2017年09月26日

NHKBSスーパープレミアム「医師の闘病から読みとくガンを生き抜く知恵」

NHKBSスーパープレミアム「医師の闘病から読みとくガンを生き抜く知恵」

 ガンについての番組です。
 自分もガン患者となり、闘病して生き抜いた医師たちに体験談を聞き、
 ガンを生き抜く知恵を探る番組でした。

 私は身内にガンになった人はあんまりいないのですが、
 (父方の祖父が80歳過ぎてかかったくらい)
 知り合いで若くしてガンになった人は4人ほど、
 うち2人は治癒しています。

 でも唯一亡くなった1人も
 宣告時ステージ3か4、余命半年と言われながら
 セカンドオピニオンを聞いて医者を変え、1年以上生きました。
 もちろん、本人はもっと生きたかったでしょうけど、
 治療の合間に山登りしたり、高級ウナギ食べたり
 したいことはやりきっていました。
 納得して生ききったのではと私は思っています。

 しかし納得できないまま、治療を受ける人は多い気がする。
 私の祖父のときも、主治医の強い勧めで手術したけど、
 高齢で体力が無いのに良かったんだろうかと今でも思う。
 祖父は術前はひ孫を抱くほど元気だったのに
 手術後は弱り、数週間で亡くなってしまったのです。

 自分はそういう後悔はしたくないなぁと何となく思うので
 何かヒントはあるかと思って見てみました。

 そしたらさすがNHK?
 3時間番組って内容薄い場合が多いのに
 3時間みっちり密度の濃い内容でした。

○出演者の紹介
 司会は坂上忍さんと高橋真麻さん。
 坂上さんは他番組の経験もあるせいか、
 ゲストの方々への話の振り方、重くなりすぎない話術はさすがでした。

 ゲストは
 ・俳優の柳生博さん
 (2年前に息子さんの柳生慎吾さんを咽頭がんで亡くされたそうで
 「早すぎた」「今でもあいつがいる」と話していました)

 ・元ボクサーの竹原慎二さん
  (膀胱がんにかかり、手術、抗がん剤治療を受け、現在経過観察中、本も出されています。
  竹原さんは余命1年と言われていた所からの生還だそうです)

 ・女優の宮崎美子さん
 「最近では周りで治療中とか経験した、という話を聞く」
 ・タレントの吉木りささん
 「自分はまだ若いが、父親などが心配」
 ・レッド吉田さん
 「子供が5人いて、自分がもしなったら心配」

 それから解説として
 がん対策推進協議会会長の門田守人さん、
 それからがん経験者である医師として6人
 ・垣添忠生さん
  日本対がん協会会長、泌尿器科医
  大腸がん、腎臓がんにかかり、妻もがんで亡くされている

 ・塩崎均さん
  近大学長、消火器外科医
  胃ガンにかかり、自分を実験台にして新しい医療法を確立させたそうです
  ちなみに門田氏と同級生らしい

 ・坂下千瑞子さん
  日本医科歯科大、
  骨軟部腫瘍という珍しいがん、大腸がんなど4回のがんから生き残ったそうです

 ・田所園子さん
  国吉病院(高知県)の麻酔科医、
  子宮頸がんになったそうです

 ・清水秀文さん
  東京新宿メディカルセンター呼吸内科医
  縦隔腫瘍というがんを30代で発症、現在42歳だそうです。

 ・浜中和子さん
  浜中皮膚科クリニック(広島県)院長、
  乳がんになったそうです
  「自分はがんにならないと思っていた、不遜だった」
  と話していました

 ほか、子供がいるガン患者の会「キャンサーペアレンツ」
 のメンバーの方々もいらっしゃいました

 番組の構成としては
 前半は治療、後半は生活面の話。
 前半は「ガンの新常識」として
 ●ガンは治る(坂下医師の体験談)
 ●治療法は自分で選ぶ
 という話、それから
 ●抗がん剤の話
 ●標準診療と自由診療
 ●自分のガンで新しい治療法を試した体験談(塩崎さん)
 の話でした

 後半は最初に
 ●ガン患者のための「元ちゃんハウス」を作った医師の話(故西村元一さんの話)
 「ガンの新常識」として
 ●ガンを隠さない(清水医師の体験談)
 ●ガンでも仕事ができる(キャンサーペアレンツの西口さんの体験談)
 ●ガンはみんなで戦う(田所医師、浜中医師の体験談)
 ●死と向き合う(垣添医師の体験談)

 という構成になっていました

●ガンは治る
 最初はガンは治る、という話。
 治療法を探せば治る可能性があるそうです

 ここでは、4回のがんを克服された坂下医師の体験談が紹介されていました
 彼女は血液の医者として
 悪性リンパ腫や白血病などの患者の治療をしてきたが
 2005年、アメリカに留学中骨軟部腫瘍、という
 脊椎にできる珍しいガンにかかったそうです

 「夏前から背中が痛くなり、脇まで痺れてきた」
 寝られないほどの痛みの時もあったそうです
 坂下医師は患者さんを見てきた経験から
 がんは手術で切除するのが一番と考え、手術を希望した

 しかしアメリカの医師には
 「背骨なので手術で根治するのは難しい、
  悪いところを削る対症療法になる」
 と告げられたそうです

 そこで医師である夫と共に症例を探し、手術できる所を探したそうです
 なかなか見つからず、絶望もしたそうですが、
 まだ2歳だった娘さんの存在に
 「この子の成長を見守るのが自分の仕事、生きなきゃ」
 と思ったそうです

 幸運なことに、金沢大学付属病院で「腫瘍脊椎骨全摘手術」
 という手術を開発していることを知ったそうです
 これは、腫瘍となっている脊椎を切除し、
 腰の骨を移植して残りを金属で固定する手術

 坂下さんは手術を受ける
 「自分なりに納得して受けた手術なら、
  結果がなんであれそのあと納得して生きていける」と話していました

 しかし彼女は2006年再発
 腰椎、仙骨に転移していることがわかった
 既に腰の骨を移植しているので
 さすがに次は手術できないと言われたそうです

 彼女は泣き崩れたそうですが
 担当医は「重粒子線治療」を紹介してくれたそうです
 これは放射線治療の1つで
 普通のエックス線より強力な放射線をあて、
 がん細胞をピンポイントで破壊するというもの

 しかし当時は開発途上で
 使う放射線も強力なので、失敗すれば大変なことになるリスクもあった
 特に坂下さんの場合、場所が場所なので、
 内臓損傷や下半身不随の恐れもあった

 彼女は悩んだそうですが
 主治医の
 「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ、命の方が大事」
 という言葉に押されて挑戦、
 幸い後遺症もなくがんは消滅したそうです

 坂下医師はそのあと、再発防止のため抗がん剤治療を半年受けたそうです
 副作用がひどいので入院の治療で
 生きるのに精一杯だったそうですが、なんとか乗り越えた

 「今までは医療者が何とかしてくれると思っていたけど、
  治すのは患者なんだと思った」
 とのことです

○スタジオでのトーク
 坂下医師が、最初手術にこだわったのはなぜか?
 「悪いものは取りきりたいと思ったから、手術にこだわった」のだそうです

 坂上さんが門田氏に
 「がんは取り除くのが基本なんですか?」
 と聞くと、
 「確実なのは取ること」
 ただし周辺部位にも影響があるので、そこは場合による、とのことでした

 宮崎さんや坂上さんが坂下医師の経験について、
 「お医者さんだから色んな治療法のリスクも分かるし、
  お医者さんに無理と言われても探せるだろうけど、
  普通の人はそうはいかないですよね」
 と聞くと
 坂下医師は
 「たしかにそうだが、
  他にも治療法があるかもしれない、と頭に置いておくのは必要かも」とのこと
  ただしこだわるあまり、治療のタイミングを逃してしまったらもとも子もないが…
  とも話していました

 また、別の医師は
 「セカンドオピニオンも大事」とのこと
 これについては竹原さんが
 「最初の医師は上から目線で合わなかった、
  僕はフォースオピニオンまで行きましたよ」と話していました
 ただ、セカンドを聞きに行くまでどうしよう、と1年かかったので
 もっと早く動いておけば、と後悔しているそうです

 後で吉田さんが
 「医者を変えると浮気みたいな罪悪感がある」と聞いていましたが
 浜中医師は
 「そういう方も多いんですけど、結局大事なのは自分の命ですから」
 そこは割り切って考えたほうが良さそうです。
 
 また、坂下医師によれば、重粒子線治療は日本が最先端、施設もあるので
 「日本に生まれて良かった」
 と思ったそうです。素晴らしい。
 この治療法は1㎜でも間違えると危険なので
 型を取ってそこでじっとして、当てるとき呼吸も合わせるなど
 かなり厳密にやるそうです

 そのようなリスクを伴う治療でも受けるか?という話については
 女性である浜中医師、田所医師は
 「私も自分なら受ける」
 と話していました。
 やはり子供のために生きねばと思うそうです。母親は強い。

 レッド吉田さんは価格について質問していましたが
 背骨の全摘出手術は先進治療こため保険がきかず、200万円!
 (今は一部は保険がきくらしい)
 また、重粒子線治療は週四回、4週間(16回)のセットで300万円!
 さすがに先進治療は高い。
 坂下医師は「再再発があったらと思うと、金の切れ目が命の切れ目、かと思ってしまう」

 ところで坂上さんは
 「僕、主治医にお酒もたばこもやめません、て言っているんです。
  その代わり3か月に一回検診するように、て言われてるんですけど、それは守ってるんです
  大丈夫ですよね?」
 と自信ありげに?医師たちに聞いていましたが
 「ガンは生活習慣病です、お酒やたばこは少しでも控えて」
 「タバコはやめるべきですね」
 としっかりダメ出しされていました(笑)

●最近の抗がん剤治療
 抗がん剤治療は最近、通院が一般的になりつつあるそうです
 通うこと自体がリハビリにもかるし
 行きたいところに行けるので
 本人にとっても家族にとっても精神的にはいいらしい

 ただし、条件として
 体調の変化を看護師、医師に正直に報告することだそうです。
 「家にいる間の体調の変化が分からない」からだそうです
 それらを踏まえて投薬の種類や量を決めるので、正直に話すのが自分のためらしい

 柳生さんも、息子さんが通院治療だったそうですが
 「これはいいよ、周りの絆が強くなってくる、本人にも力を与えてくれる」

 宮崎さんは、近くに病院がない地方だと無理ではないか、と指摘していましたが
 門田氏は
 「通院の方が患者さんにも費用はかからないし
  通院が増えていく方向に行かなきゃならないとは思います」
 増えていくといいですね。

 また、ガンは適切に治療を受ければ治る、という話もしていました
 前立腺がん、乳がんなどは、最近は生存率は100%に近くなっているそうです

●最近の抗がん剤
 抗がん剤は
 ・分子標的薬
 ・免疫チェックポイント阻害剤
 があるそうです

 分子標的薬はガンの原因遺伝子に異常を起こさせないようにするものだが
 原因となる遺伝子が特定されるときしか有効でない、という難点がある
 (番組では触れられていなかったけど、遺伝子検査を受けないといけない、ということですよね)
 薬も高く、一粒6615円、1年で1000万かかるそうです

 免疫チェックポイント阻害剤というのは「オプジーボ」に代表されるもので
 普通、正常な人でもがん細胞はあり、これは健康な時は免疫細胞で抑えられているが
 がんは、この抑制が弱っている状態なのだそう
 そこでがんの働きを抑え、免疫細胞が働けるようにするのがこの薬らしい
 これも一箱36万円と高いそうです
 
 坂下医師も言っていたが「金の切れ目が命の切れ目」
 医療格差も生まれそうな話ですね…

●治療法は自分で選ぶ
 がんの治療法は大きく分けると
 「手術」「抗がん剤」「放射線」の3つですが
 細かく分ければたくさんの種類があるそうです
 
 例えば手術だけでも、開腹手術、内視鏡手術、ロボットを使うものもあるそうです
 ロボット手術は、メインは人がするが、手ぶれ防止でロボットを使うとのこと。へえ。

 ここから選ぶとなると、かなり大変になる。
 垣添医師は
 最近は、患者さんへの説明が義務になっているので確かに説明はするが
 「じゃあ来週まで決めてきて」という医師が多い、
 という話をしていました
 「私の場合は患者さんの経済状況などを聞いて、
  私ならこうしますという言い方をします」
 だそうですが、それは医師によりけりみたいです

 医師を選ぶにしても通えるかという問題もあり、
 田所医師は「四国なので、東北の先生も検討したが、通う労力を考えてやめた」
 という話をしていました

 坂上さんは
 「人柄もありますかね?」と聞いていましたが
 「信頼関係が大事なのはあると思う」
 「医師にも色んなタイプがいて、
  ガンガンいく人もいれば慎重に見ましょうという人もいるので
  セカンド、サードオピニオンを聞く方がいいかも」
 とのことでした。

 とにかく調べるだけ調べて、納得できる選択をするのが一番みたいです

●標準診療と自由診療
 次に標準診療と、自由診療の話が出ていました
 標準診療は保険がきくもの、つまり国が科学的根拠があると認めている治療法、患者は3割負担で済む
 自由診療は保険がきかないので、全額自己負担になる

 VTRでは、「免疫療法」をしている医院を取材していました
 これは、患者から血液を抜き、クリーンルームで免疫細胞を増殖させ、
 また患者の体に戻す治療法だそうです
 クリーンルームなどちゃんとした施設が必要なので費用がかかるが
 科学的根拠がはっきりしないので、自由診療に当たるらしい

 それでも治療を受ける患者さんはいて
 「お金がかかっても、治ってから働いて取り戻せばいい」
 と話していました

 坂上さんは
 「初めて先生方がVTR見てざわついてます」と言っていましたが(笑)
 ぶっちゃけ自由診療ってアリか無しか?
 という質問をスタジオの先生方にしたところ
 垣添医師は「認めない」、その他の方は△でした

 垣添医師は
 「エビデンスのない治療はすべきでない」というご意見

 その他の方々も
 「基本的にエビデンスのないものは認めたくない」そうですが
 「海外で実績があり、海外なら試せるものなら受けるかも」
 という意見でした

 竹原さんは「免疫療法」を受けたことがあるそうですが
 500万円したが効果はよくわからなかった、とのこと
 垣添医師は
 「500万もかけて、効いたか分からないようなものが許せない」

 他にも竹原さんは、50万円する海草エキスを取り寄せたことがあるそうです。
 患者になってしまうと
 わらにもすがる思いで怪しいものに手を出してしまうみたいです
 「インターネットで見るといっぱいでてきますよ」

 清水医師は
 「そういうものの中にはエビデンスを作る努力もしていないものがある、
  それならそのお金で食事や旅行した方がよっぽど有意義だと思うんですけど…」

 スタジオにいるキャンサーペアレンツの方にも話を聞いていましたが
 「自由診療は怪しいものもあるが、家族に善意で勧められると断れない」
 「勧められたこともあるが、効果があるか分からないものだから断った」
 「周りから言われるより、信じた道に進むしかない」
 など色んな意見。
 結局、自分の気持ち次第ということらしい

●自分のガンで新しい治療法を試した例
 次は塩崎医師の体験談。なんと自分の体を実験台にしたそうです
 彼は付属病院長だったころ、PETという機械を購入し
 試しに自分の体を撮影したそうです

 すると結果を見て信じられなかった。
 明らかにがんと分かったそうです
 ステージにして4くらい、
 生きる道は無いと思ったそうです

 リンパ節にも転移があり、抗がん剤治療しか無いが、
 一時的に小さくするだけで根治はしない
 そこで、認められてはいないが、経験からこれなら治せるのでは、
 と思う方法を試そうと考えたそうです

 それは、食道がんなどの治療で行われている
 「術前化学放射療法」
 放射線や抗がん剤でがんを小さくしてから手術で取り除く、というもの
 胃がんでは、胃に穴があく恐れがあり採用されていないそうです

 相談を受けた放射線医師はさすがにびっくりしたそうですが
 「そこまで覚悟があるならやりましょう」という話になったそうです
 塩崎医師は
 「最後まできれいに生きよう」
 「一人でもこの方法で助かれば、治療の1つの選択肢になる」
 と考えてこの決断をしたそうです

 塩崎医師は週5回放射線照射と抗がん剤投与を受けた
 3ヶ月するとがんがほとんど消え
 そのあと胃の8割を切除する手術をしたそうです

 今は、これを正式な治療法にすべく臨床研究中だそうです
 16人がこの治療を受けているとのこと

 自分を実験台にする…てのもさすがお医者さん、ですね…

 竹原さんが
 「知識のある人がやってくれって言ったらどうなるんですか?」と聞いたところ
 「倫理委員会にかけることになるでしょうね」

 でも私の知り合いがそうでしたが、
 治験で新しい薬にチャレンジする、という手はあるようです(半分の確率でプラセーボ群になりますが)

 後半は生き方について。
 よりよい患者の暮らしのためにはどうすればいいか、の話でした

●患者のための「元ちゃんハウス」を作った医師
 最初に、がん患者が気軽に相談できる場所作りに尽力した人が紹介されていました
 西村元一さんという外科医の方で、
 2015年の3月にステージ4、余命は半年と診断されたそうです

 彼は胃と肝臓を切除する手術を行い、
 10か月後には入院による抗がん剤治療を行った
 抗がん剤の副作用で手足のしびれや味覚障害はあったそうですが、
 そのあと講演活動などを精力的に行うようになった

 というのは、がんを経験して
 がん患者が不安などを相談する場所の必要性を感じ、
 賛同する人から寄付を募っていたそうです

 イギリスには、がん患者が気軽に訪れることができる
 「マギーズセンター」いう相談場所があり
 前々からそういうものがあればいいなぁとは思っていたそうですが
 実際がんになってみて、患者にはいいなぁどころかどうしても必要だ、と感じたらしい
 「残された時間というのもおこがましいが、やりたいこと、伝えたいことをやりたい」
 と当時のインタビューでは話していました

 彼は余命より大幅に生き、同級生たちからの援助などもあり
 2016年12月、「元ちゃんハウス」がオープンしたそうです
 看護師、栄養士などの資格を持つボランティアスタッフがいて 
 訪れた患者の相談に乗る

 木目調のリラックスできる感じの内装になっていて
 利用者は
 「病院だと用がないと行っちゃいけない雰囲気があるけど、ここなら気軽に来れる」
 と話していました

 西村さんもたびたびここにいて、患者さんの相談にも乗っていたそうですが
 今年の5月に亡くなったそうです

 しかし、今もたくさんの人たちが利用しているそうです 
 不安を相談したり、くつろげる場所がある、というのは心強いですね。
 全国にもできてほしい。

 ちなみに田所医師も西村さんの講演会に行こうとしたそうですが
 「西村さんの体調が悪いので、今回は中止です」と言われ残念だった、とのことでした

●ガンを隠さない
 次はガンの告知について。
 昔ほどがん告知は難しくない、とはいえ、
 やはり告知を受けたり、家族などに打ち明けるのは患者さんの心理的負担になるようです

 竹原さんの場合は
 「実はがんの数値が5になっていて…」といきなり言われたそうです
 がんの数値5って、いいのか悪いのかよくわからんが。
 「頭が真っ白で、車の中で涙にくれた」とのことでした。
 また「女房に話すのが怖かった。話したらええ?ってびっくりされた」とのこと

 柳生さんはこの話をしているとき突然
 「実は隠していたことがあるんですけど」と切り出し
 「10年ほど前、大腸がんにかかっていたんです」と告白。
 宮崎さんは当時共演されていたそうですが「知らなかった」と驚いていました。
 柳生さんは
 「女房と息子二人と、息子の嫁さんには話したけど、そこだけで終わらせた」
 「でもそのときすでに息子もガンだったんだよね」
 周りに話せなかったのは、「カッコつけていたのかな」と話していました

 ちなみに番組での調査によると
 自分がガンと分かったら家族などに話せるか?という質問では、
 話せるという人2割、どちらかといえば話せるという人6割強、合わせて87%だそうです

 告知をどう乗り越えるか?
 家族に何もかも話した清水医師の体験談が紹介されていました
 清水医師は6年前、30代のころにガンが見つかる
 レントゲンやCTの結果を見ると、自分でもガンと分かる大きさだった
 その半年前の健康診断では発見されておらず、進行の速いガンだったそうです

 当時は子供が2人、妻は3人目を妊娠中でしたが
 すぐに妻に電話して来てもらったそうです

 医師である妻に画像を見せながら説明するためだったそうで
 「具体的に見せた方が分かると思った」

 清水医師自身は割と冷静に受け止めたそうです
 「色んな患者を見てきたので、この年代で起きるのは珍しいことではないと思っていた」

 説明を受けた妻は
 「ただ事ではないとすぐに分かったが、
  夫が落ち着いていたのでこちらも動転せずに済んだ」
 とはいえ5年での生存率は50%、
 覚悟を決めねばならないことは分かったそうです

 そして、抗がん剤を使えば髪の毛も抜けるので、
 その前に子供たちにも伝えることにしたそうです
 「周りから色々言われて子供が不安になるのは避けたかった」
 
 当時長男は7歳、次男は2歳
 長男くんにそのときの話を聞くと、
 「父が入院する、大変なことになるとは思った
  でも母がはっきり正しいことを伝えてくれたのは嬉しかった」
 なぜ嬉しかった?と聞かれると
 「嘘を伝えられて、もし最悪な場合父が死んだら後悔していた」

 幸いにして4ヶ月の抗がん剤投与、手術は成功し、
 3男も生まれて家族の絆は強まったそうです

 妻は
 「嘘をつくと次に何かあったらまた嘘をつかないといけない、
  私にとってもストレスがなくて良かった」
 と話していました

 清水医師にスタジオで話を聞くと、
 妻とは、子供には徐々に伝えていくしかないよねという話はしたそうです

 竹原さんは、
 「子供には女房に話してもらいました」
 自分は落ち込んでいたので、それが伝わってしまうと思ったそうです

 田所医師の場合、
 小6、小4、小2のお子さんがいて長女が中学受験だったところで
 「なんで今なん?」と言われたそうですが
 最終的には受け入れてくれた、とのこと

 柳生さんの場合は
 「うちはもともと会話がない親子だったからねぇ」
 と言っていましたが
 野良仕事しながら話をした、とのこと
 改まって話すと受け止める側も大変、と話していました

●ガンでも仕事を続ける
 次に、ガンになっても仕事を続けている方の話。

 番組の調査では、ガンになっても仕事を続けられるか?という質問に
 そう思う1割、どちらかと言えばそう思う2割弱、
 そう思わない3割弱、どちらかと言えばそう思わない4割弱

 だいたい3割弱の人が仕事を続けられる、7割ができないという結果

 ここでは、キャンサーペアレンツを設立した西口洋平さんの体験談が紹介されていました

 彼は人材紹介サービスの会社で10年間営業をしていたそうです
 しかし、胆肝ガンが発見されたときはステージ4、リンパ節や腹膜にも転移しており
 5年での生存率は2.9%だったそうです

 それでも働くことを選択した
 金銭面の不安という理由もあったが
 「会社の役に立ちたい」という思いが強かったそうです

 社長は相談に乗り、彼の今までの貢献も評価してくれて
 キャリアが生かせる人事部の採用担当に異動させてくれたそうです

 今は週3回くらいのパート勤務
 抗がん剤治療の当日や翌日はしんどいので休むそうです

 西口さんは
 「会社があると、仲間がいると感じられる」
 「僕らのような人たちが働けるような会社を作っていけば
  他の事情で今まで通り働けない人も働けるようになる」
 と話していました

 会社の同僚は
 「うちの会社は若いので、西口さんのように長く働いている方は貴重、心強い」
 とのことでした

 西口さんはスタジオで坂上さんに
 「いい社長ですね」と言われると
 「いい社長なんですよ」(笑)

 「同僚からはどう接して欲しいか?」という質問には
 「僕は普通の気遣いが100なら、101くらいでお願いします、ていうんです。
  300、600の気遣いは要らない」なるほど。

 キャンサーペアレンツの他の方々の意見は
 「病人扱いされたくない」
 「お客さんに話したら「待ってるからね」と言ってくれた」
 普通がいいらしい

 他、浜中医師は
 「私は仕事を止めるのを考えていなかった、仕事していて良かった」
 働くのは本人の生き甲斐にもなるようです。
 ただ、坂下医師は
 「無理はしないで」
 門田氏も
 「体力と相談して働くといい」
 「交わる人がいる、というのはいい」
 とのことでした

●お金の問題
 最近は、治療による家計破綻を起こす人もいるそうです
 そこで、ガン患者専門のフィナンシャルアドバイザーも登場しているそうです

 番組でもガン患者専門のフィナンシャルアドバイザーの方が出演されていましたが、
 特に自営の方は注意だそうです
 サラリーマンの場合、
 健康保険による治療費補助もあるし
 傷病手当も支給されるが、
 自営の場合全て自腹、収入ゼロになる恐れがあるらしい。

 また、専業主婦の方がガンになったときも落とし穴だそう
 夫の収入があるから大丈夫、と思いがちだが
 家事や育児の担い手が他にいない場合、そのぶん支出あるいは収入減になる
 このパターンで破綻する場合も少なくないそうです

 「お金のことは相談しにくい、
  どこに聞けばいいか分からない」
 という質問もありましたが、
 最近ではNPOもあり、病院に相談窓口もあるとのことでした

●ガンはみんなで戦う
 次は、ガン患者どうしのネットワーク作りについての話、
 田所医師と浜中医師の体験談が紹介されていました

 田所医師は高知で麻酔科医として働いていたが
 7年前、子宮けいがんと診断される
 進行が進んでおり、子宮や卵巣の切除も必要だった

 しかし田所医師は、女性の生殖器が無くなったときの後遺症が不安だったそうです

 「更年期障害になるのか?
  今まで通り子供と遊べるのか?
  旅行に行けるのか?
  オムツが必要になるのか?」…などなど

 しかし医師に聞くと、
 「やってみないと分からない」の一言
 「関係者だからこそ言わせてもらうと、他人事だなと思った」そうです
 当事者になったらわかるが
 患者にとっては怖さ、不安がある

 医師である夫にも不安をぶつけたが黙るばかりで
 「あなたに私の気持ちなんか分からないわよ」
 と言ったこともあったそうです
 夫は「分からないから何も言えなかった」

 田所医師はインターネットで
 経験者のブログを見たり、
 SNSで疑問を投げ掛けたりしたそうです
 すると尿漏れ対策や、ホルモンの影響など
 リアルな話がたくさん聞けたそうです

 その話をもとに、最悪の場合を考えて行動できるようになった
 また、手術前には末期の方の言葉が支えになったそう
 「この病気は諦めたら終わりだよ、
  私はそういう人たくさん見てきた、諦めちゃダメ」
 この言葉に励まされたそうです

 田所医師は手術を受け、4ヶ月ごとに経過観察中だそうです
 彼女は自分の経験をもとに、自身の仕事でも緩和医療に取り組んでいる、とのこと

 スタジオで田所医師は
 「だんなさんとどうやって仲直りしましたか?」
 と聞かれていましたが
 「してなかったですね、サンドバッグになってもらってました」

 それから医師の態度については
 「私は毎日宣告台に上る気分なのに、先生はひとごと、
  何気ない仕草もおおごとに感じられた」

 竹原さんも
 「お医者さんの態度によっては傷ついたり信用なくしますね」
 「お医者さんは最悪な想定をいうんですけど、言い方によっては傷付く」
 と同意していました

 また、田所医師にとって、
 SNSの情報は本当に助かったそうです
 試しに坂上さんもパソコンで見ていましたが
 「なるほど、リアルなんだね~」
 と感心していました

 一方浜中医師は、患者どうしで支え合う会を設立したそうです

 彼女は広島で皮膚科として働いていたが、24年前に乳ガンを発症したそうです
 当時は40代、しこりが気になっていたので検査したそうですが
 担当患者の執刀前に、同僚医師に結果を告げられたそうです
 
 「手は動くけど頭は真っ白だった」
 それもどうかと思うが、何事もなくて良かったですね…

 そのあと不安になり悩んでいたが
 同じく過去に乳ガンになった看護師が話しかけて来てくれた
 傷跡も見せ、詳しい話をしてくれたそうです

 「体験者の言葉は響きました」
 健康な人に大丈夫とか言われても、何の根拠があるんだ、としか思えないが
 体験して乗り越えた人の言葉なら「私も乗り越えられる」と思えたそうです

 治療後、話しかけて来てくれた看護師の呼び掛けで患者の会を作ることにした
 今では会員が450人、講演などには毎回50人以上集まるのだそうです。
 経験者の方が今治療中の方の相談に乗ることもあり、
 浜中医師によれば経験者の話が一番心に響くのだそう

 また、先程の西口さんは
 自分は情報が少なくて困った、という経験から
 子供を持つガン患者の会「キャンサーペアレンツ」を立ち上げたそうです
 今では会員は1100万人を超え
 治療費のことなど、悩みを語り合い共有することで前向きになれるそう

 西口さんはスタジオで
 「これだけ会員がいるということは、患者が手をあげにくい雰囲気がまだあるんだということだと思う」
 「僕たちには、自分達の気持ちを伝えていく役割がある、
  それで社会を変えられれば、子供たちにも何か残せることになる」
 「経験したからこそワクワクできることがあるんじゃないか」
 と話していました

 ガンになってどうしよう…という人も、
 探せば悩みを共有できる場を見つけられる時代になってきたのですね。

 坂上さんが
 「経験したからこそワクワクできる、てのは新しい視点ですね」と驚いていました

 柳生さんは
 「ガンはね、妻といい感じになる、子供もいい感じになる、みんな優しくなるんだよね」

 そして急に竹原さんに
 「山、登りなよ」と謎の言葉。
 これは、竹原さんがやりたいことをやった方がいい、とやりたいことを書き出していたそうで、
 富士登山やフルマラソンを挙げていて
 「妻とやりたい」と言っていたそうです
 柳生さんは
 「明日行きなよ」
 「手をしっかり握ってね…」
 と細かくアドバイスしていました(笑)

●死から目を背けない
 次は、前向きな治療をしても不幸にして訪れるかもしれない死について

 門田氏は
 「命があるってことは死を負うことなんだけど、
  最近はそれが目隠しされてしまっている、
  でも意識のどこかに残しておくことは重要だと思う」と話していました

 ガンで妻を亡くした垣添医師の体験談が紹介されていました

 彼は2007年、妻を亡くしたが、
 40年連れ添った相手を亡くした辛さは遥かに想像を越えていたそうです

 妻のガンは進行が速く、再発、転移を繰り返して1年で亡くなったそうです
 病が進行していくと、命が限られていることが垣添さんにもわかる
 弱っていく妻は
 「家に帰りたい」としきりにいうようになり
 彼は自宅で最期を看取る決意をした

 家に連れて帰り、彼が作った鍋を喜んで食べる妻を見て、幸せを感じたそうです
 しかしその3日後、体調が急変
 「最期は起き上がって目を見開いて、話せないんだけど手をギュッと握ってね。
  ありがとうと言っていたんだ、妻は満足していった、と思えた、
  それが立ち直る心の拠り所となった」

 亡くなったあと3ヶ月はさすがに酒にも溺れ、涙にくれたそうですが
 「妻がいたらあんたなにやってんの、ていうだろうと思った」そうで、
 そのあと新しいこと
 居合道、お遍路さんなどに挑戦した
 そうして徐々に立ち直ったそうです

 喪失感というのは計り知れないようで
 吉田さんも
 「母親はおやじが死んだあと2年、記憶を無くしていた、俺の名前も忘れた」
 と話していました

 しかしそれでも何かをするというのは励みにはなるようで
 柳生さんも、仕事をしていてだんだん立ち直れた、と話していました

 愛する人の死は計り知れない辛さはあるけど、
 ずっと絶望していても亡くなった人も喜ばないだろう。
 悔いのない看取りをすること、
 何か体を動かすこと、
 仲間を作ることでなんとか乗り越えていく人たちが多いようです

○まとめ
 最後に、余命3ヶ月と言われたらどうしますか?という質問に
 宮崎さんは
 「私は一人なので、身の回りの整理をしていたら終わっちゃうのかなぁ」

 吉木さんはまだお若いですが
 「私も終活しないといけないのかな」
 しかし柳生さんに
 「まずは婚活だね」
 と突っ込まれてましたが(笑)

 竹原さんは
 「色んな人に会って、色々あったから、また転移したとしても乗り越えられる」
 と話していました

 門田氏は
 それでもまず予防、検診が大事、と話していました
 まず、ガンになるリスクを減らすこと。
 それでもかかってしまう場合もあるから、準備はしておくこと。
 医療現場としては、緩和ケアが大事になってくるだろう、とのことでした。

 最後に、ガンになって得たものを6人の医師に聞いていました
 垣添医師
 「人との共感、生き方が謙虚になった」

 塩崎医師
 「覚悟はする、しかし決してあきらめない」
 これは患者さんにも言うそうですが、
 覚悟はしておいた方がいいが、あきらめたらいけない
 というのは、明日新しい治療ができるかもしれないから、だそうです
 それだけ進歩が速いということですね。

 浜中医師
 「今日を精一杯生きる」
 やりたいことをやる、行きたいところに行く、食べたいものを食べる。
 「でもタバコはやらない」と坂上さんに言っていました(笑)

 田所医師
 「いつも全力、明日はない」
 病気になる前は、子供大きくなってからこれしよう、とかあったけど、
 いつ病気になるか分からないから、やれることは今やった方がいいと考えるようになったそうです

 坂下医師
 「ピンチはチャンス」
 そう考えて生きたいそうです

 清水医師
 「ガンは人生の終わりではない」
 最近はいろんな治療法ができているので、諦める必要はない、ということらしい

 門田氏は
 「僕だけ経験者じゃないので、今日はここ(6人の医師との間)に壁を感じていたんですが…」
 と言いつつ、正岡子規の言葉を紹介していました
 正岡子規は36歳の若さで結核で亡くなったそうですが
 そのときの思いを「病牀六尺」という書に残しているそうです。
 そこにある一言がしめくくりとなっていました

 「悟るということは、いかに平気で死ぬか、
  と思っていたが、それは間違いであった、
  それは、いかに平気で生きるかということだった」
 
〇感想など
 私が子供の頃は、ガンというと本当に不治の病、
 本人への告知も、闘病の公表もためらわれる時代でしたが
 (その告知するしないでドラマができたくらい)
 今や2人に1人がガンになる時代、
 ガンの治療、というのも珍しい話ではなくなっているのだなと思いました。

 そんな中で、西口さんのような若い世代の人たちが
 新しい働き方、新しい生き方を提案してくれているのは心強いと思います。
 ほかにも、親の介護とか精神的な病など、いろんな事情で働けなくなる人もいる。
 そういう人たちも働きやすい時代になるといいなと思いました。

 また、治療法は自分で決める、とあったように
 この番組ではこの治療法がいいとかいう話はしていない。
 (たぶん人によりけりだから、できないと思うけど)
 でも、探せば自分に合うものがあるかもしれない、新しいものが出るかもしれない、諦めてはいけない、
 という希望は持たせてくれたのかなと思いました。

 それにしても、ガンになったら調べなければいけないことが多い。
 治療方法、お金のこと、薬のこと、
 仕事のこと、不安になったときの相談窓口(ネットも含む)…
 しかも進行が速い場合、時間も限られてくる。
 また、田所医師のように専門的な知識を持つはずのお医者さんでも
 実際なってみると分からないことが多い、という事実には少し驚きました。

 認知症もそうですけど、これだけガンが一般的になってきた時代、
 健康なうちに、今どんな治療法が出てきているのかとか、
 どんなサポートシステムがあるのかなど、
 探しておいた方がいいのかもしれないなと思いました。
 海藻エキスとか騙されて買うのも悔しいですしね。
 もしくは、そういう相談ビジネス、資格などが出てくるかもしれないですね…

 それから、ならないように予防をすること、
 健康なうちにやりたいことをやって、
 悔いのないように生きるのが大事ですね。 

 いろいろ勉強になりました。
 というわけで、今回はこの辺で。

 

 
 
 
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2017年09月04日

NHKBSプレミアム「フランケンシュタインの誘惑 水爆 欲望と裏切りの核融合」

NHKBSプレミアム「フランケンシュタインの誘惑 水爆 欲望と裏切りの核融合」

この回は水爆開発の話。
2016年の11月くらいに放送されたものの再放送だそうです。
しかもこの再放送したのも数日前…
今さら感がなくはないが、
思わず見いってしまいました。

登場するのは水爆を開発した理論物理学者エドワード・テラー、
それから著名な物理学者ロバート・オッペンハイマーでした。

かいつまんでいえば、
天才だけど人間性はちょっと問題?な物理学者が、危険な武器開発に取りつかれてしまった
という話ですが、
そこには、科学者の好奇心や探求心てのはどこまで許されるのか…
という問題を含んでいるように感じました。

というわけで内容から。

○エドワード・テラーの生い立ち
 1908年、テラーはハンガリーのブダペストに生まれる
 父は弁護士、母はピアニストを目指していた人
 (ウィキ情報によれば、彼は裕福なユダヤ系知識階級の家庭で、
 お母さんは銀行家の娘、4か国語をマスターする才媛だったらしい)
 2歳からピアノの手ほどきを受ける
 ピアノは終生、彼の友になったようです。

 しかしそれよりも彼が才覚を示したのは数学で
 就学前に掛け算をマスターする、など逸話は多かったらしい
 それでも靴下をお母さんに履かせてもらうなど
 精神的には幼いところがあったようです

 17歳になると当時科学の最先端だったドイツに留学、物理学を学ぶ

 しかし当時はヒトラーが台頭、
 迫害の恐れがあったためアメリカに亡命し
 ジョージワシントン大学の教授になる

○原子力の研究
 当時は原子核の研究が進んでおり
 1938年には核分裂の現象が発見される

 核分裂とは、原子の中心にある原子核が分裂、
 その際に放射線と共に膨大なエネルギーが放出される現象、
 これは後に原子爆弾に利用された

 テラーはその先の核融合を利用することを考えていた
 核融合は、核分裂とは逆に原子核が融合し
 その際光やエネルギーが放出される現象で、
 太陽など恒星の中心で普通に起きている現象

 しかし、核融合を起こすには1億℃、という大きなエネルギーが必要で
 彼は物理学者フェルミなどとの議論から、
 原子爆弾の爆発のエネルギーを使えば、
 無限に破壊力を大きくできると考えた
 「無限は人類にとって、奇妙で強烈な魅力がある」
 と述べているそうです

 無限のエネルギーに彼は取りつかれていった。
 彼の生涯を追うジャーナリストによれば
 「彼はどんな方向であれ、科学は追求されるべきと考えていた」
 破壊的な結果をもたらすとしても、科学者にとって知的探求は必要、と考えていたそうです

 彼のこの科学者としての信念?が、後に水爆開発まで手を出してしまう原動力となった

○ロバート・オッペンハイマーとの出会い
 1942年、マンハッタン計画が立ち上げられる
 (マンハッタン計画は、
  第二次大戦中に枢軸国の核兵器開発に対抗し
  イギリス、アメリカ、カナダが科学者たちを総動員して、
  核兵器開発を試みた計画だそうです)
 中心となったのは物理学者ロバート・オッペンハイマー

 このマンハッタン計画のためにオッペンハイマーの開催した会議で、
 テラーは議題と関係ないのに水爆を持ち出し
 「理論はできてる、あとは実現するだけ」と熱く語り
 他の科学者も次第にその熱にうかされたそうです

 テラーを知る人によれば
 「科学者は他の科学者から刺激を受けて閃き
  その閃きが科学の真髄に導いていくものだが、
  テラーはその才能に溢れていた」

 つまり他の人と議論を重ねる中でインスピレーションを得て、
 アイデアを産み出す才能に優れていたそうです

 彼と最も議論したのがオッペンハイマー、
 オッペンハイマーは当時、知性もリーダーシップもあり
 テラーは彼に憧れていたそうです

 二人の議論は「Mental Love Affair」(知的な情事)とまで呼ばれた
 ジャーナリストによれば
 「テラーはオッペンハイマーの科学的な総合力にひかれ、
  オッペンハイマーはテラーの科学的な発想力にひかれた。
  二人はお互い求めあっていた」

 ラブ・アフェアってのもスゴい表現ですねぇ…
 熱烈に愛し合う男女と同等の絆なんですね。

○原子爆弾の開発
 1943年、マンハッタン計画の面々は、
 ニューメキシコのロスアラモス研究所に拠点を移す
 オッペンハイマーは
 「水爆開発は時期尚早、まずは原爆技術を確立させてから」
 と判断し、水爆開発は当面見送る方針を決めていた

 テラーはオッペンハイマーに裏切られた気がしたそうです
 やる気をなくし、仕事もせずピアノに没頭

 テラーを知る人によれば
 「テラーは感情的な人間、
  自分が間違っていると認めたことはない」
 精神的には幼く、自己中な人だったみたいです

 オッペンハイマーは仕方なく水爆開発の小グループを作り、
 そのリーダーにテラーを据える
 オッペンハイマーとしては彼を近くに置いて、
 彼の才能を生かすのが得策と考えたようです

 それでもテラーはご不満だったらしい
 「みんなが1つの目的に向かっているなかで、
  自分だけ離れて働くのは寂しい」

 …たしかに、テラーの態度は思い通りにいかないから拗ねてる子供そのまま、
 形だけでもテラーの顔を立てるオッペンハイマーの方が政治力があるかな。

 1945年7月、オッペンハイマーのチームは原爆実験に成功
 同年8月には日本の広島、長崎に投下された

 テラーとしては
 さあこれで水爆だー!と思ったみたいですが
 チームとしてはこれでミッション終了ということで、
 ほとんどの科学者は研究所を去ってしまった
 テラーはやるせない気持ちだったようですが、
 オッペンハイマーも辞職してしまい
 彼も仕方なくロスアラモスを離れる

○解説
 次はスタジオでの解説になります
 進行は武内陶子アナ、
 今回の解説は池内了氏(総合研究大学院大学の方、物理関係でよく出ておられます)
 笠田竜太氏(京大のエネルギー理工学研究所、核融合の研究者)

 笠田氏は核融合の研究者ですが
 「なぜ核融合の研究を?」
 という質問に
 「小学校の授業で、星の内部で核融合が起きていると聞いたから」
 武内アナが「そんなの私たち習ったんですね」
 と言ってましたけど私も覚えてないな(笑)
 彼によれば
 「核融合も、まだエネルギーを産み出すまでは行ってない」
 彼は若い研究者ですが、
 自分が現役のうちに目処がつけば、くらいのレベルなんだそうです

 武内アナ
 「科学者にとって、無限とは魅力的なんですかね?」
 笠田氏は
 「共感はできないんですけどプロセスに魅力を感じるのは理解できます」
 池内氏は
 「科学者にとっては魅力的でしょうね」

 それからオッペンハイマー氏との「知的な情事」については、
 池内氏は
 「現実性があるかは置いといて、議論は知的なトレーニングとして面白い」
 笠田氏は
 「科学者ってのは一人で考えることが多いんですけど、それだと行き詰まる。
  でも議論によって相手を自分の鏡、増幅する鏡として見ているうちに、
  新しい考えがまとまってくるという経験はある。
  それは女の子とデートしているとき以上の経験ですね」

 私も研究ではないですが、
 他人と話をしているうちに、
 頭に何となくあったものが刺激を受け口から出て形になり、
 自分でも話しながらそのアイデアに半分驚いている経験がたまにあるので、
 その感覚に近いのかな~と思いました。
 芸人さんがネタ思いつくときとかもそんな感じなのかな?

○冷戦時代、ソ連の脅威
 第二次大戦後、オッペンハイマーは戦争を終わらせた英雄となる
 一方テラーはただの研究者

 そんな中、1949年、ソ連が原爆実験成功
 戦後からわずか4年でアメリカと並ぶ

 これを聞き、テラーは恐怖に近い感情に囚われたそうです
 「ソ連はすぐに、水爆開発にも成功してしまうに違いない」

 彼には共産主義へのトラウマがあったそうです
 彼が11歳のとき、ソ連の影響で
 彼のいたハンガリーで共産主義政権が成立
 企業国有化などが進められ、反対した人は投獄された
 この恐怖体験は強烈だったらしい

 (あとでウィキで調べたら11歳のときの話はもう少し複雑で、
 ハンガリーに誕生した共産党政権の影響で、
 弁護士だった父親は失職、一家は困窮に陥っている

 わずか5ヶ月でこの政権は将軍により倒されるが、
 倒されたハンガリー共産党のリーダーや党員の多くがユダヤ人だったことから
 ハンガリー国内に反ユダヤ主義が起こり、
 ユダヤ系の家庭だった一家は追われる形で、彼が18歳の時にドイツに移住したそうです

 つまり共産主義にも迫害されたがそれだけではない
 反ユダヤ主義にも迫害されているみたいです

 また、彼は生涯反共産主義一色ではなく
 ドイツでの大恐慌時代には、
 資本主義の崩壊を目にし、共産主義にも興味を示していた時期があったみたいです。

 しかしその後友人がソ連政府に逮捕されたり
 スターリン体制下の理不尽な裁判などを描いた小説などの影響により
 共産主義への嫌悪感を強めていった、とのことです)

 ジャーナリストによれば
 「テラーは多感な思春期に不安定な状況に置かれたため
  安定を求めて強い力を得ようとした、
  彼にとってはそれが科学だった」

 彼は当時の行政の科学部門トップだったオッペンハイマーにその気持ちを訴えたそうです
 しかしオッペンハイマーは「頭を冷やせ」といい、何もしなかった

 その上オッペンハイマーは水爆について、
 「水爆は大量殺戮兵器、人類全体への脅威」
 という見解を示した

 これにテラーは激怒したらしい
 「技術を使用するかを決めるのは、科学者のすることではない」
 科学者は行けるところまで技術を進めるべきだ、と考えていたらしい

 この考え方の違いは、オッペンハイマーへの憎しみとなっていった

 しかし社会は変わっていく
 1951年、トルーマンがソ連に対抗するため水爆開発を決定
 テラーは開発委員長に任命されたそうです

○解説
 池内氏は
 「彼にとっては共産主義は幼い頃からのトラウマのようなもの、
  最強の兵器でやっつけなければ、と考えていたんですね」
 とテラーの気持ちを代弁していました

 武内アナの
 「科学者にとって、社会的な要求は重要なんですかねぇ」という質問には
 笠田氏は
 「ノーベル賞など、ある分野が脚光を浴びて研究が進むことはありますよ」
  科学は社会の要求とは切り離せないそうです
 池内氏は研究費との絡みを指摘、
 特に軍事が絡むと、国はいくらでも予算を出すそうです
 「でもこれは、最初の段階で止めないといけないですね」

 それから、
 「テラーは先を進むのが科学者の使命、と言っていましたが…」という質問には
 笠田氏は
 「それは否定できない」
 しかし池内氏は
 「科学者は結果責任、倫理的責任を問われるべき」と話していました
 これに対し笠田氏は
 個人の人間性に期待するのも限界がある、とし
 「特に科学者は純粋にやる人が多いから周りが見えなくなってしまう、
  だから社会の裏付けがあれば何でもやってしまう」
 と話していました

 本来はそこは、科学以前に、人間として教育されるべきことなんでしょうけど…

○水爆の開発
 水爆開発でテラーが目指したのは
 広島で投下された原爆の100倍の破壊力

 最初は原爆の高熱を使い、核融合反応を起こそうとしたそうですが、
 緻密な計算の結果、
 原爆のエネルギーでは破壊力が維持できないと分かった

 しかしそこに突破口を与えたのが同僚の数学者
 原爆の爆発で、容器の内部に圧縮状態を作るアイデアを出す

 テラーはそこから閃きを得て、
 外から核分裂を起こし内部を圧縮させ
 その内部でもう一度核分裂を起こさせることで、莫大な爆発の力を得ることを考えた

 テラーの設計は完璧で、みんなその実用化に突き進んだそうです
 ある物理学者は
 「普通、武器の開発は称賛されるべきではないが、
  テラーの設計は天才しかなし得ない偉業だった」

 その証拠に、
 かつての友人で水爆開発は拒否した物理学者ハンス・ベーテは
 「核分裂の発見に匹敵する」 、
 水爆反対を表明したオッペンハイマーまでも
 「この設計は技術的にとても甘美」
 と、みな倫理性を抜きにして称賛した

 しかし1951年9月、
 水爆実用化の段階で、テラーは責任者から外される
 これは彼の人間性の問題だそうで
 当時のロスアラモス所長は
 「彼がリーダーを続けていたら、職員の2/3がやめていただろう」

 それを示すエピソードとして
 彼は仲間とアイデアを数式化していたとき
 「君たちはこのまま徹夜で作業してくれ、
  私はこれからピアノをひいて、家族と食事をしなくては」
 と立ち去り、
 次の日彼は、徹夜作業した仲間を労りもせずお詫びもせず、
 一人ご機嫌だったらしい

 当時開発チームにいた人は
 「彼は自分がリーダーだと思っていたが、その資質はなかった」
 みたいなことを言っていました

 彼はその決定後、1週間後にロスアラモス研究所を辞職したそうです

 1952年11月、ビキニ環礁にて水爆実験が成功
 彼はカリフォルニアの地震計でそれを知り、
 「It's a boy」
 とロスアラモスに打電したそうです

 私は意味が分からなかったんですが
 これは「男の子が産まれた」という意味で、
 「私が水爆の父親だ」と言いたかったらしいです

○解説
 「彼のアイデアは、オッペンハイマーも称賛していましたが…」という質問に
 笠田氏は
 「理論的に不可能だったことが新しいアイデアでできたというのは、
  どういうものかは抜きにして、
  科学者にとっては称賛すべきことなんでしょうね」
 「たぶん嫉妬も覚えたでしょう」とのこと

 池内氏は
 「純粋に、技術的に考えればたしかに素晴らしい。
  科学者ってのは子供みたいなところがあるから、
  技術的に困難なことをクリアできたのは純粋な喜びだったんでしょうね。
  最新のオモチャを子供がねだるようなもの」

 さすがにこの例えには
 「武器でもおもちゃなんですか…」と驚く武内アナに
 笠田氏は
 「彼は完成させることだけが目的で、
  どういう使われ方になるかは興味もないし、想像すらわかなかったんでしょう。
  だからこそ自分の子だ、とか言った」
 池内氏は
 「前人未到の領域に踏み込むのはある意味誇りですよね、
  科学者は世界一とか世界初に弱いんですよ」

 武内アナは「でも現実としては、はかりしれない影響がありますよね…」
 池内氏は
 「そこはそうです、
  ゼロから1になったらもう戻れない。
  技術的にブレークスルーが起きて、
  その知識のもとに悩むとなると全く新しい世界になります」

 影響が大きい技術ほど、先へ進むべきか熟慮すべき、ということですね。

○オッペンハイマーへの裏切り
 テラーは責任者を外された際、
 オッペンハイマーにハメられたと思ったようです

 やつは自分に反対している、という思い込みが強く
 オッペンハイマーに憎しみを持っていた
 ジャーナリストさんは、
 その理由として妬みがあったのでは、と指摘しています

 オッペンハイマーはハンサムでカリスマ性もあり、
 みんなに崇拝されていた。
 テラーは「自分も優れているのになんで彼と同じように尊敬されないのか」
 と考えていたらしい
 自分の人間性の無さに自覚がないあたりがイタいってことかしら…

 しかし、そのオッペンハイマーに「仕返し」するチャンスが巡ってくる
 1953年8月、ソ連が水爆開発に成功
 すると、オッペンハイマーにソ連へのスパイ疑惑が起きたそうです

 当時原子力政策顧問だったオッペンハイマーの処遇を決める聴聞会が開かれた
 その席では、多くの科学者がオッペンハイマー擁護の立場だったそうです

 テラーもその席に呼ばれ、
 発言する前、友人のハンス・ベーテに
 「不利な発言をすべきでない」と忠告されたそうです
 (ベーテは、テラーが孤立するだろうことを案じていたらしい)

 しかしテラーはその忠告を無視した
 1954年4月、テラーは証言台に立ち
 「オッペンハイマーは理解予測な行動を取る、
  重要な事柄はもっと信頼できる人にゆだねるべき」
 と発言したそうです

 テラーの証言が決定打となり、
 オッペンハイマーは公職を追放される

 しかしオッペンハイマーを追い落としたテラーは
 ほかの科学者たちから冷遇されるようになる
 これは彼にとって辛いことだったようです
 「亡命者である彼にとっては、
  科学者の世界は家族や友人みたいなもの、彼の全てだった」
 
 後に「オッペンハイマーを破滅に追い込もうとしたのか」と聞かれ
 「違います、打ち砕かれたのはこのテラーです」と答えたとか

○解説
 笠田氏はテラーの受けたショックについて
 「科学者にとっては、研究を否定されるのは全否定に等しい」
 と表現していました

 また、池内氏は背景として
 「彼の共産主義に対する憎しみはすごかった、
  オッペンハイマーは若い頃共産主義を支持していた時期もあって、
  それが聴聞会でも明らかになっていくんですけど
  それがテラーの憎しみを増やしたところがある」
 「それから当時は共産主義への赤狩りみたいなのがあって、
  そこにテラーも利用されたんですね」
 つまり、そもそもオッペンハイマーは共産主義ではないかという疑いがあり
 周りは何か追放する理由が欲しかった、
 そこにテラーの憎悪が利用されたという感じですかね。

○晩年は政治家と軍人に囲まれる
 さて科学者から村八分にされたオッペンハイマーの周りには
 軍人や政治家が集まるようになる
 軍人たちはテラーを
 「核兵器の神」と崇めてくれたそうです

 政府も軍事への予算を増やし、テラーの発言力はます

 しかし世界ではビキニ環礁での水爆実験で、1万人の被爆者が出たことが明らかになり、
 原水爆反対の動きが強まる
 6億7千万が反対署名したそうです

 そこで核の平和利用をめざす
 「プラウシェア計画」が立ち上がる
 この計画は1960~70年代のもので、
 核爆発で運河を作ったり、地下資源を掘ったり…

 テラーもこの計画に加わり、多くの実験を行うが
 その過程で多くの放射性物質が出された
 彼はそこは考慮しなかったようです

 ついに世論の反対が強まり、1975年に計画は中止

 (あとで調べたら、
 プラウシェア計画は「平和的核爆発」
 つまり土木工事や採掘などに、
 核爆発を平和的に使う計画の一環で
 ソ連でも行われていたようです。

 アメリカでは放射線漏れの問題が解決できず、
 1977年には予算が打ちきられていたようですが、
 ソ連では、国際的な批判を浴びる1980年代後半まで行われていたようです

 国際的には「平和的核爆発」は
 1968年時点では、核拡散防止条約でも認められていたが、
 2000年時点では、包括的核実験禁止条約に抵触する、
 として現在は禁止されているとのこと)

 その後、軍事としてはスターウォーズ計画(戦略防衛構想)も持ち上がる
 80年代の冷戦の最中レーガン政権で考えられた計画で、300億ドルが投じられたという

 テラーは晩年も科学者との関係は戻らないまま、2003年9月、95歳で亡くなる

 ジャーナリストさんは、
 彼は晩年精神的に幸せだったかどうかは疑わしい、という見方をしています
 「彼は晩年、軍人や政治家に天才とあがめられてはいたが、
  科学者たちと知的な議論をすることはなかった、
  彼にとっては辛かっただろう」

○解説
 池内氏は
 「科学者は、暴走してしまうと自分を誉めてくれる人としか付き合わなくなる」
 とのこと
 特にテラーは、色んな議論をしてアイデアを生んでいくのがこの人の道なのに、
 それとは逆の道を歩んで引き返せなくなっちゃったのだろう、とのことでした

 笠田氏は
 テラーは水爆を開発するまでは一流の科学者だったが
 それ以後は水爆のアイデアをみんなに認めてもらうためのことしかできなかった、
 プラウェア計画もその一環だったのだろう、
 と話していました

 番組の冒頭で、
 テラーは後に、
 水爆開発をして後ろめたさはないかと聞かれ
 「そんなもの感じたことはない、
  無限への挑戦は科学者にとって魅力的な冒険なのだ」
 と答えていた、という話が紹介されています

 池内氏は
 「彼のような人が政策を牛耳った事実を反省しなくてはいけない、
  それが起こり得ない社会にしないと」
 笠田氏も
 「科学者は自分の発見発明について、利益を強調してリスクを過小に表現しがち、
  科学と縁の無い人とこそ、科学者は対話の場を作り、
  一人の人間として恥ずかしくないよう、ちゃんと説明できるようにしていきたい」
 ということを話していました

○テラーが壊してしまったもの
 ナビゲーターの吉川さんが最後の方で
 「核開発はまだ続く…
  しかし壊してしまったものは二度と戻らない」
 と呟いています

 しかしテラーが本当に壊してしまったものとは何か…
 ということを示唆するエピソードでしめくくっています

 オッペンハイマーに一撃を与えたテラーですが、
 和解の道は模索していたそうです

 オッペンハイマーがフェルミ賞を受賞したとき、
 テラーはオッペンハイマーに手紙を書いた
 ロスアラモスで議論していた思い出、会ってまた話したい、
 これからの幸運を祈っている、
 ということなどを綴った長い手紙だったそうです。

 しかしそれに対するオッペンハイマーの返事はたった二行
 「手紙をありがとう
  大変嬉しく思いました」

○感想など
 オッペンハイマーについては
 「Outliers」という本(マルコム・グラッドウェル、邦題「天才!」)という本に少し記述がありまして、

 彼も一筋縄の人間ではなく、
 若い頃には精神病を病んだり、上司に毒を盛る事件を起こしたとか…
 (仕事や上司とあわずノイローゼ状態だったらしい)
 ですので、二度と社会的に立ち直れない危険もあったのに、
 後にマンハッタン計画に抜擢されたのは彼の人柄のおかげ…
 みたいな話が書かれていました

 彼は裕福な生まれで
 人に交渉したり、人の上に立てるような経験を子供の頃から与えられて来たのだそうです。
 事件を起こしても救われたのは
 そんな彼の能力を抜擢した人(名前忘れたけどたぶん軍人)が見抜いたからだろう。と。

 ちなみに、オッペンハイマーの生涯も気になったので少し調べましたが
 数奇な運命を辿ったためか、
 本やドキュメンタリー映画などになっているようです

 本は、「オッペンハイマー 「原爆の父」 と呼ばれた男の栄光と悲劇」上下巻
 ドキュメンタリー映画は「The day after Trinity」

 読んだことないので書評などを流し読みしますと
 彼の公職追放が決まった聴聞会?裁判?では
 共産主義との関係だけではなく
 彼の女性関係なんかも暴露されてしまい
 妻はアル中になってしまったとか…
 (まぁ、たしかに写真見たらイケメンだしねぇ)

 公職追放決定後もFBIに監視された生活で、
 私生活は最期まで大変だったようです。
 (ただし量子力学では功績があり、
 亡くなる2年前にフェルミ賞を受賞されています)

 ところで、彼はマンハッタン計画で原爆開発に成功し
 社会的地位は上がるわけですが、
 彼はテラーとは違い、開発成功の高揚感は無かったみたいです
 というか、テラー以外の研究者はそうだったのかもしれない。

 ドキュメンタリー映画について書かれた以下のサイト
 http://nowsharp.com/archives/1147 によれば、
 そもそもオッペンハイマーが核爆弾開発をしたのは
 ファシズムから西洋文明を守るためだった、という見解があります
 つまり悪に立ち向かうために仕方なく、ですね。

 当時の研究員たちはというと
 戦争終結への期待と、危険な兵器を産み出す怖さの混じった複雑な思いだった。
 オッペンハイマーの弟さんなんかは「成功しても失敗しても不安」と述べていたそうです

 更に日本へ実際に原爆投下されてしまった後は、関係者は
 「戦争終結に貢献することができた」とは思いつつ
 「もたらした結果に衝撃を受け、恐怖を覚え、
  二度とこのようなことをしてはならないという思いに襲われた」とあります。

 つまりみんな、
 必要悪として開発はしたが、
 人道的な後ろめたさ、してしまったことへの怖さはあったということです
 (それが普通だと思うが)

 オッペンハイマーも深く後悔しており
 戦後には政府の意に反し、
 核の管理、核の乱用防止のための体制作りを訴えた
 たぶん反政府的な立場を取ったことが後に政府からターゲットにされることにつながるんだろうけど、
 でも人間としてはマトモな流れでしょう。

 こう見ていくと、
 オッペンハイマーは、テラーとは純粋に科学的な議論は楽しんでいたけど
 生きるよすがは全然違ってたということになりそうです。
 二人のラブ・アフェアも、
 オッペンハイマーにとっては科学に限定したことだったけど
 テラーは価値観の一致も求めていた、
 つまりある意味テラーの片想いだったのかもしれません…

 晩年語り合えたとしても
 そもそもの価値観が違うので
 彼と真の交流が出来たかどうか…

 それから、晩年のテラーについてジャーナリストは
 「彼は知的な議論は出来ず寂しかったのでは」
 という見方をしているが、
 うーん、私はちょっとそれは希望的観測というか、センチメンタル過ぎかな~と思いました。

 人間って変わるし
 今に合わせて都合よく記憶を変えてしまう生き物なので、
 彼も晩年政治家とか軍人にちやほやされてたら
 「あー、若いときは科学に狂ってたな~、
  俺も若かったよねぇ、何であんなに熱中してたんだろ」
 てな具合に
 科学への情熱をもう過去のものとして、押しやってしまうんじゃないかなぁ…

 それで名誉もお金もあったなら、
 それなりに幸せになっちゃうんじゃないかなと思います。
 あれだけ数学や物理の才能があった人なので、そうあって欲しくはない~と他人は思うかもしれないが
 人間ってそんなもんじゃないかなぁ。

 まあでも「それでいいのかお前の人生」とは聞きたくなる。
 彼の生涯の黄金期は、ロスアラモス研究所時代だったのかもしれない。
 平和な時代なら、オッペンハイマーと議論して
 もっと素晴らしい量子力学理論を生み出していたかもしれないですね。

 子供を持つ親としては
 どんなに才能があっても、他人の痛みが分からない人間には育てたくない、と思う。
 だんなもよく
 「どんだけ頭良くても最後は人間力よ」
 と言いますけど、いい大学出ていても人間的に問題…という人は実際苦労している。
 本人にとっても幸せではないしね。
 科学教育する前に、倫理観を育てる経験が必要なのかなとも思いました。

というわけでだらだら長くなりましたが、今回はこの辺で。
 

 
 
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2017年09月03日

NHKBSプレミアム フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿「消された指紋」

NHKBSプレミアム フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿「消された指紋」

 月一回なので久しぶりに観ました。
 相変わらずナビゲーターの吉川さんが怪しすぎる…(笑)
 今回は法科学、犯罪捜査に使われる科学の話でした。

 個人的には、学生の頃「法科学」の本をたまたま読み
 「サイエンスにもこんな分野があるのか~」と思った記憶があります。
 当時はマイナーだったし、私もそんなに興味なかったけど、
 海外ドラマとか「科捜研の女」などのドラマで有名になりましたね。

 今回はそんななかでも歴史が古く、
 今では当たり前のように使われる指紋鑑定を始めた人たちの話です。

 出てくるのは無名の医師ヘンリー・フォールズ、
 高名な科学者フランシス・ゴールトンとウィリアム・ハーシェル。

 話としては割りと単純で、
 無名の貧しい医師の発見を、
 高名な上流階級の学者が横取りした…
 て感じなんですけど
 片方が悪い、てわけでもなく
 そこには差別意識とか劣等感などが絡んでいて、
 なかなか人間とは難しいものねと思いました。

というわけで内容から
○ヘンリー・フォールズの生い立ち
 フォールズは1843年スコットランド生まれ、
 父親は貧しい運送業者
 フォールズは敬虔なクリスチャンでもあった

 貧しい中、医師を志し医学を勉強、
 1871年教師としてインドに赴任
 ダーウィンの進化論に心酔し
 進化論とキリスト教は両立できると考え、教えて回ったそうです

 しかし当時、教会から進化論擁護の姿勢を批判され、イギリスに帰る

 1873年、日本に渡る
 築地で医師として働いたそうです
 当時動物学者のエドワード・モースとも親交があり、
 大森貝塚の発掘に関わったそうです

○指紋鑑定の発見
 その遺跡発掘で、化石に指の痕がついていることに気付く
 彼は、指紋が進化論を証明するのではと考え、指紋の研究を始める
 友人、家族、同僚などから数千の指紋を採取して研究したそうです

 その結果、彼は同じ指紋は1つもないことを発見した

 その後研究室で、実験用アルコールが何者かにより飲まれている事件があった
 犯人がグラスがわりにしていたと思われるフラスコに
 完全な10個の指紋が残っており
 それを彼の指紋コレクションと照らし合わせると
 出入りしていた医学生のものと一致したそうです。

 これにより、彼は犯罪捜査に指紋が使える事に気付く

 彼はその後、
 指先の指紋を削ったり、薬品で溶かしたりもしたが
 同じ紋様が再生されることも発見

 こうして彼は、
 指紋は「万人不同」「終生不変」であることを発見した
 この特徴は、指紋が個人識別に有効、とされる根拠になっているそうです
 専門家によれば
 「彼の深い洞察力が、道を切り開いた」とのこと

○見向きもされなかった指紋鑑定
 彼はこの成果を1880年、Nature誌に発表
 「手の皮膚の溝について」
 という論文で
 「指紋は犯罪者の身元を科学的に証明することになる」と述べる

 しかし、この論文は見向きもされなかった

 歴史学者によれば
 「彼が無名だったから」
 だそうです
 当時はそもそも、指紋を研究する人も少なく、
 さらに彼は無名の医者
 誰も彼の論文を読む動機が無かった、とのこと

 彼はダーウィンに手紙を書き、援助を求めたそうですが
 高齢を理由に断られたそうです

 さらに日本、アメリカ、イギリス、フランスなど
 各国の警察に指紋鑑定の採用を呼び掛けたそうですがもちろん黙殺される
 「素性の分からない者からいきなり言われても
  いくら有用な方法でも採用されないのは当然」
 だったらしい

○スタジオの解説
 進行は武内陶子アナ、
 今回の解説は、岩瀬博太郎氏(千葉大の方で法医学者)と
 松本勉氏(横浜国立大の方で指紋鑑定の研究をされている)でした

 二人によれば、指紋はDNAよりも個人識別能力は高いらしいですが
 岩瀬氏は
 「当時の時代に、指紋に着眼すること自体が難しい。
  それはある意味運というか、
  天から与えられた使命みたいなものがあったのかもしれないですね」

 松本氏は彼の業績が認められなかったことについて
 「タイミングが悪かったんでしょうね」
 岩瀬氏も
 「論文に載ったからといって正しいわけではない、
  後からいろんな人に検証されてこそ認められるんですけど
  ついていってくれる人がいなかったんでしょうね」
 とのことでした

○フランシス・ゴールトンの登場
 一方ロンドンにはフランシス・ゴールトンがいた
 彼はダーウィンのいとこで父親は裕福な銀行家
 つまり上流階級の人だった

 彼は「優生学の父」だそうで、
 上流階級は生まれながらにして立派だと考え
 「生まれながらに平等、という思想には断固として反対する」と言いきり
 「遺伝的天才」という本には
 「動物の品種改良のように、
  遺伝的改良により並外れた能力の人間を作ることも可能」
 と書いているそうです

 今では考えられないゴリゴリの優生思想ですね。

 彼は、優生学の一環として、
 優秀な人間を見分ける身体的特徴を探していたので
 その一つとして指紋に着目、指紋に関する2つの論文を見つける
 1つはフォールズの論文「指紋は犯罪捜査に有効」
 ゴールトンにとっては、面白いけど興味はわかなかった(著者が無名なのもあるかもしれない)

 もう1つはウィリアム・ハーシェルの論文
 ハーシェルは父も祖父も高名な科学者
 つまり高名な上流階級に属していた

 彼自身は行政官で、契約書に偽名を使う人がけっこういて
 それを防ぐために指紋を使うことを考えていたそうです

 彼は20年以上指紋のコレクションをしている、とも書いていたそうで、
 この物証があったのがゴールトンには大きかったらしい
 ゴールトンはハーシェルにコンタクトを取り、手を組む

 1892年、ゴールトンは「指紋」という本を出版
 彼の興味である優生学にはつながらなかったが
 指紋は犯罪捜査に有効、とし、
 指紋は、紋様の分岐点や線の先端の位置などで判定すべき、と述べている
 この方法は今でも使われているそうです
 つまり、彼は現代の指紋の鑑定法を確立させた

○フォールズvsゴールトン
 しかし、彼はこの本のなかで
 「系統だった指紋の使用法を考案したのはウィリアム・ハーシェル」
 とし、フォールズについては
 「入念な研究をした人もいる」との一文のみ
 しかも名前の綴りを間違えていたし
 「ドクター」でなく「ミスター」だったそうです

 ゴールトンのこの本が大臣の目に留まり、
 犯罪捜査に指紋を利用することを検討する委員会が設置された
 そして1894年、ついにイギリス政府による指紋の利用が決定したそうです

 フォールズが論文を発表してから14年のことだった

 フォールズは採用を訴えても見向きもされなかったのに
 高名な科学者ゴールトンの話となればすぐに採用された

 専門家によれば
 「当時では、無名な人か高名な科学者かというのは大きく違う、
  フォールズは上流社会への侵入者のように思われたのでは」

 フォールズにとっては自分の成果が採用されたのだから喜ばしいはずなんですが、
 報告書でゴールトンが
 「貢献者はハーシェル」
 と書いたこと、
 更にゴールトンの本ではフォールズについては一文しか触れられていない、
 しかも名前のスペルをミスってる…
 ここにフォールズは激怒した

 彼はNatureに反論を投稿
 「私の名前の綴りが間違ってる、
  しかも最初に提唱したのは自分だ、
  ハーシェルが何をしたのか、はっきりさせるべきだ」

 しかし、八つ当たりに近い形で自分の名前を出されたハーシェルも黙っていない。
 「フォールズがたかだか2年の研究で、指紋が個人識別に有用だとしたとは到底思えない」
 と激しく反論

 歴史学者によれば
 「指紋の個人識別への利用を最初に提唱したのはフォールズだが、
  実用的な有用性を立証したのはゴールトンとハーシェルだった、
  だからフォールズは名前を外されたのだろう」

 現在は、ノーベル賞なんかは最初の発見者に敬意を払って贈られますけど
 まだそういう概念が無かったってことですかね。

○解説
 岩瀬氏は
 「なんかすごいボスが出てきたって感じですね」だそうです(笑)
 「今でも同じなんですけどね…
  有名な研究者がボスだと、研究費も呼び込みやすい。
  逆に若手の無名な研究者が入り込みにくい、てのはありますね」とのこと
  まぁたしかに大学や病院、研究機関ではそうですね。

 松本氏は
 「私もフォールズなら怒ったでしょうね」と共感していました
 最初に発見したのは事実で、
 そこを汲み取ってもらえない悔しさは理解できる、とのこと

 「仲間がいれば良かったんでしょうね」
 「物的な証拠がないと言うのも大きかったのかも」
 「お金があるなしも大きかった」とも。

 武内アナが
 「それにしても、横取りされたのは…」と聞くと
 「うーん、本来なら協力しあうところなんでしょうけどね。
  ボタンのかけ違えだったんでしょうね。
  それから、差別されているという感覚もあったのかもしれない」
 「名前のスペルミス、敬意を払う一言が無かった、というのは大きい」

 …ゴールトンたちにしてみれば
 庶民階級なんだから黙っとけ、みたいな気持ちはあっただろうし
 フォールズにしてみれば、バカにされたという気持ちがあったのかもしれません。
 身分、差別でこうもすれ違いが起きるというのも悲しいですね。

○指紋鑑定が決定的な証拠となった最初の例
 1905年、「デトフォード老夫婦殺害事件」が起きる
 老夫婦が殺害され、金庫に残された親指の指紋が唯一の証拠だった

 この事件は、指紋鑑定の犯罪捜査への採用を決定付けた、重要な事件だそうです

 当時は指紋鑑定官という役職ができ、特別な地位はあったが
 指紋鑑定が、実際裁判に採用されたことはなかった
 指紋だけで人物を特定し、逮捕し、有罪を確定させる成功例が求められていた、とのこと

 さてこの事件、
 検察側の指紋鑑定人は、
 容疑者の指紋と現場の指紋について、
 指紋の線の細部の鑑定をゴールトンの方法にのっとって行った

 一方弁護側では、指紋の証拠能力を疑っていた
 科学者の証人としてフォールズがいたそうです
 彼は1本の指だけでは人物特定には不十分、10本必要と主張したらしい

 しかし、歴史学者によれば
 「弁護側についたのはフォールズは個人的な恨みもあっただろう、
  彼は功績を奪われ、不当な扱いだった、
  彼の人生は不満だらけだった」

 裁判では、検察側の科学者が
 指紋の拡大写真を証拠として提出
 金庫と容疑者の指紋の分岐点などの特徴が11箇所で一致するとした
 「別人でも指紋が一致する可能性はあるか」
 という裁判官の質問にたいし鑑定人は
 「私の9万件の鑑定を扱った経験では
  別人のこともあるが、別人で一致するのは最大でも3ヶ所」
 (ちなみに今は、多くの国では12箇所の一致で同一人としているそうです)

 裁判官はさらに
 「次の質問は命がかかっているから慎重に答えて欲しい、
  (当時は殺人は確実に死刑だったそうです)
  この証拠の指紋は別人の可能性はあるか」と質問
 鑑定人は
 「確実に同一人」と答えたそうです

 一方弁護側の科学者の証人は
 「別人の可能性がある」
 根拠として、紋様の角度の違いを指摘

 しかし、検察側の鑑定人は
 「指紋を押すときの圧力の違いで、この程度の差異はありうる」と答える
 この証言に陪審員は納得したそうです

 弁護側は、次の証人にフォールズを用意していたが
 また論破されることを恐れて彼の証言を取り止めた
 つまり彼は発言さえできなかった

 結果として有罪、死刑宣告となった

 歴史学者などによれば、
 この事件は指紋鑑定の採用を決定付けた一方で
 「フォールズはそれまで理不尽な扱いをされていると感じてゴールトンなどと争っていたが
  これは彼にとって決定的な一打となった」
 弁護側につかずに傍観していれば、また人生が違ったのかもしれません。

○解説
 武内アナの
 「なんか切ない感じですね…」という一言に
 松本氏は
 「やけになってたんですかねぇ」
  本来は彼は指紋が捜査に採用されるのを望んでいたはずなのに、結果的には反対の立場になった
  科学の成果を道連れに、
  全てをリセットしようとしていたのかも、と。

 岩瀬氏は別の見方をしていて、
 「人の命が掛かっているときはこれくらい慎重になるべきではないか」
 つまり、彼の「10本の指で鑑定しないと冤罪の恐れになる」
 という主張にも一理あるとしています。

 今でこそ指紋鑑定は100年かけて信頼性が実証されてきたが
当時は始まったばかり、
 導入にはもっと慎重になっても良かったのでは、と。

 例えばDNA鑑定などは歴史が浅く
 あとになって別人でした、てことがあったが、
 指紋もそんな可能性もあった

 このケースは、
 1本指の指紋でも人物特定は可能、という新たな概念を作ったが、
 岩瀬氏は
 これは結果的には良かったが、
 1つの指紋でも証拠になる、
 というところまで踏み込むのは当時としてはリスキーだった、と指摘しています

 岩瀬氏によればこれは科学全般に言えることで、
 裁判官や弁護士、陪審員など、裁判に関わるのは全て科学者ではない人たちで、
 科学の名があると正しいと思ってしまいがち。
 「科学を隠れ蓑にして、雰囲気だけで有罪になる恐れがある」
 「科学でも有罪と言い切れないことは、
  はっきりと「言い切れない」と言うべき」
 と述べていました

 フォールズにそこまで危機意識があったのか、
 それとも個人的恨みが強かったかは定かではないが、
 これは現代にも通ずる話ですね。

○最期まで争ったフォールズ
 デトフォードの事件は、指紋鑑定が市民権を得るきっかけとなった。

 しかしフォールズの腹の虫は収まらず
 「指紋による個人鑑別の手引き」という本を出し、
 デトフォード裁判について、このままでは冤罪が起きかねないと批判したそうです

 しかしゴールトンは
 「フォールズはあら探しばかりしている」と逆に批判

 フォールズは、ゴールトン亡き後はハーシェルと争っていたそうです
 フォールズ73歳、ハーシェル83歳のとき
 フォールズはNature誌に
 「ハーシェルは指紋鑑定の歴史において、私の役割を完全に無視している」と噛みつき
 ハーシェルは
 「フォールズは社会的な礼節を踏みにじっている」と応戦

 ハーシェルも亡き後は
 「国のために尽くした評価をされる権利が私にはある」と書いているそうです

 専門家は
 「フォールズ、ハーシェル、ゴールトン、
  それぞれに貢献があったが、フォールズだけは評価されなかった。
  指紋鑑定に関わったことで、彼の人生はある意味狂ってしまった」

 1930年に84歳で亡くなるまで
 彼は評価されなかったそうです

○解説
 松本氏は
 フォールズは最後まで、自分の名前を残すことに固執していたのがよくなかったのでは、とのこと
 「運が悪くて評価されなかったのもあるけど、
  あからさまに名前を残したい、ていうのはどうか…
  そんなの言っちゃダメですよ」と手厳しい言葉(笑)
 「逆に人に言ってもらうようにならないと」
 「自分が名前を残せなくても、
  教え子たちが道を開いてくれる、
  それだけでもいいんじゃないのかなぁ…」とのご意見でした。

 たしかに仕事などでも「俺が、俺が」ていう人は評価されないですね(笑)

 岩瀬氏も
 「名前を残したい、という人はいますけど
  実績を残せば名前は後から残っていく、そういうものです」

 ゴールトンは、指紋が彼本来の目的である優生学につながらないので
 急速に興味を失ったようですが
 ながらく指紋鑑定の第一人者とされてきたそうです。
 歴史とは皮肉なものですね…

 しかし1974年指紋協会が設立され
 その歴史が見直されたそうです
 指紋鑑定の歴史が研究され
 フォールズの業績が改めて評価された

 1987年、この協会により
 ボロボロだった彼の墓が建て直され
 「指紋による科学的個人識別の先駆者」
 と刻まれた
 彼の論文発表から107年経過後のことでした
…ていう話で終わっていました。

 一応、認められたいという彼の願いは満たされたので
 フォールズさんも浮かばれたのかな?

吉川さんの
「科学は誘惑する」
というお馴染みのナレーションが耳に残りました(笑)

○その他の話
 ちなみに、ほかに新しい鑑定技術の話もあり、
 今では指紋鑑定は進歩し、
 見えない指紋を浮かび上がらせる技術も発達
 また、指紋に残る皮膚片などから
 病気の有無、性別、生活状態などを検出する技術も確立される可能性があるそうです

 また、指紋認証以外の「生体認証」もあり
 例えば
 目の虹彩認証、歩く状態からの歩行認証、顔認証
 などの新技術が生まれているそうです

 岩瀬氏は新技術について
 「期待と心配がある」とのコメント。
 期待とは、テロ予防等に役立つ、という期待、
 心配としては
 なりすましの恐れと個人情報の漏洩だそうです
 そこはこれから、技術と運用で防がねば、とのことでした

○感想など
 優生学をはじめ、差別意識の罪は深い。
 差別される人の気持ちを考えたら人道的に許されない、てのもあるけど、
 そのせいで素晴らしい無名な人たちの発見が見過ごされるのも勿体ない。
 この時代、掘り出したらそんなものがたくさんあるんかもしれないなぁと思いました。

 とは言え、フォールズさんがそこまでむきになったのも、
 なんか理由があったんかな、と考えてしまいました。

 「階級社会だからしょうがない」
 と諦める道もあったはずだし
 「他人がどうあれ、自分の研究を続ける」
 と気にしないこともできたはずだが
 「自分を認めてくれ」
 という気持ちに取りつかれてしまっている感じがしました。

 研究以外にも、生活で不当な扱いを受けていたのかな?
 それともよっぽど負けず嫌いのかただったのかな?

 それにしても、彼の批判を真に受けて反論するゴールトンとかハーシェルもなんか大人げないなと(笑)
 身分が何であれ、敬意は払うくらいの度量がほしい。
 少なくとも
 「誰が正しいかは歴史が証明するさ」
 くらいどっしり構えてほしかったな~と思います
 (当時はそんな余裕はなかったのかもしれないが)

 科学と裁判の関係についての話も考えさせられました。
 裁判て関係ないと思っていたけど
 裁判員制度ができたから、普通の人でも裁判に呼ばれる可能性がある。
 そういうなか、おそらく科学的な証拠もいくつか出てくることでしょう。

 科学という名前に惑わされず正しく判断するには、
 科学やデータと呼ばれるものも疑う姿勢も必要なのかなと思いました。

 個人認証技術の発達もめざましいですね。
 ここまで来たら、いつなんどき見られてもいいような行動をせねばならんのかな、
と思ったりしました。

次の話も興味深そうなのでまた見てみたいと思います。

というわけで今回はこの辺で。

posted by Amago at 08:09| Comment(0) | テレビ(科学) | 更新情報をチェックする