思います。
思いがけない幸運が来ても、
それに疑問を持ったり、
拒否したり、
遠慮してしまったりしてしまいがちなのでは…と思うのです。

知らないうちに、価値のあるものを受け取っているのかもしれないですからね。
何事も、
「これは幸運をもたらしてくれる」
と信じて受け入れる素直さが大事なのかも。

・いただいたものを一生懸命「大事にする」

わらしべ長者さんは、
ミカンをもらってもすぐ食べたりせず、
動けない馬を文句も言わずに一生懸命お世話する。
田畑のお世話も一生懸命しています。

我々も、今持っているものを大事にし、磨いていくことで、
それがのちのち価値を持つようになるのかも知れません。
解釈を広げたら色々ありそう。
モノ、能力、人脈…とか。

・自分の持つものが欲しいという人がいたら、ためらいなく「渡す」

ミカンが欲しいと言われても「自分も食べたい…」とか言わず、
馬もせっかくお世話したから離れるのが嫌、とか言わず、
欲しい人には惜しみ無くあげています。

人に気前よく「与える」ことで、次のものが回ってくるのかもしれません。

つまりこの
「受けとる」
「今いただいているものを大事にする」
「気前よく与える」
の3つを素直にできることがポイントなのかなぁ、と。

ちなみにネットで見ていたら
「わらしべ長者は、自分の欲しいものを追求せずに、
ひたすら他人の欲しいものを与え続けていたのが良かった」

とか
「自分の与えたものは、雪だるま式に膨らんで返ってくる。
いいことも悪いことも」

…などの解釈もありました。

なかなか奥が深いですね。

しかし、これは「与える」面にクローズアップしているような気がします。

以前ワタナベ薫さんの本に
お金に好かれる人は、
「自分に「受けとる」ことを許す」(清貧を良しとしていては富は来ない)
「人にも気前よく与える」
つまり富はパイプを流れる水のようなもので、
富を受けとる、与えるの両方をせっせとして、
パイプを太くして循環をよくすることが豊かになることにつながる、とあったように思います。

そこから考えても、
わらしべ長者さんは、
モノの循環を
(何も考えていないからこそ)
スムーズにできているのが良かったのかなぁ、
と思いました。

ところで、「わらしべ長者」は経済学的にも色んな分析がされています。

・物の価値は需要と供給により決まるが、
同じ物でも、価値は人により違う。
 ある人には価値のないモノも、需要がある人からは高い価値がつけられる。

 なので、モノは需要のある人に運ぶことで価値が高まる。
 商売人はこれを利用している。
 その際商売人は
 「運ぶ」
 「相手を見つける」
 「需要のありそうなタイミングを見計らう」
 「交渉する」
 などの労力の対価として、大きな利益を得ている。

 わらしべ長者も、(本人は意図していないが)そのような役割を果たしている、というわけです。

・他にも、独占市場という考え方もあるそうです。

 例えばミカンを持っている人がいっぱいいたとしたら、わらしべ長者は反物をもらえなかったかもしれない。
 そのときミカンを持っていた人がわらしべ長者だけだったので姫様に対して強い交渉権を持てた、というわけです。

…しかしこのように考えてしまうとどうなんだろう、とも思います。
わらしべ長者がそのカラクリを知って商売っ気を出してしまったら?
やっぱりうまくいかなかったんじゃないかなぁ。

例えばミカンが欲しくて高い価値のあるものをくれる人がいるはずに違いない、
と探し回ってお姫様に出会えないとか…
馬を欲しい人がいるはずだし、その人に渡せばいいやとお世話をしなかったりとか…

私としては、やはりわらしべ長者は、
自分の運命の波というか流れというか、
そういうものにうまく乗ったのが良かったんじゃないかなぁと思います。

そしてそれは
「受けとる」
「大事にする」
「与える」
の3つの流れを実直にしていた結果、できたことなのかなぁ…と。

うまく言えないのですが、そういう自然体な態度が、
運命の流れをスムーズにしていく一番の方法なのかも。

私もわらしべ長者的な生き方をめざす、というか、
年齢を重ねるごとにそういう生き方に「なっていく」のが理想ですね~


わらしべ長者の話から色々考えてしまいました。
まとまりないですが、今回はこの辺で。




posted by Amago at 19:20| Comment(0) | 人生 | 更新情報をチェックする

2016年07月18日

「HDDにアクセスできません。録画を中止します」

「HDDにアクセスできません。録画を中止します」

先日、我が家の録画機能付きテレビが録画できなくなりました…
今回はこのことについて。

ちなみにテレビの機種は日立のWoooです。

症状としては
・ある日突然録画できなくなった
・録画しようとすると
 「HDDにアクセスできません。録画を中止します」と表示され
 勝手に録画をやめる
・録画はできないが、すでに録画したものは見られる
(ちなみに、内臓のHDDで、外部接続のHDDは無い)

で、トリセツを見たところ
「HDDの空き容量がゼロだったら録画できない」
「HDDに録画されている番組が999以上だと録画できない」
とありました。

確かにうちは、子供が録画したものを何回も見たがるので、
かなり録画されたものがたまっています。
(画質を落として録画したり、
 折を見てあんまり見てないものを削除したりはしているのだが)

空き容量はまだかなりあったけど、
それでももっとザクザク削除しました。

しかし録画はできず…

そこでググったところ
・HDDを初期化する(データはすべて消える)
・ダメならHDDを外して付け直す
・故障依頼

などと書かれていました。
体験談を読んでいると、HDD初期化してもダメで修理依頼、という人も結構いる。
ちょっと悲観的になり、
子供にも「データ全部消えるかもしれんけどいい?」と聞いていました。

しかし、よくよく読むと、修理依頼の人は再生もできない、というケースが多い。
つまりHDD自体がご臨終、というケース。

うちの場合、録画したものは再生できるので、
HDDは壊れていなさそう。
というより、データを削除したのに、HDDがそれを認識してないっぽい。

だんなは「うーん。まあ、ダメ元でテレビ本体の電源消して、あとは様子見したら」
と言ってました(ちょうど不在だったので電話で聞いた)
そうか、元電源を消すという手があったことを忘れていました。
パソコンでも元電源ブツっと消してリセットしたら直ることがある。

というわけで、元電源を消したのだけど…
ダメですね。

でもよく見ると、電源をそのまま消しただけでは録画の表示が消えないのです。
(詳しく言うと、元電源のところにランプが二つあり、
 一つは電源のオンオフを示すランプで、
 テレビが付いているときは緑、リモコンの電源を消したら赤、本体の電源を消すと完全に消える。
 もう一つは録画のオンオフを示すランプで、
 予約が入っていると赤、録画しているときは緑、本体の電源をそのまま消してもこのランプは消えない)
なので元電源を長押ししたら、ランプが全部消えました。

で、もう一回テレビの電源を付けてから、
録画を試しました。
そしたら、テレビがHDDを認識しなおしまして、
これにより録画が成功しました。

まあ、要するに
テレビの本体の電源を長押しして、HDD認識をリセットしたら録画できた。
ということになりました。

HDD本体はご臨終ではなかったので良かったようです。
しかし、やはり録画したものはこまめに削除しないと、
HDDは不安定になってしまうようなので
(パソコンもハードにデータをためすぎるとフリーズしやすくなるのと同じ)
見たらすぐに消したほうが良さそうです。

とりあえずデータ全削除にならなくてよかった。
子供はデータ消えるかも、と聞いて半泣きだったので…
あと録画もできるようになり、ほっとしました。

録画はできないけど再生はできる、
というケースはググっても出てきていなかったので、
一応メモ書きとして記しておきます。

というわけで、今回はこの辺で。



posted by Amago at 23:10| Comment(0) | 人生 | 更新情報をチェックする

2016年03月11日

人は死ぬのがなぜ怖いのか

先日、子供が
「人は死んだらどうなるのか、考えたら怖い」
と聞いてきました。

そのとき、私自身も気になったので
「人間が死ぬのが怖いと思うのはなぜなのか?」
を改めて考えてみました。

更に、死への恐怖について、
自分なりにどう消化してきたかも考えました。

今回はそのことについて。

●死が怖い理由

哲学者さんによると
死が怖い理由は大きく分けて4つある、
と前回書きました。

1:肉体的苦痛に対する恐れ
  (死ぬとき苦しんだり、痛い目にあうのではないか)
2:別離に対する恐れ
  (みんなと離れて孤独になる)
3:喪失に対する恐れ
  (財産、思い出などを失う)
4:死後への不安
  (死んだあとどうなるか分からない)

ちなみに、私が思春期の時は何が怖かったかというと…

・死んだらどうなるんだろう?という漠然とした不安(4に近い)
・死んで何も無くなっちゃうとしたら、今までしてきた頑張りとか経験とかは何だったの?という虚しさ(3に近い)
・死ぬとき苦しいのかな、
というのもあったかもしれない(1に近い)
他にもあったかもしれないけど、こんな感じでした。

●先人の知恵

しかしこれらの恐怖については、
先人が色々と知恵を出してくれているように思います。

例えば…
1死ぬときの痛さや辛さへの備え
 医療の発達やターミナルケアなどは、
 病気などで痛みを伴うとき、死ぬまでの苦痛を和らげてくれる。

 キューブラー・ロスの「死の瞬間」
 立花隆の「臨死体験」
 などの死に際の心理状態に関する研究なども、参考にできると思います。

 私はあんまりがっつり読んだことはないけど、前者は患者が混乱を経て死を受け入れるまでのプロセスを研究されていたような。
 後者は死にかけて戻ってきた人の話とか、幽体離脱とかの話も出てくるのでちょっとずれてるかもしれないが、
 とにかく死を目の前にすると人はどうなるか、という先例を見ることができます。

2一人になる恐れへの備え
 宗教では、お盆など、死んだ人とこちらの世界が行き来できる、という儀式がある。
 外国のハロウィンも、死者が戻ってくるという意味ではお盆と似たようなものらしい。

 これは死者の霊を慰めるため…とか言いますが、
 私は実際は生きている人の安心感のためなんじゃないか…と思います。
 自分が死んだ後も、同じようにみんなとまた会えるんだな、と安心するための儀式というか。

3失うことへの恐れへの備え
 お葬式などで、あちらの世界に持っていきたいものを一緒に燃やす(埋める)という儀式がある。

 これも亡くなった人が寂しくないように…とか言いますが、
実際は儀式を行う(生きている)人の安心感のためではないかと思う。
 自分も死ぬとき大事なものを持っていける、と信じて安心できる効果があるように思う。
 
 また、遺言などで自分の財産を誰かに譲る、
 自分史を書き残しておく、
 と言う行為も、
 誰かに残すことで、自分や自分の経験、記憶は失われないと思える効果があるのかもしれない。

4死んでからどうなるか分からん不安への備え
 どの宗教でも、死後の世界とか、転生、極楽などの考え方があるように思います。
 これは、死んでからは楽しい世界に行けるんだ、と想像することで恐怖を和らげる効果があるように思う。
 (もちろん、極楽に行くために生きている間にいいことをしましょう、という戒めもあると思うけど…)

 死んだら人間がどうなっちゃうのか、誰にも分からない。知りようがない。
 どっちみち分からないなら、明るい方向に考えた方がいいのかもしれないですね。

●私の考え方

ちなみに、私自身は子供の時よりは死ぬのは怖いとはあまり思わないです。
何でかなぁ…と思ったけど、
突き詰めて言えばそれだけ開き直れるオバサンになったってことね(笑)

それぞれの恐怖への現在の考え方を書いてみます。
1死ぬときの苦痛への恐怖
 これは無いといえばうそになるが、そこまで深く考えてない。
 これは、出産という痛みを経験したのも大きいかも。
 あと若いとき、一年くらい毎日うつ状態で泣いていた経験も大きいかも。

 つまり、
  生きてたって辛いときは辛いのよ。
  死ぬときも辛いかもしれんけど、生きてる間に受けた辛さより軽いかもしれないじゃない。
  それに、もし辛いとしたって、
  それは           ずーーーーーーーーーっと続くわけじゃなくて、いつかは必ず終わる。
  いつかは終わると思ったら何とか耐えられそうに思う。

 初めての出産のときは陣痛が一日半くらい続き、
 病院の先生がもう帝王切開しようかと迷っていたくらいで、
 最後のひとふんばりで上の子が産まれてきました。
 その間、先生が迷っていたこともあり、
 この痛さはいったいいつまで続くんだ、と思っていた記憶があります。
 そのおかげか、二人目のときは痛いけど耐えられた。いつかは終わると分かっていたから。
 死ぬときの辛さと出産の辛さは比較になるのかわかりませんが、
 いつかは終わると分かっていたらなんとか耐えられそうに思う。

 うつ状態だったときも、毎日毎日勝手に涙が流れてきて、
 私は一生このままなんだろうか、死んだ方が楽なんじゃないかと悩んでいたけど、
 カウンセラーの方に「必ず終わりはきます」と断言されて希望が見えた記憶があります。

 だから死ぬときの描写にも、苦しいけどお花畑が見えて…とかいうのがよくあるけど
 (想像だから本当かは分からんけど)
 辛いけど、それが終わったら安らかな世界に行ける、ということだと思う。

2失うことへの恐怖
 失うものがあんまりないので、そこについては別に怖くないです。
 財産は持っていけないし、もともと執着はあまりなし。
 それから私の経験とか言葉、思い出とかでも、
 意味があると思ってくれる人がいれば、それは私が死のうがその人の心に残るのだろう。
 むしろ生きている元気な間に、意味あるものを他の人に残しておくべきだろう。
 もし誰の心にも残らなくても、まあそれはそれでひっそり死んでもいいかと割り切っているかな。

 逆に生への執着というのはあって、
 誰かを傷つけた思い出を残して死ぬのは嫌だし、
 みんなに笑顔を残して死にたい。

 生きている間にできる経験はしたいし、新しいものは見たいし、美味しいものは食べたいし…
 死ぬときにあれやっとけばよかった、という悔いは残したくないかな。
 でもそれは死への恐怖というより、
 今日を精一杯生きようというモチベーションにつながっている気がする。

3孤独になる恐怖
4死んだらどうなるか分からん恐怖
 そもそも孤独があまり苦にならない性格だし、
 別れより出会いへの興味が強いので、孤独への不安はあんまりないかなぁ…。

 それから、死後どうなるのか、分からんものについて悩んでもしょうがないかなと思っています。

 スピリチュアル系の本とかを読んでいると、
 死んでからもあの世みたいな別の世界があるとか、
 肉体は無いけど意識だけの世界があるとか、
 そこでは肉体的な苦しさや空腹感などは無いとか、
 集合意識みたいなのに統合されて孤独感はないとか
 (孤独感や疲れや辛さなどは肉体があるからこその体験らしい)
 そういうことも書かれている。

 それが本当か分からないし、
 ただのおとぎ話なのかもしれないのですが、
 そういう意見を聞いていると、
 そもそも死んだら辛い世界に行くのか?
 孤独な世界になるのか?
 その前提がどうなのよという気分になってくる。

 なので、
 死んだらまた違う世界に行けるかもしれない、
 新たな出会いがあるのかもしれない
 (もしくは自我とか個がなくなる世界なのかもしれない)
 全く想像のつかない世界に行けるのかもしれない
 などと、楽観的な方向に考える方がいいのかなと思っています。
 想像するだけなら自由ですし。

 まぁそんな風に考えても、
この人生はすぐには止めたくないですけどね…。
 生物学的にも、卵子と精子が出会って健康に育って生まれてくる確率って奇跡に近いのです。
 そんな貴重な経験をすぐに捨てるなんてもったいない。

他にも、もう少し離れた視点で考えました。
・死ぬ恐怖は本能的なもの
 そもそもなぜ死ぬのが怖いと感じるのか。
 突き詰めて考えれば、生物としての本能だろう。
 暗闇が怖い、高いところが怖いのと同じようなもので、
 死んでもいいやとなったら生き延びられないから、死は怖いと脳みそにプログラムされているのだろう。
 なので怖いという感情が起きるのは仕方ない、そうなっちゃってるんだと受け入れると、
 少し気が楽になるように思います。

・どっちみち死ぬんだから悩んでいる時間がもったいない。
 死ぬのが怖かろうが怖くなかろうが、どのみち人は死ぬ。
 そして死ぬまでの時間は限られている。
 悩んだり怖がったりしている暇があるなら、
 その分すべきことがあるのではないか。
 やりたいことをやっておく、
 身近な人たちを大事にする…

 数年前、私の知人がガンで亡くなりました。
 診断を受けたとき既に進行していたようですが、
 そのときから一年半、亡くなるまでブログで闘病記を綴っておりました。

 ブログには治療の話もありましたけど、
 病状の許す限り好きなものを食べ、
 趣味の山登りもして(というか健康な人でもキツイ本格的なトレイルランですよ!)、
 全力で生きている姿が印象的でした。

 もちろん本人には死に行く恐怖などはあったのかもしれない。
 まだ若いしお子さんも小さいしまだ未練はあっただろう。
 でも泣いたり嘆いたりする暇など無いとばかりに、
 最善の治療法を探し、
 体の許す限りやりたいことをやり切った姿には、
 何か教えられるものがありました。


とりとめないですが、死の恐怖への私の割りきり?を一応まとめます。

・死ぬのが怖いのは本能的にプログラムされているものなのでしょうがない

・死ぬ間際の苦痛はどんなんか分からんけど、必ず終わりは来る

・死後どうなるか、孤独になるのかはいくら考えても分からない。想像するのは自由なので、なるべく明るいあの世を考える

・どのみち死ぬ運命は免れず、
生きている時間は限られているので、
 生きているうちにやれることを全力でやる。
 回りの人に何を残したいか考える

とにかく死ぬときには、周りの人に笑顔を残したいですね。
親戚の方のお葬式で、
みんなが
「ありがとう」
と言い合っていたことがあったそうですが
(そういう人柄のおじいさんだったらしい)
私もそうありたいものです。

長くなりましたが、今回はこの辺で。

posted by Amago at 07:28| Comment(0) | 人生 | 更新情報をチェックする