2017年07月09日

「菜食への疑問に答える13章」シェリー・F・コーブ著

「菜食への疑問に答える13章」シェリー・F・コーブ著

以前新聞の書評に出ていて気になっていたので借りてみた本です。

筆者は5年前から、
ヴィーガンという、動物性食品は一切食べない
(つまり、卵も乳製品も動物性油脂も全て食べない)
厳格な菜食主義者だそうです。

この本はなぜ菜食主義なのか、
という理由を
「なんで動物はダメで植物はOKなの?」とか
「お肉がないと美味しくないんじゃないの?」
あるいは
「ほかの動物もお肉を食べるでしょう」
など、
菜食主義者ではない人が抱きそうな素朴な質問に答える形で、
論理的に考えようとしています。

私自身は菜食主義ではなく、
菜食主義の人も周りにはいないので
彼らは自分の健康のため、あるいは嗜好でそうしてるんかな~、
とか勝手に思っていました。

しかしこの本を読んで
問題はそんな軽いものではないということを知りました…

食べること、命を奪うということは何かを
考えさせられた本です。

ちなみに訳者の井上太一氏も菜食者で、
動植物の倫理について考えている方だそうで
彼自身の意見も随所に書かれていました。

あと、菜食主義者、と言っても程度によりいろいろなので
この本では
ヴィーガンの人は「菜食人」
それ以外の菜食主義者(例えば肉は食べないが卵や乳は食べるなど)
は「菜食主義者」と区別しています。

というわけで内容から。
〇菜食人はなぜ菜食なのか
 最初に筆者は菜食主義の人がそうする理由について
 大きく三つある、と書いています。
 ・健康のため
 ・環境保護のため
 ・動物の権利を守るため

 最初の「健康」は、簡単に言えば
 動物性食品は生活習慣病の大きな原因となるから、ということらしい
 血が汚れる、という人もいますね。

 次の「環境保護」は、
 家畜を育てるのに消費する資源(その生き物が食べる飼料を育てるお金、手間、水、燃料…)
 あるいは家畜を育てるうえで排出される、水や大気の汚染
 などが、
 同じカロリーの穀物を育てるよりもはるかに大きい、ということらしい。

 そして最後の「動物の権利保護」
 は、これが一番詳しくこの本で扱われていることですが
 動物は家畜小屋という牢屋に閉じ込められ、
 卵や乳を取るために性奴隷ともいえる状態に置かれ
 と殺という手段により人間の都合で殺される
 そんな残虐行為に加担するのは耐えられない、という考え方のようです。

 しかし、特に最後の動物保護については、
 動物性のものを食べる人も菜食者も
 議論が感情的になりがちだ、と指摘しています。
 真実を知り、議論する態度が必要なのではないか、 
 そのためにこの本を書いたそうです。

 そして、「菜食主義者」がよく聞かれる質問について論理的に考える、という形で問題を提起しています。

 それぞれの議論については筆者が丁寧に書いてらっしゃいますが
 私のとらえた内容で書いてみます

質問は13個。
〇「動物がダメなのに、なぜ植物なら食べていいのか」
 これについては、筆者は食べていいもの、いけないものについて
 「情感」(sentience)を持つものと持たないもの、で線引きしているようです。

 動物については、痛みも感じるし、哀れみ、苦しみも感じている
 それは研究や経験で明らかである。
 痛みも苦しみも感情も、親子の愛情も感じる動物をどうして苦しめられるのか、と。

 「人間のように知性があるものだけが人権を持つ」
 という意見もあるが、
 それでは知性をまだ持たない幼子はどうなるのか?
 「幼子はいずれ成長したら知性を持つ」
 とするならば、
 それでは早死にする可能性のある障害者の子供などはどうなるのか?
 それでも殺すことはしないだろう、としています。

 いずれにせよ、動物も言葉はなくても苦しみがあればうめき声をあげて訴える
 彼らには知性がないとするのは短絡的だ、というようなことを述べています

 また逆に、
 「植物だって、切られたら何らかの防御反応をする、ならば苦しんでいる可能性はある」
 という意見もあるが
 我々も免疫防御システムはあるが、それを意識して行っているわけではない
 防御反応があるからといって、意識がある証拠にはならない、と述べています。

 植物に関しては「苦しんでいる可能性はある」が、
 それははっきり証明されているわけではない
 しかし、動物については苦しみ、感情、愛情を感じている事実、証拠はあるので、
 そこは尊重されるべき、としています。
 
〇「菜食主義になったら食べる楽しみがないのでは?」
 これについては筆者は否定しています。
 菜食主義でもおいしく食べられるレシピはある、とのこと
 筆者も食いしん坊だったので、
 菜食主義になると楽しみがなくなる、という恐れはあったそうですが
 知り合いにレシピを聞き、作ったりしているうちに
 それは杞憂だった、とわかったそうです。

 菜食主義の集いは、禁酒の人たちの集いと似たようなものと思われがちだが
 それも違う、とも話しています。
 確かに、どちらもその人たちと集まっている方が気楽、という共通点はある。
 しかし禁酒の場合、飲みたいものが見えないからホッとする、という感覚だが
 菜食主義の場合は禁欲しているわけではない
 むしろ、自分が見たくない肉の料理などが無いのでホッとする、という感覚らしい

 また、筆者は
 菜食人が、
 「楽しみが無くなるんじゃないの」
 と言われて
 「あなたは自分の快楽を、動物の苦しみより優先させるのか」
 と感情的になる人もいるのだが、それは
 「残念な反応」としています

 それは、人間とはそもそも快楽を優先させ、苦痛を避ける生き物であり
 それは菜食人とて例外ではない、と思う謙虚さが必要だとのこと

 動物性のものを食べるのをやめない人たちは
 自分を優先させる自分勝手な人などではなく
 動物性のものをやめたら楽しみが無くなるんじゃないか
 なにかが奪われるんじゃないか、
 という恐れのために決断ができず、習慣が変えられないだけのことで
 そういう気持ちも尊重しないといけない、
 とのことです。

 そのうえで、
 「そんなことないよ、美味しいよ」
 と気楽に言ってあげればそれで済むんじゃないか、と述べています

〇「肉を食べなくて、健康は大丈夫なのか」
 (後で調べたら、ネットではこれが結構論争になっているようですが)
 筆者はこれに関しては問題ない、としています。
 むしろ菜食の方が健康な生活を送れるのだそうです。
 動物性食品の摂取は、糖尿病や心臓病のリスクを上げる
 という疫学的な調査結果もあるそうです

 よくあるのは「タンパク質は足りるのか」という質問
 しかし野菜にも豆類にも十分タンパク質は含まれる
 菜食者のボディビルダーもいるそうです。

 また、「カルシウムはどうなのか」
 これも野菜で補えるそうです
 また、カルシウムは摂取することよりも、体に沈着することが大事
 動物性たんぱく質は、カルシウムの吸収を妨げるという結果もあるのだそうです。
 実際筆者の母親は、乳製品を沢山取っていたが骨粗鬆症になったそうです

 ほか「妊婦は肉を食べたがるが、これは赤ちゃんが鉄分を欲しているからだ」
 という意見については
 肉から鉄分などを取る習慣があればそう思うのかもしれない、とのこと
 鉄分も、植物には含まれる
 
 アメリカの栄養学会も、「菜食の食事はどの世代でも健康」
 という太鼓判を押しているのだそうだ
 
 ただしビタミンB12はサプリメントで補給しないといけないそうです。
 これは動物性食品に多く含まれているが
 動物が作るのではなく、微生物が作ったものを動物が摂取している
 なので、昔の人は土付き野菜からそれを摂取していたのだとか…
 それから日光に当たらない人は
 ビタミンDも接種したほうがいいそうです

 しかしいずれも、これらを強化した食品はすでに存在しているそうです。
 (アメリカの話なので、日本にあるかどうかは分からない)
 ほか、酵母パウダーをまぶして食べるのも効果ありなんだそうな

〇「卵や乳は食べてもいいでしょ?」
 菜食主義の中には、肉だけは食べないが卵や乳なら食べる、という人もいる
 これは、肉なら動物を殺すことがすぐに想起されるが
 卵や乳なら彼らの体を傷つけないイメージがあるのでは、ということです
 あるいは、いきなり野菜だけというのもきついので、
 卵や乳は取るというマイルドなやり方から入る、という人もいる
 
 しかし筆者によればこれは大きな誤解だそうだ
 卵や乳は、鶏や牛が自然に出してくれるもの、
 我々はそれをいただいている、というイメージを持ってしまいがちだが、
 我々は卵や乳を採取する際にも、動物たちを十分傷つけている
 というか、一瞬で殺すよりもっと大きな苦しみを与えている可能性があるそうです

 ここの章の描写は読んでいてかなりきつかったのですが
 確かに自分も子供を産んだので実感として分かりました。

 例えば牛が乳を出すのは、子供を産んで子供に与えるためで、
 妊娠によりホルモンが分泌され、その影響で胸が張る

 ですので、牛に牛乳を出してもらうために
 人間は牛を固定し、無理やり受精させる

 そうして子供を産ませるが、産んだ子供はすぐ母牛から引き離す
 もちろん母牛は産んだ子供を探し回り、嘆き悲しむ
 しかし人間はその牛の胸から乳を搾り取る
 
 乳が出なくなると、次の妊娠を無理やりさせる…
 ということを何回も繰り返して、
 体がボロボロになる
 (授乳はたしかにかなり体力使います)

 そして、もう子供を産めなくなったらと殺するのだそうです
 (しかし、と殺するときに子供を宿している牝牛もいるそうです)
 こういう廃肉がハンバーガーなど安いものに使われる

 また、卵を産む鶏については
 普通は年間に数十個しか産まないそうですが
 これを年間300個産ませるのだそうです
 卵を沢山産むため、こういう雌鶏は子宮の収縮が起きすぎて外に脱落する
 また、卵の殻にカルシウムが使われてしまうので
 骨はボロボロになるのだそうです。
 そうして産めなくなったらと殺される

 乳を搾り取られる牛も、
 卵を沢山産まされる鶏も、
 死ぬまで酷使されるので、寿命は野生のものに比べかなり短い

 また、雄たちに関しては
 どちらも不要なので
 生まれてすぐに選り分けられ、肉用に回されるかすぐに殺される
 子牛の肉などはこういう肉が多いそうです

 たまに「子供の牛などかわいそうだから買わないようにしよう」
 という人もいるが、
 根本はこういう乳や卵を作るためのシステムが原因で
 その際に出てくるお肉を少しでも有効利用しよう、という結果が子牛の肉
 なので、乳や卵を食べるのをやめない限り、不幸はなくならない、とのこと
 
 また、卵、肉を食べるための鶏、というのは品種改良により特化されており
 肉用の鶏肉はすぐに大きくなるようになっている
 なので、食用としてと殺する段階でも、体は大きくても中身はまだ子供の段階で
 と殺されるときに「ピヨピヨ」と鳴いていたという証言もあるそうです。
 また、食用の七面鳥などは品種改良により
 大きすぎて自分では動けないし、受精もできないような体にされてしまっているのだそう

 我々が乳や卵を求める限り、
 このような鶏や牛の受難は無くならない

 卵や乳製品を食べる菜食主義者の中で
 もし「この段階で十分動物は傷つけてない、これ以上禁欲しろというのか」
 と考えている人がいるなら
 もう一度考えてみてほしい、と筆者は述べています

〇「私チーズバーガー注文したいんだけど、食べていい?」
 筆者はこの類の質問が困る、と書いています。
 相手は「あなたはあなただから別にいいよ」
 と言ってくれることを期待しているのだろうが、
 しかし本音は「いや」なんだそうです。
 
 この質問は、チーズを食べることについてグルにさせられているようなもので、
 おそらく相手は、自分の罪悪感を軽くするために言っていると思われる
 しかし聞かれた菜食人としては、自分の信条を曲げるわけにもいかない
 「相手との友情を選ぶのか、それとも自分の菜食主義という信条を選ぶのか」
 という二者択一を迫られている気にさせられている、と言います。

 私はこの章の主題が最初よくわからなかったのだが、
 これは菜食人がどうやって周りにカミングアウトすべきか、という問題のようです。

 なぜ多くの人は動物がかわいそうだ、という感覚は共有できるのに
 動物を食べることは悪いと思わないのか。

 筆者はそれは、
 動物を食べたがることは正常、という社会通念、習慣のためだとしています
  例えば昔は奴隷制度を反対する人でさえ、
  白人と黒人差別は仕方ない、と考える人か多かった事実があるそうです
 社会で普通のもの、とされていることはしてもいいと考えがち
 
 菜食人は、そういう「普通」とされていることについて
 「あなた、本当にそれでいいの?」
 と存在自体で相手に突き付ける。

 (筆者はここまでは書いてないけど、菜食人は、本音では
 「世界から動物性食品がなくなってほしい」
 「相手にも変わってほしい」
 と思っているのだろうと思います)

 だから、相手は菜食人だ、と言われることで、
 自分が肉を食べることに口出し、批判されている気分になってしまい
 自己防衛的な反応を取ってしまう可能性は大いにある
 (このため冒頭のチーズバーガーの質問をして、自分の罪悪感を減らそうとする)

 このため、公表すること自体で、人間関係に摩擦が生じると予想される
 なので菜食人は相手にカミングアウトをためらってしまう

 筆者はLGBTの人のカミングアウトと並べてこの問題について考えています。
 
 共通点を考えると
 どちらも自分の信条を隠すことは可能であること、
  (どちらも見た目では明らかにはならない)
 カミングアウトにより他人に不快感を与える可能性があること、
 だそうです

 異なる点は
 LGBTは他人にも同性愛になるように求めることはない
 (ただ、同じ性的な嗜好を持つが公表しない人たちに対して、
  自分に嘘をつくのはよくない
  ということを示す、という意味合いはあるかもしれない、とのことですが)
 一方菜食人は、他の人にも動物性食品を食べる是非を考えて欲しい、と願っている

 …筆者はこれを並べてどうするべき、という結論は出していなくて、
  その話題を意図的に避ける人、公表して何を言われても受け流す人
  みんなに考えてもらうよう働きかける人、
  色々だが
  一番いいのは相手が興味を持って質問するのを待つことではないか、
  と述べています。
  考えてもらうよう働きかけたところで鬱陶しがられるのだそうです。

  一般的には、大っぴらに言うか
  誰にも言わない、言っても目立たないように振る舞うか、どちらか極端なことが多いようです。

 ちなみに訳者も最後に意見を書いていますが、
 冒頭のチーズバーガーの質問については
 「ごめん、それ聞かれると困る」と正直に言うのが一番なんじゃないか、とのことです

まぁいずれにせよ、菜食人の前では動物性の物を食べない方が彼らにとっては良さそうです

○「お肉になっている段階で、動物は既に死んでるじゃない」
 これについては筆者は、
 この論理はなりたたない、
 肉、卵、乳製品などを食べる人がいるから、動物への残忍な行為が起きているんだ、
 というようなことを書いています。

 ちょっと変わった狩人が、動物を撃つのが好きで
 撃った動物を道端に置いて放置する
 それを誰かが拾って、もったいないから食べる

 …こういう状況なら話は分かるが
 現実はそうではない。
 動物へのと殺や動物からの略奪が行われるのは
 それへの需要があるからだ、と。

 世の中には、動物の虐待ビデオ、児童ポルノのビデオを見て
 性的興奮を覚える人がいるんだそうですが、
 これらのビデオを買い所有する人は、
 それらを作る人(つまり直接虐待に手を出した人)
 と同様に罰せられる。 
 動物性食品を欲しがることはこれと似たようなものだと。

 しかし現実には罰せられない。
 それはなぜかと言えば、動物性食品を欲しがることは「正常だ」、とされていること
 もうひとつは我々が直接手をを下していないからだ、としています

 心理学的に、人間は被害を受ける人を目の当たりにすると
 一番痛みや罪悪感を感じる

 そのため、
  自分で人を刺して殺す
  発砲して遠くの人を殺す
  爆弾を投下してよその国の人を殺す
 罪をもっとも感じるのは自分で直接刺す行為だが
 手段は何であれ、人を殺すことの罪は同じ

 動物に対しては
 このような心の痛みを回避するために
 我々は業者に頼んでその役割をしてもらっている

 動物への残忍な行為を直接しない、見えないために
 我々はそれを「無いもの」と思ってしまうが、
 動物性食品を求める限り
 その行為に荷担している事実は変わらない、
 と述べています

○「中絶は反対なの?」
 筆者はこれについては、中絶は問題が全然違う、という話をしています。

 共通するのは、
 中絶も動物性食品を食べるのも
 何の罪もない者の命を奪う、という点

 しかし、筆者の論法によれば
 中絶するか否かは、母体にかかる負担を考える必要があるので話が違うらしい
 望まない妊娠を続ける場合、
 母親は望まない子供に栄養を与え、出産のリスクを負わねばならない
 
 ここで例えを出していたのですが
  AがBを殺したい、と思ってCに依頼する
  CはBを刺すが、瀕死の時にたまたま通りかかったDは、巻き込まれるのがいやで助けない
  ここでEはBに臓器提供をすれば助かる、と言われるが断る
  FはBに臓器提供をしてBの命を救う

 …というシナリオで、
 ここに出てくる人の役割を大きく分類すると
  殺人者はAとC
  傍観者はDとE
  慈悲深い助ける人はF
 になるのですが

 もちろんAとCは非難され、Fは称賛される
 しかし同じ傍観者でも、Dは非難されるが、Eは仕方ないと思われる
 妊娠や中絶の場合、これらの人物のだれになるかが立場により解釈が変わる、
 というところに問題があると述べています

 つまり、
 中絶賛成の人から見れば
 中絶する行為はE(出産の危険があるので仕方ない)、中絶しないのはF
 中絶反対の人から見れば
 中絶する行為はA(医者に胎児を殺すことを依頼する)あるいはD、中絶しないのはF

 賛成、反対は、菜食人であってもどちらも取りうることは可能、だそうです。
 なので菜食人だから中絶賛成かは意見が分かれる
 
 もう1つ、菜食人と両立するかどうかは
 「情感があるかどうか」という部分もあるそうです。

 胎児は初期の段階なら、まだ意思は持たない
 しかし後期になると耳も聞こえ、目も見える、
 何らかの痛みを感じる可能性はある
 アメリカでも多くの州は20週以降の中絶は禁止されているそうです
 (おそらくこれは、母体への負担もあるのでしょうが)
 
 これらを考えると、筆者は中絶は賛成するが、
 後期中絶は反対、という立場を取っているようです。

 また、望まないにしろ、妊娠をするには男性と交わる必要があり
 それをしなければ妊娠しなかったわけで
 そういう意味では母親にも責任の一端はある
 (レイプなどで不可抗力の場合は別でしょうが)
 しかし筆者は、交わったところで妊娠確率は2%程度なのでそこは免れる、としています。
 
 つまり筆者は、中絶と動物性食品の摂取は別ものの問題なので
 どちらの立場も取りうる、と述べています。

 ちなみに訳者は、この章の筆者の論理展開は首をかしげる、というようなことを書いています。
 中絶される胎児の人権と、母体の負担は同列にはできない。
 また、胎児が人格を持つことを考えれば、後期中絶はそもそも選択肢にいれるべきでない。
 また妊娠確率が低いからと言って、
 望まない妊娠を防ぐことを怠った母親が無くなることはない、とのことです

〇「他の動物もほかの動物を食べるでしょ」
 筆者はこの意見の根拠は二つあると考えられる、としています
 一つは、「ほかの動物が肉食なのは、それが自然にかなっているから」という意見
 もう一つは、「ほかの動物も食べるんだから、人間も食べたっていい(お返しみたいなもの)」という意見

 前者については、人間は肉体の構造からして、
 肉を食べるのは「自然」ではないとしている
 肉食動物は、あごが外れない作りになっていたり、歯や爪が鋭い
 消化器官も、肉の消化に耐えられるように強酸性の胃液をもち、大きい
 一方草食動物は、すりつぶすための歯だし、あごは横にはスライドするが縦方向に外れやすい
 消化器官は細長く、胃液は酸性が強くない

 ここで人間の体を調べると
 歯は犬歯はあるものの、そんなに鋭くはない、
 あごも外れやすい、
 胃腸も細長く、肉は加熱せねば消化できない、肉を入れれば腐敗するような作り

 つまり体の構造的にも肉食用になっていない、と述べています

 また、自然にかなっていればそれをしていのか、という問題もある
 自然界の生物を見ると
  強制的な性交、幼い子を殺す行為、ゼノフォビア(自分の集団以外の個体を憎悪する)
 という行為は、自分の遺伝子を残すために見られるが
 これらは人道的に見てレイプ、殺人、差別に当たる行為で許されるものではない
 そこを判断して止めるのが人間の知性で、
 自然ならしてもいいという論理にはならない、と述べています

 もう一つの「動物がするなら人間もしてもいい」という根拠については
 一つは、これは「ほかの人間が殺人してるから僕もしていいんだ」と言っているのと同じで、
 全く意味をなさない、としています
 また、動物は肉食であったとしても、どの種ものべつまくなしに食べているわけではなく
 食物連鎖の相手だけを食べている。

 ほかに、「身を守るために動物を殺して食べている」
 という見方もあるが、
 現在別に動物は襲ってくるわけではないし
 筆者によれば肉を食べなくても栄養は摂取できるので、生きるために殺さねばならないわけでもない

 むしろ、肉を食べることで環境を破壊し、資源を無駄遣いしている
 先進国が肉を食べることで発展途上国の飢餓を産んでいる事実もある、
 と述べています
 
 また、動物は意思がなく、本能で相手を殺して食べている
 人間は分かった上で動物を殺したり、略奪している意味で罪は深い、とのことです
 
〇「宗教では人間が上、というけど…」
 この章は聖書系の信者ではない私にとってはいまいちピンとこないものでしたが
 筆者はユダヤ教の家のうまれなのだそうです

 ユダヤ教では、「人間はほかの種より特異な能力を持つので、多くの規範を持つ」
 とされており、人間はほかの生物よりも価値がある存在、とされているようです

 しかし、筆者はだからこそ、責任も伴う、と考えているようです。
 人間は命を壊す能力も持つが、生かしたり創造する能力もある
 これがゆえに謙虚さが必要なのでは、とのことです

 聖書などでは、奴隷や動物のいけにえを容認するような記述はあるそうです。
 (具体的に引用もされていました)
 しかしこれに関しては、聖書に書いてあることをすべて実行する必要もない
 聖書というのは絶対の教えではなく、
 その時代の人間の誤解や混乱を反映したもの、ととらえれば
 今の時代の文脈で人道に反すると思うことはしなくてもいいのではないか、とのこと
 
 また、聖書の創世記などを丁寧に読み解くと
 人間は動物を守り、植物を食べるように諭していると読めるのだそうです

 それから、ユダヤ教などでは、豚の食べ方には厳しい決まりがある
 これは、本当は肉は食べないほうがいいが、
 それでも食べるというなら苦労や不便を経ないといけない、
 という教えだとのこと

 また、ユダヤ教に関して言えば
 動物をと殺することは許されているが
 いろんな箇所に、乳飲み子の動物を食べてはいけない、
 親子で一緒にいる動物を引き離してはならない、と供述されているそうです。
 ですので、乳を取るために子供を親から引き離し雄牛を殺すシステムはこれに大きく反している

 基本的に、聖書は決していけにえを奨励しているのではなく、
 動物への思いやりや気遣いを持つよう諭しているもの、と述べています

〇「先住民族も動物を捧げる儀式をするでしょう」
 先住民族には、いけにえを捧げる儀式や動物に感謝する儀式がある
 これがあるなら許されるのでは、という意見もあるようです

 しかし筆者によれば
 そもそも先住民族は動物性のものはほとんど食べない
 アメリカの先住民族は穀物や野菜を主に食べ、
 感謝祭はあるが、あれはもともとは七面鳥は関係ないものだったそうです

 また、彼らの儀式は「感謝」「謝罪」のためとされているが
 筆者は「葛藤」「悔恨」を示すものではないかと解釈しています。

 考えてみれば、殺人の被害者遺族が加害者に
 「ありがとう」と言われたらただの侮辱になる
 また、「ごめんなさい」ならまだましに聞こえるが、
 それでも相手は行為自体を変える気はないように聞こえる

 「儀式」は、相手を痛めてしまったという現実から目を背けさせてしまう一面もある
 我々は動物が喜んで自分を犠牲にしてこちらに差し出してくれた、
 謝ったら許してくれる、と勘違いしている、と述べています
 
 エスキモーは
 「人間の食するものにはすべて魂が宿っている、
  彼らが復讐することないように弔わねばならない」と言っているそうです
 ほかの民族でも、清めの儀式などを行うが
 これは動物から恨みを買わないための儀式なのだそうです。
 
 これらの儀式を行う民族は、動物の魂を恐れているが
 ほかに栄養源がない、食べないと生きていけないために仕方なく食べていた
 つまりここには「後ろめたさ」があるということです。

 一方、アメリカでのファストフード店では
 キャラクターに鶏を使い、その鶏が食べられたまま喜んでいる、
 というCMを流しているそうです
 ここには、動物はと殺に対し何も感じない間抜け、と見下す気持ちが隠れている
 そうすれば我々は罪悪感なく食べられるから、と述べています
 
 つまり先住民の持つ動物への畏敬、悔悟の念は
 今の動物性食品の消費には見られない、とのことです

 また、筆者は先住民族がしている習慣だから見習うべき、
 という論法もおかしい、とも書いています
 先住民族でも、奴隷制を受け入れた人もいるし、儀式を儀礼として行っている人もいる
 見習うべきは見習い、よくない風習は受け入れないのが知性だとのこと

〇「人道的な飼育をされた動物ならいいのでは?」
 ここの章は私はちょっと理解しがたかったのですが
 (質問する人の考え方自体が理解できない)
 「人道的な飼育」を推し進める人も世の中にはいるそうです

 これは、動物はどのみちと殺され、食べられる運命にあるが
 せめて生きている間は苦しめないようにしよう、
 そのように苦しめない育てられ方をした動物の肉、卵、乳を買おう、ということらしい

 しかしこれはおかしいと筆者は述べています
 まずそういう肉などを買ったとして
 個体それぞれの運命は変わらない
 どんな飼われ方をされようが、需要があればいずれは殺されるし
 それが先延ばしされるわけでもない
 
 また、業者からしても勝手な論法だと思うだろう、とのこと
 業者は、一番コストがかからず、いい品質の肉や卵や乳を提供するかを考えている
 それを消費者の都合で、「これが人道的」「これは非人道的」と勝手に決めるな、
 自分は別に好きで動物をいじめているわけではない、
 それにおたくが決めた「人道的」な方法は、本当に動物にとっていい方法なのか?
 というわけです。

 アメリカの学者で人道的飼育を提唱した方がいたそうですが
 取材したジャーナリストに
 「どのみち殺されるのに、人道的な育て方をするのに意味があるのか」と聞かれ
 「それは、末期がんの患者にどのみち死ぬからモルヒネを投与しない、というのと同じこと」
 と答えているそうです

 しかしそれもおかしい、と筆者は言っています
 末期がんの患者は、何をしてももう助からない運命とわかっているから緩和ケアをする
 しかし、動物の場合、人間が食べないと決めれば彼らの命は救われる
 それはホロコーストで、
 「一番人道的な方法」として毒ガスでのユダヤ人殺害を選んだヒトラーと同じ
 ユダヤ人を殺害しない、という選択肢はあるのにそれに目をつぶっている、としています

 また、筆者は人道的な飼育、の一番の罪は
 動物に対する裏切りになること、と述べています
 人道的に育てられたら、動物は周りの人間を信用し、自分は価値があると思う
 しかしその人間が実は自分を殺す人だった、
 とわかった時の苦しみは大きいのではないか、とのこと

 ちなみに、カズオ・イシグロさんの小説「私離さないで」
 には似た状況が描かれている、とも述べています
  この話は、臓器提供するためにクローン技術で生み出され生かされる人たちがいて
  主人公も(最初は知らないが)いずれは提供する側になる運命、という設定だそう
  臓器提供される子供たちは、教育など恵まれた環境で育てられる
  この話では、操作する側の人間の間で
  「こんなことをしたら提供者が裏切られた気分を味わう」「罪のない人たちの命を奪う」
  という論争を巻き起こすのだそうです。
 (これは日本でもドラマ化されてたような気がします。
  なんかくらーいおもーい話で、見る気はわかなかったけど…)

 筆者は、本当に動物を大事に思うのであれば、
 動物を殺さない選択肢を考えるべきだ、と述べています
 
〇「動物を食べなくなったら、家畜がこの世からいなくなっちゃう」
 この章も質問自体がちょっと理解できんなと思ったのですが
 我々は動物を利用することで、彼らを生かしているんだ、
 そうでなければその種は滅んでいるかもしれない、ということらしい

 これについては、筆者はそれは人間の自分勝手、と述べています
 1つは、ある種を利用するために生かすとしても、
 残すものはそのDNAであって、それぞれの個体ではない、ということ
 牛とか鶏の遺伝子は残されるし、種としては生き残るが、
 育てられ、いずれは殺される各個体の生命を守っているわけではない

 また、残すDNAも、人間にとって都合のいいものだけ
 動物にとってベストであるわけではない
 例えば、鶏などは、たくさん卵を産むよう、早く大きくなるよう品種改良されるが
 その結果、卵を産んで子宮を脱落させ、傷み苦しむし
 大きくなりすぎるので自分では動けず、生殖もできない
 つまり鶏自身にとっては衰弱、苦痛を与えるだけの不幸な品種改良になっている

 畜産利用が減れば、動物は減るかもしれないが、
 どのみち人間も野生動物を「被害管理」と称して打ち殺し、野生動物を絶滅させている事実もある

 肉や乳をむさぼるために生かすこと、
 自分たちの都合に合わせてDNAを選抜することは
 果たして動物たちにとって幸福なのか、と述べています。
 
〇「動物のものを完全に利用せずに生きるのは無理なんだから、努力しても無意味じゃないか」
 どんな菜食人でも、動物を完璧に利用せずに生きるのは難しいそうです
 食べ物でなくても、と殺の副産物は道路やタイヤ、医薬品、有機肥料などに使われている
 また、植物を栽培するときも、
 農業機械にひき殺される動物もいるし、ミツバチを使って受粉をさせる問題もある

 ですので、動物を食べないことに意味があるのか?
 という意見はあるそうです

 これについて筆者は、
 菜食人はこの世界で動物を完全に傷つけないで暮らすことはできない、
 と自覚しておいた方がいい、と述べています
 「あなただって動物を傷つけているでしょ」
 と批判する人はいるし、
 それはたしかにそうなので、そこは謙虚に受け止めるべきだと。

 その一方で、「完全は無理なんだから諦めたら」
 という意見を二つの問題に分解し、それぞれについて反論しています。

 一つは、努力には意味があるのか。という問題。
 もう一つは、菜食自体が動物にとって本当にベストなのか。という問題。
 
 前者については、
 努力しても完璧にできないから努力しない、という話なら、残るのは無力感しかない
 と反論しています。
 筆者は子育てしている女性ですが
 怒ってはいけないと思っても時には感情的になってしまう
 でもだからといって子供に感情に任せて当たり散らすのがベストとは言えない
 努力を続けることがプラスになるのだと。

 菜食についても、無意識に食べている自分を意識的な選択に変える力がある、と述べています
 
 後者については、菜食という選択肢はそもそもベストなのか。それが動物を救っているのか。
 ですが
 道路やタイヤなど、とさつの副産物でできているものについては、
 と殺自体が行われなくなれば、代替品が考えられるだろう、とのこと
 それだけを作るために動物を痛めつけることは高コストになり、考えにくい
 今動物由来のものを使っているのは、
 と殺に伴う副産物が大量にでき、それを有効活用するためだから、とのこと

 また、栽培用機械で動物がひき殺される事態については
 動物を大事にしようという意識が強まれば、別の方法や機械が考えられる余地がある、とのこと
 また、動物を育てるためには
 穀物そのものを食べるよりも、たくさんの飼料用の穀物を育てなければならない
 ですので、動物を育てる方が、たくさんの動物をひき殺す可能性が高くなる
 つまり穀物や野菜を育てることが、逆説的だがひき殺す動物の数を減らすことにつながるそうです

 そして最後にミツバチについてですが
 はちみつについては、子供の餌を奪っていることになるので
 筆者としては食べたくないらしい。
 これについては、今ははちみつもどきが売られているのでこれで代替できる。

 ミツバチを受粉に使うことについては
 これは直接痛めつけているわけではないが、ハチを操作しているし、女王バチを殺すことにもなるのは事実。

 しかし筆者は、我々は何も食べないわけにはいかない、
 果物や野菜、穀物は生きていくために必要なので致し方ないと述べている。

 こういうと、動物のものを食べるのも一緒じゃないか、となるが
 カロリー効率を考えたら、動物を育てるには飼料用作物も育てなければならないので、
 植物そのものを食べる方が犠牲は少ないそうです

 つまり、どのみち命を犠牲にすることには変わらないが、
 菜食生活を採用することで、その犠牲をなるべく減らせる、ということを言いたいようです

○まとめ
 筆者はこの本は菜食でない人に考え方を知ってもらうために書いたものではあるが
 菜食の人がどう質問に答えるかの参考にするかもしれないことを想定して
 菜食人への提言のようなことを書いています。

 菜食人は、そうでない人に質問されることが多い
 そのため動物性の物を食べる人はその理由を聞かれないのに、
 なぜ自分達ばかり質問攻めにあわねばならないのか、という気分にさせられるのだそうです

 あるいは、菜食人に対して悪いイメージを持たれている
 という被害意識を持つ人もいる。
 菜食人は「怒りっぽい」「独善的」「禁欲主義者」
 と言われるそうで、
 それに対し怒りを示してしまう菜食人もいる

 しかし菜食でない人の立場で考えてみると
 菜食人の存在そのものが、
 菜食でない人を落ち着かせなくさせる、という事実がある
 自分は、動物への虐げに荷担していることを自覚させられる
 責められていると思う人もいるいるかもしれない

 このため、菜食でない人は自己防衛的な質問をする人もいるかもしれない
 (チーズバーガーの質問など)
 ということを菜食人は考慮する必要がある、と述べています

 筆者はこれに対しては
 質問はお互いを理解しあうチャンス、と思うのがいい、と述べています

 菜食でない人の質問は
 単に異世界の人への素朴な疑問、好奇心から来る質問がけっこうある
 「食べ物の楽しみは?」とか、
 「健康は大丈夫なの?」
 とかいう質問はその類いのもの
 また、
 「中絶への意見は?」とか
 「宗教との矛盾は?」という思想的なものもそれに入る

 菜食人はこれらに対してきちんと答えていくことで
 菜食人でも楽しく食べられるよ、とか
 ほかの価値観とも矛盾なく生きていけるよ
 ということを示せるのではないか、
 と述べています

 また、
 「卵や乳製品ならいいでしょ」とか
 「人道的な飼育ならいいでしょ」
 などという問いは事実を知らないことからくる質問なので
 答えることにより相手の学びになり、誤解を解くことができる、としています

 筆者はほかにも質問はあるかもしれないし
 その全てに答がすぐに出せるわけではない、としています。
 また、正解があるわけでもなく、考え方は人それぞれ。

 筆者は、
 菜食はゴールではない、
 ただ菜食を選んだことで人生が変わったという経験を語ることはできる
 我々は、暴力を減らし、命あるものを思いやる道徳を身に付けていく必要がある、
 それをみんなで考えていってほしい、
 という感じで話を終えていました。

 訳者は後書きでこれに加えて
 いくつかの質問も加えていました。

○「肉を食べなくなったら畜産業の人の仕事がなくなるのでは?」
 これに関しては
 いきなり畜産業の仕事がなくなるわけではなく
 徐々に仕事が減ってフェイドアウトしていくと予想される
 その間に代わりの職業は見つかるはずだ、としています。

 また、この論法だと、
 奴隷制度が無くなると奴隷売買業者の仕事が無くなる
 と言っているのと同じだと述べています

○「貧しい人はどうするのか」
 最近では海外のセレブでヴィーガンが流行っているみたいなのですが
 菜食にしようと思うとお金がかかるイメージがあるようです
 しかし筆者は、小松菜を油揚げで炒めるとか
 少ない予算で菜食レシピを考えることはできる、とのこと

 つまりできる範囲ですればいい、
 という言葉になるが
 この言い方は訳者は好きではないらしい
 この言い方になると、できる努力もしなくなる余地が出てくるからだそうです

 我々は、社会に対して提案をする、
 例えば今菜食を選びたくてもできないのなら、
 コンビニやレストランにベジタリアンの物を置く提案もできる、
 と書いています

○「価値観の押し付けじゃないのか?」
 これに対しては、
 菜食人は価値観を押し付けているわけではない、と述べています。

 「命を粗末にしない」という価値観は人類共通のものとして認識されているはずで、
 菜食人は事実を述べ、
 動物を苦しめるのをやめませんか、
 と提案しているだけだとのことです

 訳者がこの本を翻訳した理由は
 1つは日本の動物擁護論を前に進めることだそうです
 日本の動物擁護の議論は感情的になりがち
 もう少し冷静な議論をしてほしい

 もう1つは、
 「命を大切にする生き方とはどんなものか」
 を一度考えてほしいと思ったのだそうです

 この本を読んでも分かるように、
 動物性の食品を求めることは、
 動物を家畜小屋に押し込め、
 性奴隷の行いで卵や乳を搾取し、
 と殺という殺戮を行っているのを容認しているのと同じである、と。

 この本を読む人は、
 すぐに菜食人にならなくても
 今後動物性の物を消費するときに違う感覚を抱くようになるはずで、
 それは倫理観に変化が起きた、ということを示している
 それを生き方を変える力に変えてほしい、
 と述べていました。

○感想など
・この本を読んだ直後は、
 さすがに動物性の物を食べることに罪悪感を感じました。

 しかしこの感覚はどこかで味わった気がして、
 思い出すと中学の頃、環境問題やエネルギー問題についての話を聞き、
 暖房をつけることに罪悪感を持ち、
 ぬるいお風呂に入ったり、暖房を使わず毛布にくるまって家の中で過ごした経験です。

 そのあと大学に進んだあと
 環境問題の専攻は取らなかったものの
 環境保護団体?のシンポジウムなどを見に行ったことなどもありました

 でもそこで感じたのは違和感…
 なんだろな、一種の宗教なんですよね。
 なんか情報が偏っているし
 感情的な議論になりがちというか…

 しかも環境に優しい商品とか
 健康食品とかフェアトレードのものって高いのよ。
 貧乏学生には無理です。
 しかも環境にいい商品てのは性能がよろしくない…

 禁欲的な生活って長続きしない。
 もう少しお気楽にいい生活はできないものかと思い、距離を置くことにしました。
 (私には無理でした)

 この本を読んで思ったのは、
 菜食主義者にもそういう情報の偏りがあるのではないかという懸念です。

 なので実践してる人ってどうなのよ、と思ってネットでも調べてみました

・色々読んでみて最初に突き当たったのは健康との関係です。

http://macrobiotic-daisuki.jp/bejitarian-yumeijin-nikukiken-16705.html
 などによれば、世界の偉人でも菜食主義者だった人は多い。
 アインシュタインやガンジーなども菜食主義者だったそうです

 また世界の政治家やセレブには菜食主義者もいて、
 クリントン元大統領、アルゴア氏もそうだし、
 歌手のマドンナさんも長年菜食主義だが、精力的にコンサートなどしているとのこと。

 しかし一方で、菜食だったがやめたという人もいました。
 中谷美紀さんなどはしばらく肉を食べていなかったが
 体調不良になってしまったそうです。

 そして、同じように体調不良が理由でヴィーガンをやめた方のブログが話題になっていました。

 http://neem.ti-da.net/
 この方のブログはかなり反響があったそうです。

 私も拝見しましたが
 彼の体験談と意見は傾聴に値すると思います。


 彼は真面目で厳格なヴィーガンだったようで
 9年間動物性の物を食べないばかりか
 白砂糖も食べない、野菜やお米は無農薬、減農薬のもの、
 調味料も無添加という徹底ぶり。
 また、そういう食品を売り、ヴィーガンの考えを広める活動もされていたそうです

 しかし5年目に原因不明の発疹や発汗がおき、体臭もひどくなった
 虫歯や病気にもかかりやすくなり、
 さらには常に低血糖で空腹感に悩まされていたそうです

 同じく菜食に熱心な彼の相方も、健康不良に悩まされていたし
 彼によれば「ヴィーガンで健康な人は見たことがない」
 ヴィーガンへの疑念が生じてきたそうです

 そのあとに歯科医をしている方のFacebookでヴィーガンへの反論を見て、
 (その方は肉食推進派で、
 人類が穀物を食べるようになったのはごく最近のことで
 人類の歴史から見れば肉食の方が理にかなっている
 ガンや虫歯などの現代病の原因は穀物や糖である、
 という趣旨の主張をされていたそうです
 私はその理論も極端だなぁとは思うのたが…)

 彼は反発もあったが、
 その後いろんな本を読み、
 それまで彼が勉強してきた菜食を主張する人たちは
 江戸時代は菜食、粗食でも健康だった、
 というのが根拠だったそうですが
 (海外の菜食人の根拠は分かりませんが)

 もっと長い人類の歴史から考える肉食推奨派の主張は
 彼にとって目からウロコだったそうで
 現実には体調不良もあり、そこから肉食断糖の食事に切り替えたそうです。

 すると肉食により体調は劇的に改善したそうです。
 空腹感もなくなり、性格も穏やかになったのだそう
 菜食生活を続けることで、慢性的な低血糖に陥っていたようだ、
 と書いていました。

 彼は本当にゴリゴリの菜食主義、勉強もたくさんされていたみたいで
 菜食主義を突き詰めると陰陽とかバランスとかいう話も出てくるんだそうです

 しかし今となっては、それは根拠のない宗教的なものにすぎないと感じるそうです

 彼のブログには反発も多く
 菜食主義者からは、やり方が悪いからだとかいう意見もあるそうですが
 菜食主義者の中でも生の野菜を食べろとか食べるなとか
 意見は別れるし
 そもそもそんなに厳格にやらねばならないものは続くのか?
 ということを書いています。

 彼は今では穀物も肉などもバランスよく食べる生活をされているそうです。

 彼は経験から、ヴィーガンで健康を保つのは、
 よほど栄養学に詳しい人でない限り本当に難しい、と述べています

 もちろん菜食で体質改善する人もいるが、
 それは元々過剰な糖質依存(ファミリーアイス一気食べするとか)
 など偏った人が多いのだそうです
 そういう人が改善しても、
 そこから菜食生活を長く続けるとやはり不健康になってしまうのだとか

 そういえば、
 最近は高齢者こそ肉を食べろとか
 長生きの人は肉食が多いと言われています。

 「肉を食べなくても健康だ」
 という菜食人の意見を聞くと
 肉を食べろというのは肉を売りたい人の陰謀か?という気もしてくるのだが

 私の個人的な経験から言うと
 若い頃は肉をそんなに食べたい気にならず、
 実際そんなに食べていませんでした。

 (食べたら気持ち悪くなるのもあるし
 スピ系の人が血が汚れると言っているのもあったのかもしれないし
 独り暮らしだと食べきれないのもあるし
 食べなくても別にいいやというのもあったし…)

 しかし最近はなぜか肉が食べたい。
 むしろ米が受け付けなくなってきた。

 年取ったら体のタンパク質を作れなくなるから
 体が欲するようになったんかなぁとか、勝手に思っているんですが…

 健康と菜食の関係は
 もう少し疫学的研究がなされてもいいのかなとも思います。

 (ちなみに先程のブログの方は、
 人間の体も肉食寄りに進化している、
 と書いています。

 「人間の消化器官は菜食寄り」
 とする今回の本の主張と違うのが興味深いので、一応記しておきます。

 ヒトは進化を遡るとチンパンジーから枝分かれしていますが

 チンパンジーは雑食で、
 主に果物を食べるが、昆虫やほ乳類からタンパク質も得る
 初期の人類も似たような食事で
 果実やナッツも食べるが、タンパク質として小動物は食べていたといいます。

 その後ヒトは道具を使い、
 別の種の骨髄や脳を食べることができるようになり、
 腸は植物用の長いものから肉食用の小さなものに変化したそうです

 そしてタンパク質の摂取が増えるに従い、
 脳がどんどん大きくなった。
 逆に言えば、大きな脳を作るためにタンパク質や脂質を効率的にとる必要が出て
 体も肉食用に変化していったとも言える

 腸の長さについては
 肉食動物は腸は体長の約4倍、
 肉食系の雑食の犬は体長の5~7倍、
 草食動物だと20~25倍
 なんだそうですが

 人間はというと、体長の7~9倍だそうで、
 腸の長さからしても
 一番近いのは雑食の肉食系の犬なんだそうです。

 人により体質は違うので一概には言えないかもしれないが、
 一般的に今のヒトは肉食寄りの体になっていて、
 菜食のみで生きていくのは大変ではないかとのことです)

・もう1つ突き当たったのは、動物倫理の問題です。

 今回の本を読んだとき、
 たしかに動物を痛め付ける行為はどうかと思ったが、
 動物はダメだが植物はいい、
 という論法はやはり違和感を覚えました。

 私はバイオロジーの世界で研究していた人間ですので
 動物実験でウサギを使ったこともあれば
 微生物の遺伝子組み換えをした経験もあります。

 ウサギは採血するために殺さねばならないし
 微生物は最後には高圧滅菌しないといけない
 考えれば恐ろしいのかもしれないが、実験なので無機的に行うしかない。

 一般的には、菌を殺すよりウサギの方がかわいそうに思えるのかもしれないのですが
 しかしどちらも命を操作するという点では同じです。

 筆者は酵母をまぶして食べたり、昆虫は感情はないという立場ですが
 私の研究していたところでは、
 菌たちを弔う石碑というのがあり
 「実験がうまくいかないときはそこにお参りしてこい」
 と言われたものです。
 微生物も恨みの気持ちを持っているのかも…
 と先人は考えたのかもしれません。

 筆者は家畜が人間に都合よく遺伝子操作されたと話していますが
 植物の遺伝子組み換え作物だってそれは同じだし
 古くから行われている品種改良だって本質的には同じようなものだと思います。

 稲は人間に都合よく変えられたため、
 稲穂が重すぎて頭を垂れているし
 野生種よりは病気に弱くなっている
 (アレルギーが増えているのはコシヒカリ系の品種が増えているから、と指摘する人もいます)

 作物の栽培自体も、
 その場所を単一作物にするわけだから人間の都合。

 考え出したら、人間が存在し、文明を進歩させていくこと自体が罪、
 ということになってしまうと思う。

 でも、だからここで原始的な世界に戻るのは現実的ではないし、
 進歩がないし、
 それは他の種にとって果たしていいことなのか分からなくなる。

 筆者は宗教の話の章で言っていたけど
 「人間は命を壊す能力もあるが
  命を生かし、創造する能力もある
  そこに責任を持つべきだ」
 まさにそうだと思うのです。

 動物を食べようが、植物を食べようが問題は変わらないように私は思う。
 操作される命、殺される命に思いを致し、
 人間が自分達のすることの重さを自覚することが必要ではなかろうか、と思います。

 ちなみに先に紹介したブログの方も
 健康だけでなく、現在の畜産のシステムの問題点、環境問題についても言及されています。

 そのなかで、彼がタイの少数民族を訪問した経験を語っていました

 その村では、
 小動物の狩猟もするし、
 家畜を育てたり米栽培もして生活しているそうです。

 彼はそこで、家畜に脳天を叩いて殺す体験もしたそうですが、
 それまでに彼らの餌は毎日人間が手作りするのも目にしている
 たしかに、その民族は動物を殺して食べるのだが、
 彼はそれを「命を繋ぐ」
 と表現していました。

 一方、彼は農薬だらけの畑で働いた経験もあるそうで
 その野菜たちは異臭を放ち、
 「まるで墓場」と表現していました

 植物にも命はある。
 いろんな生物が循環して命を繋いでいる。
 それを人間の都合で、単一作物の栽培で工場化してしまうのもどうなのか。
 命を繋ぐために動物を食べることと、どちらが悪なのか。
 問題は動物を食べる食べないではないのではないか、
 と彼は言っています。

 彼が身をもって知ったように
 ある程度の肉を食べないと人間は体が持たない
 ならば、命をいただくことに真剣に向き合うべきではないか、と。

 彼としては
 自給自足をし、必要なだけの命を、その有り難みを感じながら食べて繋いでいく、
 という生き方が理想なんだろう、としています。

 しかし現代のように人が多すぎる世の中では、
 現実的にはみんなが自給自足するのは無理であることも認めています。

 であれば
 なるべくそれを実感できるように
 育てられるものは自分で育てるとか
 搾取ではない方法で動物を育てていく農家を応援するとか
 もっと方法があるのでは、と。
 彼は現在そのための活動もされているようです。

 そういえば昔「レッツ天才テレビくん」という番組で
 小学生の子達が農場で動物にふれ合ったあと
 その動物を焼いて食べる、
 という経験をして
 一人の子供は最初泣いて食べられなかった、
 という場面がありました。

 一緒にいた大人の方が
 「辛いと思うけど、だからこそ命を大切にいただこう」
 と諭していたのが印象的でした。

 もしかしてそういう
 命をいただくことの重みを実感する経験
 というのが必要なのかなぁとも思います。
 命をいただくのは手間ひまかかりますからね…

 翻って私自身はどうかというと
 自給自足するでもなく
 畜産の経験もないですが
 せめてできることは
 1つはいただいた命を大切に残さず腐らせず食べること。

 私は基本的に食べ物を捨てたり残すのは嫌いで
 自分の子供にもそれでぶちギレたことがあるくらいです。
 最近では低糖食ブームで
 ご飯だけ残して肉だけ食べるとか
 ピザの具だけ食べるとか
 そんなことをしている人もいるようですが
 それも自分の都合だけで選び取る行為でどうかと思います。

 もう1つは、なるべくファストフードとか
 明らかに搾取畜産に荷担していると思われるものは買わないようにすることなのかな、と。
 コンビニの製品もなるべく控えようかなと思いました。

 それにしても
 卵や乳製品って、アレルギーの人の話を聞くまでもなく
 今やあらゆる加工食品に入っていて、完全フリーなのを探すのは不可能に近い。
 (不可能ではないのかもしれないが、探すのは困難)
 そんなに使わねばならないものなのか?
 いろんなものに使って需要があからこれだけ卵や乳が搾取されるのでは、
 とも思います。

 動物の卵や乳の代替品
 (できれば人体や環境にも良いもの)
 が発明されてほしい、とは思います
 発明されているのかもしれないが、一般的に使われるようになってほしい。

 色々考えさせられました。
 食べることは好きなので、力が入ってしまいました…

 というわけで、長くなりましたが今回はこの辺で。



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2017年06月27日

「1万人の脳を分析した医学博士が教える 脳を強化する読書術 」加藤俊徳 (著)

「1万人の脳を分析した医学博士が教える 脳を強化する読書術 」加藤俊徳 (著)

最近、昔に比べて本を読む速度が落ちたような気がする…
と思って借りてみた本。
とても読みやすい本でした。

この本の筆者は脳科学者ですが、
本を読むのがとても苦手だったそうです。
しかし脳科学を学んだあと、その理由は脳の使い方にあると知り
いろいろと試行錯誤されたそうです。

そんな筆者のアドバイスですので、実行したら
読書好きな人も、読書好きだと思っていた人も
もっと頭に入る読書ができるかも?

50近い方法の提案があるんですけど、
印象に残ったところを書いてみます。

〇残念な読書になる理由
 最初に、筆者は本の読み方として
 右脳をよく使う右脳派か、
 左脳をよく使う左脳派かの二つに分かれる、と書いています。

 筆者は右脳派で、文字を追うのが苦痛だったそうです。
 本を読むのが速い人は「内読」といって
 心の中で文章を読んでいるんだそうですけど
 それがほとんどできていなかったのだとか。
 このタイプの人は、本を読むこと自体が苦痛になってしまう。

 一方左脳派の人は、活字中毒と言われている人。
 読むのはとても速い。
 しかし、ほとんどの人は文字面は追っていても
 後で内容を聞くと「覚えてない」という人が多いのだとか。
 (私は昔このタイプでした)

 左脳派の人は読書量は多いが
 「残念な読み方」なんだそうです。
 というのは、このタイプの人は脳の視覚系のところしか使っていなくて
 思考とか記憶に結びつけておらず、
 だからせっかく読んでも頭に残らない。

 筆者はこの両者が「残念な読み方」
 にならないためには、
 脳を鍛えながら読むことだ、と述べています。

〇動きのある読書
 そこで、読書を脳トレに変える方法5つをまず提案しています

 脳科学的には、
  座って1つの本を最初から最後までじーっと読む…
 というオーソドックスな読み方よりも、
  場所を変えて読む、中断しながら読む、…など、
 一般的には邪道と思われる読み方が、実は効果的なのだそうです。

 筆者は前者を「静」の読み方、
 後者を「動」の読み方と名付け、
 「動」の読み方を5つ提案しています。

 1つまらなかったら途中でやめる
  苦痛を感じながら読む時間がもったいないし、
  ほかの本を読むことで発見があるかもしれないそうで、
  つまらなかったら中断していろんな本にどんどん触れたほうがいいらしい

 2何べんも繰り返して読む
  一回だけ読むと、主に視覚系の所が使われるだけ
  二回読むと、理解が深まる
  三回読むと、自分でも思考するようになる、
  と、使う脳の部位が変わっていくそうです

 3じっくり読む
  ゆっくり読んだ方が、情景を思い浮かべたり
  感情を味わったりすることができるのだそうです。
  頭をまんべんなく使えるのだそう
 
 4読む前に準備する
  背表紙だけ見る、あとがきを見る、など
  内容を見る前に準備的なことをすると
  本に親しみが持て、脳が動くのだそうです

 5本と縁結びする
  自分で選ぶ、自分で買う、持ち歩く、ということをすると
  本に真剣に向き合えるし、
  親しみも持てるのだそうです

〇筆者の分類した脳番地8つ
 筆者は、脳を地図に例えてざっくり8つに区切って番地を与えて、
 それぞれの番地部分を鍛える方法を提案しています。
 番地は以下のとおり
 1聴覚系番地
  部位で言えば脳の真ん中あたりで、
  「内読」とか「言葉遊び」をするところ
  アナウンサーが読み上げる時もここを使う  

 2記憶系番地
  部位で言えば下の方(海馬とかあるところ)で
  読んだものを記憶する役割

 3視覚系番地
  部位で言えば頭の後ろの方(視覚野などあるところ)
  文字、イラストなどの情報を見て、脳の別の部位に伝える役割

 4感情系番地
  部位で言えば前の下の方(偏桃体などがあるところ)
  感動したり、共感したりする役割

 5理解系番地
  部位で言えば聴覚系を取り囲むところ
  本の内容を理解し、自分の考えと比較したりする役割
  
 6思考系番地
  部位で言えば前のところ(前頭葉)
  判断とか、意志決定、創造などに使われる
  5の理解系と似てる気もするんですが、
  こちらは本の内容を何かに生かす、発展的に考える、という感じです
  
 7伝達系番地
  思考系の後ろくらい
  本の内容を自分の言葉に置き換え、他人に伝えるところ
  
 8運動系番地
  頭の上の方
  読んだ内容を頭の中でシミュレーションするところ

後の章では
これらの部位別に鍛える方法、が書かれていました。

〇それぞれの脳番地を鍛える方法
 個別の方法は覚えてないので概略だけ。
 1聴覚系番地
  ここは言葉に親しむことだそうです。
  自分で読み上げる、なりきって読み上げる、
  筆者の肉声を聞いてみる、など

 2記憶系番地
  何回も読んだり、感情と結びつけると記憶に残りやすいのだそうです。
  中断して途中から読む、
  同じ本でも場所を変えて読む、などすると
  いちいち思い出さねばならず、このため記憶に残る

  また、恋愛ものなどはらはらするものを読んだり、
  自分で人物相関図などを作るといいらしい

  また、電子媒体よりも、紙で自分で持つ本の方が
  記憶には残るのだそうです。

 3視覚系番地
  左脳の強い人は、文字から映像を浮かべるようにするといいらしい
  また右脳の強い人は、漫画など、イラストなどとともに文字を見ると頭に入るらしい
 (最近ビジネス本でも漫画のがありますけど、ああいうのを活用するのがいいそうです)
  
 4感情系番地
  ゆっくり読んだり、登場人物になりきったり、共感したりするといいらしい
  ベストセラーを読んで他人と意見を交換しあうのもいいそうです
  また、感情を揺さぶる本を探すには、
   ・自分にない新しい考え方の本
   ・共感できる本
   ・自分の経験や状況に近い登場人物がいる本
  などだそうです

 5理解系番地
  左脳系であれば言葉、右脳系であれば映像など
  なにか手掛かりを集めると理解しやすいらしい

  このため、キーワードを拾う、
  「わかった!」と理解したのを喜びながら読む、
  目次から読む、時代背景などを考えながら読む、などがよい

  また、自分の考えや経験と比べながら読むと理解しやすいので
  勝手に解釈してみる、
  自分の考えと比較する、
  読んだ後同じようなことをしてみるとか、舞台になっている場所に行く、
  などをしてもよいそうです

 6思考系番地
  この部位は、創造的なこと、決断、実行などをつかさどりますが
  ほかの部位との連携あってこその働きなのだそうです。
  ですので筆者曰く「攻めの読書」が大事らしい
 
  あとがきから読んでみると、作者の力の入れどころが分かる、
  筆者の伝えたいことは何かを探りながら読むと深く読める、
  同じ筆者の作品を時代を追って読んでみると、筆者の考えていることが分かる

  また、同時進行的に全く違うジャンルの本を乱読してみてもいい
  別の視点からその本をとらえるきっかけになるし
  脳を鍛えることにもなるそうです

  この部位が鍛えられると、難しいことがあっても
  じっくり考える能力が鍛えられるそうです

 7伝達系番地
  自分の考えを他人に伝えるところで、
  ここができるのは見たもの、読んだものを理解しているからこそなのだそうです。
  ここを鍛えるには、

  付箋を貼ったり書き出しながら読む、
  読んだ内容を、別の言葉に置き換える、
  本の内容をほかの人に教える、
  反復読みで筆者の表現を自分のものにする

  など。通訳や語学力の習得の助けにもなるらしい
 
 8運動系番地
  ここは読んだものをシミュレーションしたり実行するのに重要なところ
  読んだものを体で表現する、
  アナウンサーのように読んでみる、
  線を引きながら読む、など体を動かすとよいそうです

〇最後に
 筆者は、読み方や読む本をいつもと変えてみると良い、ということを述べています
 最近読めてないな、という人はとりあえず本屋に行ってみて本に親しんでみる
 勧められた本は読んでみて、できれば感想をその人に伝える
 アウトプットも伴うと、頭に残りやすいのだそうです。
 読書は認知症予防にもなるのだとか。

 筆者は、本を読むのが苦手だったけど
 だからこそいろんな本の読み方を見つけられたし
 脳科学と結びつけて理解できた、とも述べています

 いろんな方法を試してみて、マンネリ化しない読書をしてください、
 という感じで締めくくられていました。
 
感想など
・読書って何でもアリなのね~と思いました。
 昔は漫画は想像力を奪うからけしからん、みたいな感じもあったけど
 (しかし学校の図書室で人気があったのは「マンガ日本の歴史」でした(笑))
 マンガも理解を助けるもの、と考えたら有効なのね。

・昔は途中で読むのをやめることに罪悪感を感じていたのですが
 最近はそういうときはその本からしばらく離れています。
そうすると、
 中断してしばらく置いておいたら、
 本が呼んでくると言いましょうか、読まざるを得ない状況、読みたい状況になったりすることもある。
 逆に何回読んでもダメだこの本、と思って離れる決心がついたりします。
 本も縁のものなのかなぁ…と感じます。

・他人に内容を感想を伝えたり
 他の知識と結びつけると理解が深まる、
 というのはblogを書き始めてから感じます。
 自分の言葉で置き換えたり
自分だったらどうかなと考えるのは、たしかにしんどいんですけど
 しんどいだけ自分のものになりますね。

ちなみに筆者によれば
認知症予防には小説がいいそうです。
はらはらドキドキしたり、人間関係を覚えたりするのがいいのだそうだ。
逆に認知症が進んだら人間関係を覚えられないから面白くなくなるんだそうです。

でもこれも人それぞれかも。
私は小説って昔は読んでたけど、
今は現実の世界とか、ドキュメンタリーの方が小説より面白いなぁ~と思ってしまいます。
(新聞の小説は読むけど)
知らないことを知るのはわくわくする。

これからも色んなジャンルの本を読みたいなと思います。
というわけで今回はこの辺で。

posted by Amago at 20:21| Comment(0) | 本(人生) | 更新情報をチェックする

2017年06月22日

「アフリカ 希望の大陸―11億人のエネルギーと創造性」ダヨ・オロパデ

アフリカ 希望の大陸―11億人のエネルギーと創造性」ダヨ・オロパデ

そういえばアフリカってあんまり知らないな
と思って借りてみた本。

実はこの前に
「民主主義がアフリカ経済を滅ぼす」
という本を読んでいたのだが
その本は、
「貧しい国では、民主主義は人々の格差をますます増やす」
みたいな分析がされていて
底辺の国アフリカに腐敗がはびこるのはしょうがない、
だからアフリカは必要悪的に独裁権力を利用すべき
という展開になっており
絶望的な気分になってきたので途中で断念しました
(ざざっと読んでみての印象なので、
 見当違いでしたらごめんなさい)

しかしこの本を読んでみると
それは先進国から見た一面に過ぎない、と思えてきた。
ていうかアフリカ人に失礼な分析だなと思いました。

ちなみに、この本はナイジェリア出身のアメリカ人女性が
アフリカを取材して回って書いた本です。
希望が持ててワクワクしてきたので、
こちらは最後まで読みました。

ただこの本、筆者の取材量が豊富すぎて
話があちこち飛び、読みにくいのは読みにくかった。
しかしあふれるパワーを感じて好感の持てる本でした。

というわけで具体例は本を読んでいただく方がいいのですが
内容をかいつまんで書いてみます

〇世界はアフリカを知らない
 最初に、筆者は世界、特に先進国はアフリカを知らない、
 という話をしていました。

 アフリカは底辺の国とされ、国連のポスターを見ても
 「受け身で支援を待つ国」というイメージ
 しかし実際は、
 彼らは不便さを逆手に取って商売にし、たくましく生きている
 (筆者の隣の家の人は、空き家を勝手に占拠して耕し、
  トウモロコシやサトウキビの畑にして育て、
  作物を焼いたり切り分けたりして近くの人に売っていたらしい)

 またこの国は、国境や地図はあまり意味をなさない
 先進国の先入観を取り除きたい、というのが本書の目的だそうです

 筆者はその説明として
 「太った経済」「やせた経済」の概念をあげていました
 太った経済、とはGDPが大きい国
  豊かかもしれないが、肥満や金融危機などの問題もあり、
  環境破壊もあり、無駄も多い
  トイレの音姫などはこの経済ならではの発想だそうな

 一方やせた経済、とはGDPが少ない国
  豊かではないが、無駄がなく環境にも優しい生活ができる
  例えばトイレの排泄物を肥料にリサイクルする試みもあるらしい

 筆者はどちらが上とか下とかではなく、
 双方が双方から学ぶべきことがある、と述べている
 太った経済の国もやせた経済から学ぶ立場であるべきだ、とのことです

〇アフリカを知るための精神「カンジュ」
 筆者はまたアフリカ人の精神を「カンジュ」という言葉で説明しています
 カンジュ、とはヨルバ語で「あせる、急ぐ」
 転じて「精を出す、頑張る、やりくりする」という意味だそうで
 この本の中では
  不合理な現実や不便さを逆手に取り、
  それをたくましく生活の糧として利用するアフリカ人の生き方、
 みたいな意味合いで使われています。
 
 アフリカ人は、日々朝起きてから、
 自分に何ができるか、何が必要とされるか、を考え
 それを商売に変えていく強さがあるそうで
 例えば
  ・女性が、ブブセラ(サッカーワールドカップの応援に使われたもの)を拾ってきて、
   穴をあけて簡易洗濯機にして使う
  ・産婦人科医が、勤務時間外にコンテナ二つを積み重ね、簡易医療所を作り
   病気予防、お産の手伝い、レイプ相談所として使う
  ・余った空の海外ビデオテープを使い、簡単な自主映画を作って売る
   アフリカ現地の言葉で作られているメロドラマなどが大人気だそうで
   ナイジェリアのハリウッドという意味で
   「ノリウッド」とか呼ばれているそうです
 など商魂たくましく生きているそうです。

 アフリカでは国家が機能しないので、悪知恵も必要とされており
  非公式乗り合いバス「マタトゥ」(夜中に走り、乗り賃は交渉)があったり、
  優秀な生徒はギャングにやとわれてメール詐欺(メールで借金を依頼する)をしていたりするが
 それもみんな生活のため、なんだそうです

 そしてこの本では、後の方でも
 そういう「カンジュ」精神で生まれたいろんな発明、システムが紹介されています

〇国家の問題
 アフリカでは国家が機能していない、という問題がある
 筆者はこのような国家を「しくじり国家」と呼んでいます

 「しくじり国家」というのは、オタク文化から来た用語で
 期待を裏切られたときに言う「failed!」からきているらしい
 アフリカでは、大学、空港、水道、通貨など
 何もかもが突然止まったりしてあてにならない
 「failed!」と言いたくなる状況がよくあるんだそうです

 このしくじり国家がはびこるのはなぜか?
 他国の介入が原因、とする分析もあるそうです
 例えば今あるアフリカの国境は、外国が勝手に決めたもので
 地元のネットワークやコミュニティとは関係ないことが多い
 難民などは国境に関係なく移動しているそうです

 このため、国民には国家への忠誠心が育たない
 結果権力者は、無駄な銅像などを作って忠誠心を高めようとしたり
 有力者にお金を配って自分の地位を守ろうとする
 こうして腐敗がはびこる
 外国が暫定政府を作っても、腐敗の温床になるだけらしい
 
 また、国連などのGDP中心主義みたいなのも原因みたいです
 GDPは国単位で、地域の実情などは反映しないし、
 カンジュ的に生まれた非公式経済も勘定されない
 この実情を反映しない数字を満たすためだけに、
 権力者が学校などの箱モノを作ったりする

 結果国民は政府をあてにしていない、デモすらしない
 (デモなんかしてたら、頭がおかしいと思われるほどだそうな)
 代わりに自分たちだけで、生活の基本的な問題を解決するのだそうです

 ただ例外もあるにはあるそうで
 例えばソマリア北部から独立したソマリランドは
 国民が自分のために作った国家の例として挙げられています。
 (皮肉なことに、海外から何の支援もなかったことが功を奏したらしい)

 この国はインフラなどは全然整っていなくて
 国民は外国から自分で電気を買っている有様らしいんですが
 選挙は民主的に行われ、
 中央銀行もあり、独自通貨が機能している
 また、国が安全保障組織を持ち、海賊から国民を守っている
 干ばつが起きた時も、国の資産を使い、国民を救済したそうです
 国の制度では、国会などのほかに氏族制度も活用し、
 長老にも権限を持たせている
 このためか、愛国心が強い国民が多いそうです

 また、ケニアのモンバサという町では
 ケニアの通貨が使い物にならなくなったので
 独自の補完通貨を作り、活用している

 アフリカは国家や権力者はあてにならないけど、
 国民はそれに打ちひしがれているわけでもない
 むしろそのために、自分たちで現状をどうにかするための知恵が働き
 国に頼らないネットワークを作り、絆を強めて生きていけている、
 という面もあるようです。
 
〇アフリカ支援の問題
 次は現状のアフリカ支援(他国からの)には問題がある、という話でした
 ざっくりいえば、現地のニーズを聞いていない押しつけ支援になっている、ということらしい

 ・偽善者的な支援者の自己満足
  先進国には、古着や靴を集め、支援してくれる団体があるが
  アフリカでは繊維産業などは盛んで、
  自分たちで現地のニーズを聞いて作った方がいいし、雇用の確保にもなる
  ぶっちゃけありがた迷惑らしい

 ・支援国が儲けるためのシステムに過ぎない
  また、国連やいろんな財団が支援をしてくれるが
  いろんな団体を経由するし、しかもスタッフはそこの国の人なので
  無駄な経費が使われてしまう
  しかもその国の企業のものを使わないといけない、などの縛りがある

  医者が診療するのに、外国製のハーレーダビッドソンを使わねばならないとか、
  医療現場に高価なMRIをくれたがすぐ壊れた、などの笑うに笑えない例もありました
  (その分のお金で助産婦を40~50人育てたほうがまだましだった、と怒っていました)

 ・国連の縛りがある不自由
  国連には、アフリカ支援のためのミレニアム開発目標、というプロジェクトもあるそうですが
  これについても批判がされていました
  このプロジェクトでは
   1貧困、飢餓の撲滅
   2初等教育の普及
  3女性の地位向上
   4乳幼児死亡率の低下
   5妊産婦の健康状態改善
   6HIV、マラリア、エイズなどの予防
   7環境の持続可能性
  …などの目標を掲げてあるらしいのだが

  1については、貧困の指標が「1日2.5ドル以下」などで
  日々決まった商売をしていないアフリカの人には適用しにくい
  2については、学校の入学率を指標にしているが
  入学はできても、先生の質が悪くて全然教育されていない、という問題は隠れてしまっている

  また、456については、ほかに支援金が使えない
  (例えば薬より、食べ物がほしくても買えない、
   ほかの問題解決には使えない)
  
  またこの計画に、そもそも農業計画が入っていないのは大きな問題
  食糧確保は何よりもまず進めるべきことだそうです

  それから、これらの目標を立ててしまうことで
  政府はこの計画さえ政策に入れておけば支援金がもらえる、という発想になり
  国民が本当に必要なことをしない
  さらにはもらった支援金は口約束だけで、自分たちの懐に入れてしまうのだそうです

 ・「支援」だけすることの限界
  これらの問題を解決するため、ジェフリーサックスという経済学者は
  国を経由しないで村を直接支援するプロジェクト、を始めたそうですが
  外国からの支援金だけに頼ろうとする発想では、
  莫大なコストがかかる

 筆者はそんなことより、
 アフリカ人自身の力をもっと活用すべきだと言っています
 アフリカ人自身がインフラ整備、教育、医療、ごみ処理や電気など
 生活に必要な活動を行えば
 そんなに外からの支援は要らなくなるし、彼ら自身の雇用確保にもなる
 アフリカ人にはそれだけの力がある、
 もしかしたら先進国の人材以上かもしれない力がある。

 以降の章では、そのアフリカの可能性を次の5つの切り口から述べています
 1アフリカのソーシャルネットワーク力
 2ITテクノロジーの活用
 3市場の力
 4豊かなエネルギー、農業の可能性
 5若者の力

〇アフリカのソーシャルネットワーク力
 アフリカ人は、伝統的に家族や部族の絆が強く、助け合いの精神がある
 これはよそから来た人に対しても同じで、頼まれたらNoとは言わない
 バス賃が無い見知らぬ人も、無償で乗せて行ってあげる

 また、自分だけで独占しないという意識が強く
 村の中での物の貸し借り、共有も当たり前
 (インターネットも車も、水くみポンプもトイレも共有)
 お金の貸し借りも当たり前だそうです。
 これはお互いのことをよく知っているからこそできることで
 (まあ、逆にプライバシーはないそうですが…)
 お金を借りた側が、事情が大変なら返済を先延ばししてあげられるし
 借りた人は、余裕ができたらたくさん返す、などの柔軟性も持たせられるし踏み倒しもない
  優秀な子が、村のみんなから少しずつお金を出してもらって学校に行かせてもらった、
  という例もありました
  彼は卒業後、同じように寄付を集めて村に中学校を作ったらしい

 このように、アフリカではソーシャルネットワーク、社会的な絆がとても強いのだそうです。
 そしてこのソーシャルネットワークの強さは
 ビジネスや医療などでも強みを発揮する、とのことです

 例えば
 ・先ほどの信用による借金貸し借りのシステムは
  銀行でお金を借りられない人、保険がない人へのセーフティネットにもなる
 
 ・また、彼らは村中で顔見知りなので、口コミ力が強い
  商品の良し悪しのうわさ、農業や商売のアドバイスなどの情報が伝わりやすい
  例えば、ソーラーパネルは外国人が説得してもなかなか買わないが
  地元の女性が歩合制で売り歩くしくみにしたらうまく普及したそうです。
  売る女性は、自分の売り方の工夫次第で収入が増えるので、意欲的にもなる。
  そういう彼女たちに憧れ、自分も仕事をしようと思う女性も増える、とのこと

 ・このソーシャルネットワーク力は、地元の迷信的な悪い習慣を絶つことにもつながるそうです。
  例えば女性器切除の風習は、
  長老が「この習慣をやめます」という宣言をすることで一挙になくなった

 ・医療現場にもソーシャルネットワーク力が使えるのでは、とのこと
  例えば僻地の医療は、海外から医者を派遣するのではなく
  地域の看護師や伝統的な治療師に最新治療の仕方を教えて、
  彼らができるようにすれば人手不足がされるのでは、とのこと
  地元の人も、信頼している治療師に診てもらう方が安心するかもしれない

 ・また、筆者のような海外への移民や、内戦で国外脱出した難民の力も大きいそうです。
  彼らは社会的な絆の良さを知って育っているので
  国を離れても移民コミュニティを持ち
  祖国への資金援助をしたり、祖国再建を助ける 
   ソマリアからの難民が立ち上げた、
   海外からアフリカへの送金システム「ダハシブール」の話や
   アメリカに移民した女性が立ち上げた、
   祖国のリベリアで古井戸を改修して水環境を改善するNGO「フェイス・アフリカ」
   などが紹介されていました。

 もちろんソーシャルネットワークは負の面もあり、
 政治の世界では、同じ部族、家族出身者の独占が起きたり
 選挙でも、誰に、ではなくどの部族出身者に、という基準で投票する行為にもなる
 「アイデンティティ政治」というそうです

 しかし筆者は、ソーシャルネットワーク、家族のネットワークの力は
 うまくいかされれば、国家の不備を補うシステムになりうる、と述べています

〇ITテクノロジーの普及
 アフリカは最新テクノロジーとは無縁そうに思っていたのですが
 実は携帯電話が爆発的に普及しているのだそうです。
 有線電話は国が管理しているのであてにならず、
 むしろ携帯の方が使われているのだとか。

 光ファイバーのケーブル網も整備されつつあり
 2009年から始まったのに2012年には8本も海底にケーブルが通り
 アフリカ大陸の南北をまたぐ通信ネットワークができているそうです。

 ではこれだけ携帯が普及したのはなぜか?
 それは、彼らは生活が不安定なゆえに情報が大事、ということを知っているからだそう。
  例えばどの市場に作物を持っていけばいちばん高く売れるか、を知るために
  いちいち市場に移動していたら、その分の作業時間が奪われる
 どこで何が安いか、高いか、今何が起きているか、などの情報は彼らの生活の糧に直結する。
 このため彼らは1日の稼ぎの平均1割ものお金を、携帯料金に費やすのだそうです。

 それから、価格競争も普及を後押ししているそうです
 地元の海底ケーブル会社が通話料を値下げした結果、大手も追随したとのこと
 料金体制、端末などもアフリカ向けにカスタマイズされているらしい
  例えばアフリカは後払いではなく、プリペイド式(契約の手間や手数料がかからない)
  端末は家族などで共用して、SIMカードだけ自分のを持つ人が多いので
  SIMカードをたくさん差せる機種なんてのも出ているらしい

 このインターネットや携帯の普及は、いろんな利点を持つそうです
 ・人々に平等をもたらす
  インターネットは、利用する人に等しくビジネス、教育、雇用などの機会を与えてくれる
  都市と地方、女性と男性、貧しい人と豊かな人、などの格差を減らしてくれるそうです

 ・新しい商品、サービスの開発が行われる
  アフリカならではの発想がITと結びついて新しい商品開発につながり、
  それが世界に影響を与えることも少なくないそうです
  例えばケニアの電子マネー「Mペサ」
  これはアフリカ人が、携帯電話の通話時間をお金代わりに他人にあげたことから始まったそうです
  そのあと、アフリカの通信会社サファリコムがイギリスのボーダフォンと共同で開発
   Mペサは、携帯電話の通話時間をお金と同等に扱い、現金にも換金できるし
   テレビ使用料、光熱費、タクシー代などの支払いにも使えるし
   給料の支払い、融資、預金手段としても使えるのだそうです
   (あまりに便利なのでケニア政府が動き、サファリコムに金融業ができる許可を特別に与えたらしい)
  
   Mペサは便利なので、ケニアの全世帯の65%で使われているそうです
   この電子マネーは、日雇い、非正規雇用の支払いにも使えるし
   銀行口座を持たない人が融資を受ける手段にもなりうる
   つまり貧しい人が経済的に自立する手段を提供している、ともいえるのだそうです。
  
 ・テクノロジーを通じたネットワークづくり
  また、新しいテクノロジーは人々のネットワークづくりにも貢献する

  アフリカには各地にシリコンバレーのようなものもできているそうです
  東アフリカでは「シリコンサバンナ」、南アフリカでは「シリコンケープ」
  ここでは共同ワークスペースができており
  IT関係の技術者が互いに学び合い、協力して、新しい企業を立ち上げる原動力になっている

  アメリカのシリコンバレーは、もはやマイナーチェンジ的なテクノロジーが多いが
  アフリカのシリコンバレーは、社会を変えるようなビッグな発明ができる可能性があるとのこと
  紹介されていたテクノロジーには
  ・停電時も使えるバックアップ発電機を備えたモデム
  ・尿を使って発電するシステム
  など先進国でも役に立ちそうなものもあるし
  ・底辺層の人たちも使える求人アプリ、英語学習アプリ
  など人々の生活向上に役立てるものもある
 
 ・国家も変える可能性があるテクノロジー
  また、国家の不備を補ったり、悪事の横行を防ぐテクノロジーも開発されている
  例えば
  ・難民から援助要請を発信できるショートメールサービス
  ・「メディックモバイル」
   患者に薬や医療に関する情報を提供したり
   診療の予約もできるソフト、サービス
   患者からも情報を発信すれば、必要な商品やサービスを開発するためのデータにもなる
   (例えば予防接種をお知らせするとか、妊産婦の健康把握など)

  ・マラウイの「バオバブヘルス」 
   この組織は、アメリカの簡素なモニターだけのパソコン(売れ残りの在庫品)
   をアフリカ向けに改造して、医療現場の電子カルテとして利用しているそうです
   プログラマーはアフリカ人なので、故障しても自国ですぐ修理できるし
   海外のエクセルなどのソフトをいちいち研修する必要もないらしい

  ・ナイジェリアの「エムペディグリー」
   これは、薬局で買った医薬品にコードが付いていて、
   これを無料ショートメールサービスに送ると、
   偽の医薬品かどうかわかるサービスだそうです
   開発した方は、薬品会社と通信会社(メールサービスの料金は通信会社持ち)を
   「社会的責任がある」と説得して実現したらしい
 
  これらはすべてアフリカ人が考え出したサービスなんだそうです。
  アフリカ発のテクノロジーは、
  自分たちで必要なニーズに応える商品を開発できる利点があるし、
  情報の格差を無くしてくれる。
  政府の不備を告発し、政府が何をすべきかも示してくれる、と筆者は述べていました

〇市場の力
 アフリカは市場が動いてない、というイメージもあったんですけど
 商業活動は実は盛んで、投資効率は非常に高い国が多いそうです
 (急成長中の国ランキングでは、トップ10のうち6か国がアフリカの国)
 人々はパソコンや携帯なども持つし、映画も見る
 また、アフリカ国民は教育など、いいと思うものにはちゃんとお金を使うのだそう。

 筆者は、アフリカにおいて市場は平等、というような話をしています
 アフリカは多種多様な民族が集まった国家だが、商業の上では民族宗教関係なく対等に交渉する
 (先進国などのようにきっちり決まった値段があるわけではなく
  当事者同士の柔軟な交渉で商談を成立させている)
 そこには貧富の差も身分も関係ない
 
 また、市場には支援にはない利点がある、とも述べています
 ・市場では消費者も生産者も対等
  支援では、支援者と被支援者は上下関係
 ・市場では、ほしいものは買われ、要らないものは淘汰されるので
  選択の自由がある
  支援では、くれたものをもらうしかない
 ・また、支援では分配がうまくいかなかったり予算の限界があるが
  市場ではそれは自然に調整される

 この市場の力の可能性を示す例をいくつかあげています
 ・アフリカでは私立学校を選ぶ傾向にある
  公立学校は無料だが、給食費や教科書にはお金が要る(賄賂が要ることもある)
  最近では有料だが安価な私立学校もできているそうで
  その一つ「ブリッジインターナショナルスクール」では
  校舎や教科書はボロボロ、電気もないが、
  先生への教育とカリキュラム管理にはお金をかけており
  生徒の成績も公立学校よりはるかにいいそうです

 ・農業用のポンプを売る「キックスタート」
  この組織は農家に水くみポンプを売り、使い方も研修する
  農家はポンプのお金は支払わねばならないが
  その分たくさん収穫でき、何十倍もの収入を得られる
  もともと農家の自立を目指して行われた事業らしい
  
 ほか公立病院の不備、皆保険のない国の制度を補う
 ・私立病院
 ・低所得者向けの医療保険
 などもできてきているそうです。

 今後は、アフリカ人起業家向けの投資が重要だとのこと
 ただ、アフリカ人起業家は、もともと貧しいので、
 信用が無かったり担保が無かったりで
 普通の銀行から普通に融資を受けられない、という問題がある
 ・最近ではマイクロファイナンス(グラミン銀行がその例)などの例もあるが
  これは小さい事業のための少額投資で、
  大きなプロジェクトには向かない難点がある
  わかりやすいプロジェクトにしか投資してもらえな問題もある
 ・海外からの寄付が、アフリカの民間投資ファンドの投資先を奪う問題もある
 今のところ、そこを補っているのはソーシャルネットワーク的な融資
 (要するに知り合いの村の人たちから借りる)なんだそうです。

 ただ最近では希望の兆しもあるようで
 ・アフリカ委員会が小規模投資に政府保証を与える
 ・アフリカの銀行が始めた小規模農業融資サービス
 ・Mペサなどの電子マネーを利用した融資 
 ・海外移民からの支援、クラウドファンディング
 など貧しい人でも融資を受けられる手段も考えられているそうです

 アフリカは国家が脆弱、国債を発行しても信用が薄い
 「アフリカを統一して1つの市場を作るべきだ」
 という意見も経済学者からはあるそうなんですが
 筆者はその思考自体が、形式的な市場の枠組みにとらわれているのではないか、と述べています

 先進国的な市場をアフリカに持ち込むのではなく、
 お金はないけどアイデアはある、
 アフリカの無数の無名の起業家を力づける市場の在り方を模索すべき、ということみたいです

〇豊かなエネルギーと食料資源
 アフリカには油田やダム、太陽光など、電気を起こす資源は豊富なのに、
 国民には電気が普及していない
 これは、国がこれらの資源を海外に売り、外貨を稼ぎ、権力者がその利益を着服する
 電力事業開発のための援助資金も着服してしまうから、なのだそう

 そこで、国のエネルギーインフラには頼らず
 自分たちで発電し、使おうという試みがいくつかなされているそうです
 ・「EGエナジー」電池、配線、太陽光発電使用料を払い、そのまま配線した電気を使えるシステム
   これを使えば国の電線に頼らなくても済むし、
   使っているのはほとんど自国製なのでコストも安いらしい
 ・「ヌルエナジー」太陽光ソーラーに、自転車こぎでも充電できるシステムも付いた商品を売る
 ・「dライト」安価で丈夫、アフリカに合う仕様のライト
 ・「レディセット」ソーラーライトに携帯が10台充電できるシステムも搭載し、
  購入した人は、自分で携帯電話充電ビジネスも始められる仕様になっている
 など、アフリカ人にはうれしい仕様になっている商品がたくさん考え出されているそうです
  ほかにも、マラウイ人の天才少年が
  本を読んで風車を自作し、電気を村にもたらすだけでなく
  農業も電力化し、収量を飛躍的に上げた例も紹介されていました。

 また、農業に関しては
 アフリカには耕せば物を育てられる土地がいくらでもあるのに、
 農家をやめてしまう人が少なくないそうです。

 それは環境が整ってないからだそうで
 ・道具や種、肥料が昔のままで収率が悪く、これらの供給も不安定
 ・収穫した農作物を保管する倉庫、運ぶ道路、手段もない
 ・温暖化、水不足、砂漠化、害虫、外来種の到来など環境の変化
 …など、各農家への基盤が整っていない上に、

 ・組合もあるにはあり、組合が一人の仲介人にまとめて売っているそうですが
  交渉者が教育を受けていないために読み書きができず、仲介人の言い値で売ってしまう
 ・国が農業に融資しない、
  他国からの支援金を着服してしまう
 …など、団体としてのセーフティネットも整っていない
 (この辺の問題は「オイコノミア」のスイーツの回でもやっていました)

 結果収入が見込めないので廃業する、という農家が多いのだそうだ
 アフリカは土地がやせているから収量が悪い、というイメージがあるが
 お金がうまく回ってないのと、
 流通手段がうまくつながっていないからこういうことになるのだそうだ。

 対策としては
 ・大規模農業を行うアフリカ人起業家
  この方はヨーロッパで教育を受け、アメリカで働いていた優秀な科学者だったそうですが
  地元に帰って大規模農業を営んでいるそうです
  アフリカもちゃんと耕せば豊かな作物が実る、という例を示しているとのこと
 
 ・テクノロジーを利用し、農家のためになるアプリ、も開発されているそうです
  ウガンダ、ケニア、カメルーンなどの農業情報検索アプリ
  モーリシャス、ガーナなどの価格を調べたり売買交渉できるアプリ

 ・農家への研修、フォローアップ
  ケニアの「ワンエーカーファンド」という組織は
  農家に研修を行っているそうです
  土の作り方、肥料の作り方も教えているし
  収穫時種を取っておいてもらい、持ってきてもらって種のバンクも作っているのだとか

  また、ウガンダの「UNACOFF」という組織では
  土地の所有者を組合員にして、その土地を耕し、作物を育てさせる方法を教え
  その作物を買う業者の紹介もする、という事業をしているらしい
  これは、先祖伝来の畑を持っていても農業を諦めてしまう人に対して、
  農業の方法を教え、流通経路の確保をしてあげることで
  農業を続ける意欲を高める役割をしている

 ・バイオ燃料の栽培
  某アメリカ大統領が力を入れていた、最初のバイオ燃料は
  サトウキビ、トウモロコシなど食料を燃料にして
  食糧不足が問題になっていましたが、

  最近では油脂性の、食料にはならない作物をバイオ燃料にできるそうです
  もちろんこれらの作物を作る場合も
  食料用の土地と競合する、という問題はあるが
  今のところエネルギー不足への対策と
  農業収入増の効果の方が大きいのでは、とのことです

 アフリカはインターネットの普及で、
 電力不足が問題になりつつあるそうです。
 将来的、世界的な食料不足にもこたえていかねばならない。
 そこで、アフリカに未来永続的な農業、エネルギーを
 カンジュ的な知恵で作り出すことが必要ではないか、とのことです。

〇若者の力
 アフリカは若者は多いが、若者の失業率がとても高いそうです
 権力者は年寄りが多く、若者向けの政策が弱いのだそうです
 
 エネルギーある若者が無職になると、テロなど危険な道に走る場合もある
 これらの若者エネルギーを活かすべき、とのことです

 ここで紹介されていたのは
 ・若者への教育
 ・若者への職業訓練
 ・若者の政治参加、社会変革を後押しする動き

 ・若者への教育
  これは若者へのエリート教育の話ですが
  高卒で優秀な若者を教育する機関がいろいろ出てきているそうです
  これらの機関では、
  勉強だけではなく、起業する、リーダーになるための力を教えるのだそうです
  例えば
  ・何かのプロジェクト開発、ベンチャー立ちあげなど実践も必修となっている
  ・最初に時間管理をさせ、効率的な時間の使い方を教え込む
  このため、ここのアカデミー出身者はすぐにでも事業を始める意欲のある人が多い
  また、この教育機関ではアフリカ中からいろんな若者が集まるので
  彼らの中でネットワークができる、という利点もあるそうです

 ・若者への職業訓練
  「シゲデメ」という教育センターでは
  孤児や捨て子、親から逃げ出した子などを支援する活動をしているそうです。
  ここでは生きる価値がある、という前向きな気持ちを与えるほか、
  生きるために必要な実践的な技術を教えるそうで
  学校に行ってない子には通わせ、
  働く年齢の子には技術、商業、芸術などを教え、
  職業先もあっせんしている
  
  つまり若者が明日からでも自分で生活できる手立てを与えている、とのことです

 ・若者の政治参加、社会変革を後押しする動き
  若者を後押しする動きはいくつかあるそうです
  ・メディアを通じた教育
   「シュジャーズ」という漫画では
    農業などで収入を得る方法を、わかりやすくアニメのストーリーで紹介している
   またナイジェリアの「スモールホルダーズ」という道徳的なラジオ番組
   メロドラマに教育要素を取り込んだ番組、などがあるそうです
   (コンドームの着用率が増えたのだそうです)
  ・インターネットを通じた教育
   学校に行けなくても教育を受けられる
  
  若者への教育は、彼らの健康も向上させ、
  収入獲得機会をもたらす効果があるそうです
 
  また、政治への関心を持つ若者も増えており
  彼らのパワーが既存政治を超えられるかもしれない、とのこと
  先ほどのエリート学校では、
  腐敗し来た既存の国家とか権力には興味はないが、
  国をよくするために何かをしたい、
  自分にはできる、と考えている若者は多いそうです。

  これはこのアカデミーで
  アフリカが他国に立ち向かった歴史など、
  自分たちのアイデンティティも教えているのも大きい
  アフリカ人の誇り、というものを持っているのだそうです。
  
  今後はこうしたやる気や活力ある若者に力を持たせ、
  やってみなはれと後押しすることが大事だ、とのことです

〇アフリカをどうやって変えていくべきか
 最後に、筆者はアフリカのこれから、についての提言をしています。

 最初に、アフリカは今、
 今まで社会的、経済的に弱かった人たち
 (女性や貧しい人)にも力を与えるべき、
 というビジョンは共有されつつあるが
 国が弱いので、その実現手段が定まっていない
 と述べています

 アフリカのある活動家の指摘によれば
 アフリカには2つの公的機関
 つまり1つは国家によるもの、
 もう1つは伝統的な家族、部族、宗教を基盤としたネットワーク、
 があるそうですが

 筆者はこの2つを認め、
 うまく両立させるべきだと述べています。

 部分的ながら政治の上で両立させている例として、
 ルワンダを挙げています
  この国はフツ族、ツチ族の対立と虐殺で有名になってしまった国ですが
  この悲惨な事件の結果、
  国民は安定を望み、新しい国家を支持しているそうです。
  残されたのは女性が多いので、女性の政治参加も進んでいる

  政府もカガメ大統領のもと、カンジュ的な政策も取り入れている
  例えば
  ・保健省のラピッドSMS
   これは、妊婦を妊娠時から生後2か月までモニターするしくみ
  ・虐殺裁判に長老の裁判システム「ガチャガチャ」を導入
   これはアメリカの司法取引みたいなもので
   加害者は罪を認め、補償金を出す代わりに罪を軽くしてもらう
  ・他国からの支援に「橋は要らない、代わりに学校が必要」など使い道を指定する

  ただしルワンダもそんなに民主的ではないという指摘もある
  政府が国民生活を監視、統制したり
  大統領が独裁的、批判には投獄するなどの問題があるそうです
  (これは、大統領がゲリラ出身のため、少々他人に対して疑心暗鬼になっている面があるようだが)

 そのほか、公式、非公式の2つの司法制度が共存しているリベリアの例も挙げられています
 非公式な方は、内陸地規制、と呼ばれる地域の長老に裁きの権限を与える仕組みだそうです
  このリベリアの司法制度について、
  スタンフォード大学とアメリカ開発センターが共同で研究したそうですが
  リべリアでは両方の制度が互いに補いあい、
  効率的で低コストなやり方を実現させている、
  という結論だったそうです

  例えば
  ・社会的弱者、女性は公平さのある公的司法制度を選べる
  ・一方で伝統的な裁き制度は、
   さばき方が柔軟で、コミュニティの幸福を重視する、双方の保障を重視する、
   などの良さがあり
   人々は、多くの場合そちらを選ぶ傾向にあるそうです。
  (例えば若者が別の若者を殺したとき
   被害者の叔父が呼び掛けて話し合い、
   加害者側が生け贄を差し出して乾杯して終わりにしたなど)

 筆者はこの「2つの制度の両立」は
 国家の役割を考えるときにも重要、としています
 アフリカには、家族、部族、ネットでのつながりなどの非公式なネットワークと、
 国家という公式なネットワークが存在している
 前者は医療、電力、教育などの分野で国以上に成果を挙げている実績があるのだから、
 国家などの公的機関もその存在を認めて、
 お互い利点を生かして補いあうべき、としています

 他国からの開発事業、支援事業などでもそれは同じで
 ・国連が、アフリカの貧困などを察知するのに
  国家の統計以外に、人々の購買行動などをモニターして察知するシステムを導入したり
 ・各国の資金援助団体が支援するとき、
  事業のスタート資金だけ出すようにし、あとはアフリカ国民自身に任せる、など
 公式なものと非公式なものを両立させる試みは少しずつなされているらしい

 筆者はまた、アフリカ連盟、東アフリカ共同体などの改革が行われ、
 EUの協定のように、アフリカで各国共通ルールが作られれば
 人や物の行き来ももっと自由になるし、
 (もともと、国境は他国により勝手に作られたもので、実情を反映していないし)
 国家や一部の権力者による搾取や横暴がなくなるかもしれない、
 とも述べています。

 最後に筆者は
  Googleマップは、アフリカの地図を作るとき
  ナイロビのスラム町については森のように真っ暗だった
  住民自身はそれに対し、
  簡易GPSと地図サービスアプリを使って自分達の地図を作った

 という事例を紹介し、
 そういう普通の人たちの試みが、
 国家と非公式ネットワークをつなぐパワーとなる、
 それは希望ある未来を実現するために欠かせないものではないか、
 という感じでしめくくっていした。

感想など
・アフリカ支援についての話はハッとさせられました。
 私もユニセフの募金をしていたことがありますが
 国連に寄付したところで、本当に現地の人にとってためになっているのか
 を改めて考えねばならないと思った。

 寄付すればいい、というものでもないのですね。
 古着送っても相手は馬鹿にしてる、と思うだけかもしれない。

 本当にお金を「生きる」ものにしようとするなら
 アフリカ人起業家の素晴らしい事業に投資するとか
 自分たちで工夫して作った農作物を独自で販売している人たちから直接買うとか、
 ちゃんと調べて使う方が、彼らのためになるのかもしれない。

 オイコノミアでも、カカオ豆の農家にチョコレートの作り方を教え
 そこで目覚めて、ちゃんとした製品を作るようになった農家には
 それなりのお金を払ってカカオを買う、というチョコレート屋さんがありましたけど、
 そういうところから商品を買う、というのも一つの手だと思う。
 支援、被支援、というと上下関係になるけど、
 消費者と生産者、ならば対等な関係になるし、実はこれが本当の支援なのかもしれない。
 
 豊かになるお金の使い方、というのを常々考えている身としては
 そういう視点はとても勉強になりました。
 
・活力あるアフリカの姿、というのがとても新鮮でした。
 インターネットなどの最新テクノロジーは使いこなすし、
 高度な教育にはきちんと投資する。
 こういうアフリカの姿を
 テレビなどのメディアももっとちゃんと紹介してほしいなあと思いました。

・アフリカがあんまり注目されていないのは
 人種差別的な理由もあるのかな…と思いました。
 私自身は、肌の色が濃いから下だとか思う感覚はどうにも理解できないのですが
 欧米では、いまだに色が白い方が上、黒に近くなるほど下…という感覚があるのかもしれない。
 (むしろ私はきれいな髪の毛とか肌だなあ…とか
  パワフルな人が多くていいなあ…とか思うのですが)
 異質なものも、単なる違い、として受け入れる人が大多数、
 という世の中であってほしいなと思います。

・アフリカの腐敗政治には呆れるものがあるが
 数としては多いはずの若者のパワーはすごいなと思った。 
 これら若者のパワーが何かを変えてくれそうだ、と希望が見えました。

本を読んで新しい視点が得られるのは面白いですね~
というわけで、今回はこの辺で。
posted by Amago at 16:33| Comment(0) | 本(人生) | 更新情報をチェックする