2017年10月17日

Eテレ「100分de名著 歎異抄 第2回「悪人こそが救われる」第3回「迷いと救いの間で」」

Eテレ「100分de名著 歎異抄 第2回「悪人こそが救われる」第3回「迷いと救いの間で」」

前々から興味があった親鸞の「歎異抄」。
一年半前見逃したので、再放送していただいているのがありがたい。
今回は2回目、3回目をまとめて見ました。
(先週は2回目見てる暇がなかったので…)
解説の釈徹宋さんの話し方が心地よくて、すっと胸に入ります。
なるほど~、人間の複雑さみたいなものを感じてしまいました。

ところで恥ずかしながら、私「たんいしょう」かと思っていたのですが
「たんにしょう」だったんですね、知りませんでした…(今更知った(汗))

進行は磯野佑子アナと伊集院光さん、
解説は前回と同じく、文学者で僧侶の釈徹宗さん。

第2回「悪人こそが救われる」
前回は、「自力と他力」の話でしたが
この回は「悪人と善人」の話。
釈氏は、
「悪人こそが救われる、悪人正機説ともいわれますが
 親鸞の言葉のなかで一番有名かもしれませんね」

たしかにこの言葉、よく聞かれるけど
なんで悪人「こそ」が救われねばならんの?という気になりますね…

〇悪人こそが救われる、の本意
 この言葉は「歎異抄」の第三条にあるそうです

 原文を訳した解説によりますと
 
  「善人すら浄土に行ける、ましてや悪人はなおさらだ」

  世の中の人は普通、
  「悪人すら浄土に行ける、ましてや善人はなおさら」という。
  これは一見もっともだが、本願他力の心に反している。

  なぜなら、
  善人、つまり自力の善で往生しようとする人は、
  阿弥陀様の願いに沿っていない。
  しかし善人でも、自力にとらわれた心を翻し、
  本願の力にお任せすれば、成仏できる。

  なぜなら、どんな厳しい修行をしても迷いの世界から逃れられない、
  そんな我々を見て阿弥陀様は立ち上がったのである。
  阿弥陀様の願いは、
  我々のような悪人を救い、浄土に往生させて仏にすることなのである、
  その本願の心にお任せする悪人の心を持つ人こそが、往生できる

 …とかいう内容でした
  
 磯野アナは
 「なにか、私たちのいう善人、悪人とは何か違うみたいですね」

 釈氏によると
 親鸞の言う善人、悪人は少し我々とはニュアンスが違う。
  ・善人とは、自分で修行して煩悩を消し去り、悟りを開ける人
  ・悪人とはそれができない人

 伊集院さんは
 「なるほど、今の言葉で言えば、
  落ちこぼれを救うための教えなんだから、ということですね」

 釈氏はキャッチャーのストライクゾーンの例えを出していました
 普通は、仏が救うストライクゾーンに善人がいて、
 悪人はもうちょい頑張れよ見たいな感じなイメージがある。

 しかし、親鸞の場合、ストライクゾーンにこそ悪人がいる。
 この人たちは本来の救いの対象で、正機というのだそうです
 悪人正機、というのはこのためらしい。
 そして善人は傍機(ついでに助ける人)、という扱い
 「ですから、泳げない人をまず救う船みたいなものなんですね」

 釈氏はさらに、
 「もう少し深く読むと、
  親鸞は「善人の危うさ」みたいなのも言っているんです」
 つまり、自分たちで修行した、救われた、という人たちは本当に救われているのか?
 幾ら修行をしても、内面を見たら煩悩は完全に消えていないはずで、
 そう考えるとすべての人は悪人ともいえる、
 悪人の自覚を持ちなさいよ、とも親鸞は言っているのだそう

 伊集院さんは
 「さらに言うと、俺たちは善人だ、って言ってる人は
  実は善人じゃない場合が多いですよね」
 そして
 「ネット上の炎上とか最近ありますよね。
  批判する側は、最初は自分が正義の気持ちで批判しているんですけど、
  だんだんエスカレートしてきて、バカヤローとか死ねとかいう言葉になる、
  外から見ていたらどちらが正義なのか分からない…」

 釈氏は
 「善人の暴走が始まることを戒めているんですね」
 「それから仏教は面白い宗教で、
  どんな考え方も偏っちゃダメ、っていうんです。(中庸)
  これ現代人が考えないといけないことだと思います、
  自己点検が必要だ、と言っている」

「デキない人」をまず救ってあげよう、というのが仏のやさしさ。
また、「デキる人」の、自分たちは頑張って勝ち組になった、というおごりがよくない
ということなのですね。

〇いくら念仏を唱えても悟れない…
 次は第九条の話です。
 これは、唯円がある日思い切って親鸞に悩みを打ち明ける、という場面です
 唯円
 「念仏をいくら唱えても、躍り上がる喜びが感じられない。
  浄土に行きたいとも思えない、
  この気持ちをどうしたらいいのか」

 それに対して親鸞はどう答えたか。
 「この親鸞もなぜだと思っていましたが、唯円、あなたもですか」
 なんと親鸞も、自分も同じだ、という。

 そして、
 「浄土に早く往生したいとも思わないし、
  ちょっと病気になったら死にたくないと思う、それは煩悩の力。
  果てしなく遠い昔から、生まれ変わり出てきたこの迷いに満ちた世界が恋しい、
  浄土に行きたいとも思えないのは、煩悩のなすわざ」
 さらに
 「だからこそ、我々は往生できる」と続けたそうです。

 釈氏の解説によると
 「僕の勝手な想像なんですけど、
  たぶんこのとき、唯円は師匠と二人きりになって、
  この際だから思い切って聞いちゃおう、と告白したんだと思います」
 当時唯円30代、親鸞は80代。
 「唯円は、僕はいくら念仏を唱えてもちっともうれしくない、
  浄土に行きたくもない、と打ち明けるんですよ。
  そして親鸞は、わしもそうなんや、という。
  80代でそんな言葉はふつう出てこないですよ。
  それから唯円、よくぞ聞いてくれた、と思いますね」
 この第九条は、これがないと親鸞の人柄はよくわからなかった、
 と言われるものなのだそうです
  「よくぞ聞いてくれた、そしてよくぞ書き留めてくれた、と思いますね」
 磯野アナは
 「でも「ワシもや」といった親鸞もすごいですよね…」

 たしかに、この立場にして「ぶっちゃけ、いくら念仏してもなんも変わらなくね?」
 と言った二人はスゴいですね(笑)

 釈氏は
 「親鸞は、自分もいくら救われると言われても喜べない、という気持ちを吐露する
  でも喜べないような人を救うために仏はこの世にいるんだから、
  いつかは救われるんだ、と親鸞は言うんですね」
 伊集院さん
 「俺らできないけど、できないやつを救うために仏さまはいるんだから、
  俺ら救われるぞ良かったな、って言ってるんですね、
  でも救われると思っちゃったら救われない、から仏さまは救ってくれる…」

 釈氏は
 「親鸞は、悟ってしまったら、煩悩はないのか俺は?と自分に聞くんです。
  原文を読むと、しびれるような語感のある箇所がいくつもあるんですよ…
  「苦悩の旧里は捨てがたく、いまだ産まれざる案養生度は恋しからず候」」
   いかに迷いの世界にいるとしても離れたくない、
   ちょっとの病で死ぬのが心配になる、
   浄土はちっとも恋しくない、
   でも「いたしかたなく」浄土に行かねばならない、と親鸞は言うんです」
 
 また、
 「仏教は今まで、私が修行して仏の所に自分で行く、というものだったが、
  親鸞は、仏が私のところに救いに来る、という形にしたんです。
  そして、仏は私を救いに来るが、私はそこから逃げようとしている、と。
  これ、どこにも着地させてくれない、光と影の緊張感がありますでしょう?」
 
 「キルケゴール、という哲学者がいるんですけど、
  彼も「私は穴の開いた船に乗っている、
     降りることもできず、いつまでも水をかき出しつづけなけらばならない」
  と言っていて、親鸞の世界と通じるものがあると思います」

 伊集院さん
 「なるほど、私は救われないかもしれない、と思うから救われる、
  でも救われると思っちゃうと救われない…」
 釈氏
 「なかなか着地させてもらえないんですね」
 磯野アナ
 「唯円はこれが誤解されるのを危惧して歎異抄を書いたんですよね」
 釈氏
 「何をしても救われる、というのも違うし、
  救いの喜びがある、というのもまた違う…」

 ここのくだりは堂々巡りで分かりにくいんですが、
  念仏さえすれば何をしても救われる、というわけではなく
  念仏唱えたって煩悩まみれ、悩みだらけなのが我々の人生、
  でも煩悩だらけでどうしよう、悟れないかも、と悩んでいる人にこそ、
  仏は救いに来てくださる、
  でも救われるからと安心して悩みもしなかったら、やっぱり救われない…
  煩悩に煩わされ続けること、救われないかもと悩むことこそが救われる道、
  ということなんでしょうかね。
 
〇社会の中の「悪人」
 親鸞が歎異抄で悪人こそ救われる、と書いた真意は、実はほかにもあるそうです
 それは、社会通念として「悪人」とされてきた人たちを救うこと

 彼の肖像画にその気持ちが表れているそうです
 彼の肖像画には、猫の川の草履、シカの骨の杖、タヌキの川の敷物など
 獣たちから作られた小道具があえて描かれている

 当時は
 猟師さん(命を奪う仕事)や、 商人(お金を扱う人)は
 さげすまれ、「悪人」とされてきたそうです
 鎌倉時代の百科事典「塵袋」という本には
 「悪人」という欄に、こういう職業、
 社会的に抑圧された身分の人たちを指す言葉として書かれている

 しかし親鸞は、
 「彼らもいし、かわらのごとくの私たちと同じ」で
 「仏さまが黄金に変えてくださる」
 と言っていたそうです

 当時は仏教の価値観が世の中にあって、
 殺生やお金を扱うことはタブーとされてきた
 伊集院さん
 「それは、生活のために必要でも、ということですか?」
 釈氏
 「そうですね、幾ら生活に必要でも、彼らはさげすまれていた
  そういう宗教の価値観に縛られていた人たちに対して
  親鸞は道を開いたんですね」
 磯野アナ
 「パイオニアですね」
 伊集院さん
 「絵の中に動物から作られた道具を描いたのも、
  お前ら使うだろ、必要なんだろ、それを私は否定しないよ、って言ってるんですね」

 釈氏
 「親鸞にとっては、これがきれい、汚いというのはない、
  私はこんな仕事をしているから救われない、という人に対して、
  そんなことないよ、あなたこそ救われる、といったんですね。
  「いしかわら、礫のごとくわれらなり、そこにこそ仏の救いがある」と」

 釈氏は
 これは社会の通念と真逆の発想で、
 これこそが宗教の役割ではないか、とも言っています。
 宗教は社会と逆の価値観を提示してこそ存在意義がある、
 みんなからダメだと言われている人を、あえて救うことに宗教の存在価値がある、
 とのことです。

 伊集院さんは
 「今の言葉で言うと、
  例えばお金がないとダメだとか、負け組だとか言われますけど
  そういう人こそ救われるんだよと言っているんですね」
 でもだからこそ、敵視されたり誤解されたりするのかな…
 
 という感じで終わっていました。

「第3回 迷いと救いの間で」
 3回目は、「歎異抄」後半のことで
 唯円が親鸞の教えを間違って解釈されている例を取り上げ、
 それを一つ一つ論破していく箇所の話でした。
 釈氏によると、この後半がこの本の本題なのだそうです

〇第十一条~第十八条の構成
 後半は、第十一条から第十八条からなり
 それぞれ漢字4文字の題がついていますが、
 これは唯円ではなく、後世の人が理解しやすくするために後からつけたものだそう

 それぞれ、「間違った解釈」を取り上げ、一つ一つ違う、と言っています。
 …色々見ていくと、なかなかややこしい。

 ざっと見ていくと
 第十一条「誓名別信」
 「あなたは阿弥陀さまの本願を信じているのか、
  それとも念仏の不思議な力を信じているのか?」これは×。

  阿弥陀さまの本願の力と、念仏の力は分けて考えてはいけないらしい。

  (これは分かりにくかったしあんまり解説もなかったのですが
   私の勝手な想像でいうと
   念仏だけ唱えて、
   阿弥陀さまのことをあんまり理解していない民衆、を批判する僧侶を戒めたもの?

   しかし親鸞に言わせれば、
   念仏を信じる=阿弥陀さまの本願に頼ること、だから、
   念仏を信じるだけの人でもそれでOK、
   そういう人は阿弥陀さまの本願も分かってる、ということかな??)

 第十二条「学解往生」
 「教典を学ばねば往生できない」
  これも×。
  難しい経典など学べない人でも阿弥陀さまは救ってくれる、とのこと

 第十三条「専修賢善」
 「何をしても阿弥陀様が救ってくれるなら、悪いことしたっていいじゃん」
 「…なんていう人間は成仏できない」
  これも×。
  阿弥陀さまの本願に甘えて悪を犯した人も、阿弥陀様は救ってくれるのだそう

 第十四条「念仏滅罪」
 「念仏を唱えれば罪はチャラになるんだって、レッツ念仏!」
  これも×。
  念仏を唱えて罪を消す、というのは自力の考え方になる

 第十五条「即身成仏」
 「私はもう悟りました」
  これも×。
  煩悩を抱えて生きる人間が、この世で悟れることはあり得ない

 第十六条「回心滅罪」
 「悪いことをしても、心を改めたら救われるんだ」
  これも×。
  心を改めれば救われる、というのは自力の考えにつながる

 第十七条「辺地堕獄」
 「自力で成仏する、なんてやつは地獄に行くぞ」
  これも×。
  自力の人も、仏は救ってくださる

 第十八条「施量別報」
 「お布施の額次第で浄土のランクが変わります」
  これも×。
  お布施の量で功徳の優劣は変わらない。

 釈氏によると
 唯円がこの本で「その解釈違います」と言っている内容は、
 大きく分けると
 ・専修賢善
 ・造悪無碍
 の二つになるそうです。

 「専修賢善」とは、
 「良いことをしないと往生できないよ」
 という考え方
 十三、十四、十六、十八条がこれに当たる

 「造悪無碍」とは、
 「悪をしてもOK」
 という考え方
 (十一、十二、十五、十七条)

 いずれも極端で、
 どちらにも偏ってはいけない、と教えている。
 これらをバランスよく配置、批判しているところに
 唯円の優れた構成力がある、と釈氏は話していました

〇第十三条 専修賢善
 磯野アナ
 「伊集院さん、このうち気になるものは?」
 伊集院さん
 「うーんと、何やってもいいんだぜ、ていう人に「×!」ていう人がいいのかと思ったら
  それが「×!」だった、ってやつ何だっけ?」
 釈氏
 「十三条の「専修賢善」ですね、
  これは一番行ったり来たりさせられます」

  阿弥陀さまの本願に頼り、悪をしてもいいんだ、むしろ悪をしちゃえという人を
  「本願ぼこり」というそうですが
  本願ぼこりは成仏できない、
  と批判する人も親鸞は批判しているんだ
  と唯円は書いています。
 
 親鸞がそう教えている、という根拠に
 唯円は親鸞との対話を書いています

 親鸞「唯円、私のことを信じるか」
 唯円が「親鸞さまの言うことは謹んでお受けいたします」 というと
 親鸞
 「それでは、人を1000人殺してくれ、
  そうすればあなたの往生は確かなものになるだろう」
 そこで唯円は
 「私のような器では一人として人を殺せません」
 と答える

 親鸞は
 「それでは、どうしてこの親鸞の言うことに背かない、と言ったのか?」

 そして、
 「何でもできるなら誰でも1000人殺せるが、
  世の中は思い通りにならない、だからみんな1000人殺さないのだ、
  それは、その人の心が清いからではない。
  また、1000人殺すつもりは無かったのに殺してしまう人もいる。

  そのように、人間とは状況次第で何をするか分からないもの、
  そんな私たちを悲しんで、憐れんで阿弥陀仏は本願を立てたのだ、
  良いことをしないと浄土に往生できないというのは、
  阿弥陀さまの本願を疑っているということだ」

 ということを言われたそうです

 我々が何をしでかすかは過去の縁次第、
 そんな全ての人を救おうと阿弥陀さまは立ち上がれた、
 悪をしたら救われない、というのは阿弥陀さまの本願を疑っていることだ、と。

 「じゃあわざと悪ばっかりしてるあいつはどうなのよ?」
 という人に、唯円は
 「親鸞も、「薬があるからといってわざと毒を飲む必要はない」
  とは言っている」
  もちろん悪はよくない、という。
 
 しかし
 「だからと言って、悪は往生の妨げにはならないのです。
  それにあなたも、阿弥陀さまの本願に甘えているではないか、
  どんな悪を本願ぼこりといい、何をそうでないというのか?
  線引きするのは大人げない」
 とたしなめていました

 釈氏によれば
 「何をしてもいいんだという本願ぼこりは往生できない、というのは×。
  なら本願ぼこりはいいか、悪をしてもいいかと言ったらそれも×。
  じゃあ悪を犯してはいけないのかといえば、
  「悪をすることも往生の妨げにはならない」
  と言ってるんですね」
 …堂々巡りですね。

 伊集院さんは
 「前回、この時代では、
  今からしたら悪ではない狩りなどの仕事も悪とされていた。
  でもその人たちも救う、と親鸞は言ったけど、
  それだけじゃなくて、人殺しとか、明らかな悪も救ってしまうんですね…」

 磯野アナは
 「それにしても1000人殺してくれ、にはビックリしました」
 伊集院さん
 「仏教は殺生ダメ、て言ってるのに、仏教の師匠が1000人殺せ、てのはショッキングですね」
 釈氏は
 「唯円も驚いたんじゃないかと…」

 しかし、
 「親鸞が言いたいのは、
  今私が人を殺さないのは、善人だからか?ということですね。

  我々も一歩間違うと誤って人を殺してしまうかもしれない、
  それをしないのは縁がないからに過ぎないと言っている。
  でも縁があれば人を殺すこともしてしまうかもしれない、
  それが人間の本性なんだと。

  だからある意味、我々が善人か悪人かというのは
  自分の都合で考えているのかもしれない」

 伊集院さんは
 「前にNHKのドキュメンタリーで、
  人を殴っている様子を見て脳を測る、というのをやっていたんです。
  すると殴られるのは誰しも嫌だから、嫌悪する脳の部分が反応していたけど
  これを、家族を守るためにこの人に罰を与えている、という情報を入れると
  同じ映像を見ていても快感に変わってしまうんだそうです。
  ものすごいものを見ていると思った」
 悪も状況次第で快感に変わるんですね。

 釈氏によると
  我々は、善悪について知性や理性、社会の倫理、などをもとに判断しがちだが、
  親鸞はその危うさを指摘している、とのことです
  「悪を批判している人は、
   何が善で何が悪か、それを真剣に考えて言っているのか、と」

 伊集院さん
 「でもそうなると、何をどうすりゃいいのとなりますよね…」
 釈氏
 「しんどくなってきますよね、だからこれを知らなければ良かったと思うこともあります」

 まあでも戦争の時代になれば
 良かれと思って人をじゃんじゃん殺す人も出てくるわけで
 自分も生まれた時代が違ってたらそうなっていたかもしれないわけで…

 それに人を殺すまでしなくても、
 知らず知らずに良かれと思って誰かを傷つけている、というのは誰しもあるはず。
 だから善悪ってのは線引きできないし、
 誰でも善人、悪人になりうる。

 仏さまはそれをまとめて救ってくださるとおっしゃっている。
 我々ができるのは、
 自分の善も悪も、つくろわずにそれが自分だと認めること、
 そしてあとは仏さまに謙虚にお任せすることだ、ということなのかな…
 
〇第十四条「念仏滅罪」
 十四条では
 「念仏すれば罪が消せる」
 という問題を扱っている
 この考えはなぜ誤っているのか?

 唯円の解説によると
 たしかに念仏を唱えれば罪が消える、と書いてある仏教の書はあるが
 これは仏教が禁じている罪が、どれだけ重いのかを示しているのだ、
 とのことです

 そして、
 「念仏を唱えれば罪が消える、と信じるのは
  それこそ、「自力」で罪を消し去って往生しようとする心に他ならない。

  一生の間、我々が心に思う煩悩は、
  自分をこの迷いだらけの世界に繋ぎ止めるためのもの。
  それに向き合い、命が尽きるまで念仏を唱え続けることで、
  初めて浄土に往生できる

  しかし人生は思いがけない出来事があったり、
  病気などで心安らかに死ねない人もいる、
  そういう人は念仏を唱えられないまま死ぬかもしれないが、
  そういう人は、念仏で罪は消せないから往生できないのか?
  いやそんなことはない。

  すべてを決して捨てない、
  という阿弥陀さまの本願を信じてお任せすれば
  たとえ念仏できないまま命が尽きるとしても、
  速やかに往生できる」

 釈氏の解説によると
 「罪を消すための念仏は、
  自分の都合の念仏だ、と言ってるんですね」
 「本物の念仏は、他力に基づいた念仏。
  そして、私たちは罪や煩悩を抱えたまま、浄土にいくんだと」
 伊集院さん
 「念仏で罪が消えたというよりは、罪を抱えていくということですか…」
 釈氏は
 「念仏は、自分の罪がありありと見えてくるものだと言っているんですね」

 念仏を唱えたって罪は消えることはなく、
 むしろ罪を実感させられる。
 でもそれを消そうともせず素直に抱えている人をこそ、
 仏様が浄土に連れて行ってくださる、と言うことですね。

〇信心を持てば念仏すら要らない、といった唯円オリジナルの解釈
 磯野アナ
 「唯円は念仏すら唱えなくていい、みたいなこともいってますけど…」
 釈氏は
 「実はこれ、親鸞は言っていないんです。
  親鸞は
  「本物の信心には必ず念仏が備わっている、
   信心と念仏は裏表になっている」と言っている

  でも唯円は信心1つで救われると言っているんです。
  この、信心に特化した考え方は唯円オリジナルで、
  もしかしたらそう言わざるを得ない至る事情があったのかもしれない」

 伊集院さん
 「おそらく勝手に想像するに、
  唯円が現場を見ていくうちにそうなったのかも。
  例えば、言葉を発することもできない病で、でもものすごい信心がある、
  そういう人が亡くなる現場を見たりして、
  そういう人も見送りたい、ということを考えた唯円の優しさがあるのかもしれないですね」

 釈氏
 「この「信心重視」と
  「罪を無くさずとも救われる」
  この二つを強調しているは唯円の特徴ですね」
 伊集院さん
 「面白いですね。
  名著としてみると、
  「親鸞の言葉」を「唯円が書いた」というのに、違う所があるのが面白い」

 親鸞の言う「他力」をさらに拡大解釈して、
 阿弥陀仏さまの心の広さを強調したのが、唯円かもしれないですね。

〇親鸞の念仏に対する考え方
 では、親鸞は念仏についてどう言っていたのか?についても言及されていました
 親鸞は
 「念仏は、無義をもって義とする、
  不可称不可説不可思議のゆえに」 
  と書いているそうです。

  最初の無義の「義」は自分の思慮分別、計らい、計算など
  次の「義」は本来の意味、原則という意味で、
  要するに
  「念仏には、自己の計らいや思慮分別を入れないのが本来の姿、
   なぜなら念仏というものは、唱えたり、説明したり、考えたりすることができないから」
  知性で把握できるものではないから、
  自分の計らいを捨てていかないと本来の念仏にならない
  ということらしい。

 磯野アナ
 「計らいとは計算ですかね?」
 釈氏
 「そうですね、計算して念仏して罪を無くそう、というような念仏は計らいの念仏。
  そういうものを超えて阿弥陀仏に任せるんだということですね」

 磯野アナ
 「任せるっていうと、何もしなくていいのかな、と思っちゃってやっぱり誤解されやすいですね」
 釈氏は
 「そうなんですよね、でも任せるというのが我々現代人には難しい。
  近代知性、理性に囚われている我々には、
  「南無阿弥陀仏…」に抵抗があるようなところがありますでしょう?」
  我々は知性で生活している、逆に理性に頼らないと生活が成り立たない。
 伊集院さん
 「宗教的なことじゃなくても、お任せ、お手上げとはなかなか言えないですね」

 釈氏は
 「我々は常に計らって暮らしている、人生は計らいだらけです。
  敵か味方か、役に立つか立たないか…
  どこかで「おかえり」ってっきゅっと抱いてもらえる場所がないと
  あまりに我々の人生は過酷じゃないですか。

  でも例えば子供でも、子供の世界って過酷ですけど、
  家に帰ってきゅっと「おかえり」って抱いてもらえたら安心できる、というところがあるでしょう?

  それと同じなんですね。
  阿弥陀仏さまにどこかで抱き締めてもらえる、そう思えるからこそ、
  凡人、愚者である我々が苦難の人生を歩める、というところがある…」

 天命を尽くして人事を待つ、じゃないですけど、
 煩悩は煩悩として悩み、
 あとは流れに任せなさいということなんでしょうか。

 さてここまでで、
 磯野アナ
 「伊集院さん、今まででどうですか?」
 伊集院さん
 「うーん、まだ宙づりのままなんですけど、
  最初は理屈で読んでみて、
  あれはダメ、と言われ、かといってこれもダメ…って宙づりにされていたんですけど。
  でもだんだん読んでいくうちに、
  宙づりっていうとひもにがんじがらめに縛られて、というイメージだったけど、
  ちょっとふわっと浮かせてもらえるような、気持ちいい方向になってきました。
  まだ不安ですけどね」

 それから
 「これから何かの縁で何かしてしまって、
  謝罪会見を開くことになって「今のお気持ちは?」と聞かれたら
  「南無阿弥陀仏」っていいたい」(笑)
 その心は、
 「だって理屈をこねようとして、人って炎上していくでしょ?
  行動は理屈がないといけないって言われがちで、
  だから理屈をこねていくんだけど、
  それがまた批判を浴びるわけでしょう、
  だから阿弥陀仏に委ねて南無阿弥陀仏もありかな、と…」
 磯野アナは
 「いやでもその前に何もない方が…」(笑)と言っていましたが
 伊集院さんは
 「でも縁ですからね、良かれと思って何かあるかもしれません」
 とまじめな顔で答えて終わっていました。
 なるほど、悪を犯すのも縁ですからね。伊集院さん、飲み込み早いな~

〇感想など
 歎異抄は解釈が難しい、なかなか着地させてもらえない、
 ということが強調されていましたけれど
 個人的には、仏様の懐の大きさというか、
 何か大きなものに抱かれているような安らぎを感じました。

 私はもう少し若いころ、
 仕事も何もかも面白くなくて、自分は何がしたいんだろう
 何をするのが自分の天職なのか、みたいなことを考えて
 自己啓発系の本を読んだり、そういうセミナーに行くこともありました
 
 でもそういう自己啓発って、
 やり方が願望達成型というのか、
 何か目標を立ててそこに向かって頑張るぞみたいなものが多くて、
 行ったときはパワーをもらえるような気がするんですけど
 なんかしんどくなってくるんですよね。

 そこで読んだ本だったかなんだか忘れましたが
 「目標達成型のものは、自分ではない何者かになろうとしている、
  いうなれば今の自分を否定している。
  それよりも今の自分で十分、と認めることの方が大事」
 という考え方を知ってなるほど、と思いました。

 それは、
 「こんな悪いとこあるからしょうがないじゃん」って開き直る、というのとは違う。
 「私はこんな悪いとこがあるから直さなきゃいけない」って頑張るのも違う。
 「今の私は悪いとこもいいとこもある、それはそれで認めよう。
  じゃあ、今の私は何をしたいんだろう、何ができるんだろう」
 と考えてやれることをやって、
 あとの結果は天にお任せ、という生き方をしていくことなのかなと。

 そんな風に生きていたら
 欠点もそのうち気にならなくなるかもしれないし、
 もしくは欠点が実は、誰かの役に立つのかもしれない。。
 あるいはどちらでもないのかもしれないけど、
 それすらも天にお任せしてしまえばいいのかな、と。

 歎異抄で
 「なかなか落ちつかせてもらえない」
 「悪をしていいの、悪いの、どっちなの?」
 というのもそれと似ているのかな…と思いました。
 「私の悪いところを直せばいいの、直さなくていいの、どっちなの?」と。
 
 仏教で修行とか念仏唱えて頑張って悟るぞー、ってのは
 自分でない何者かに「なろうとしている」状態なのかなと思います。
 この世にいる限り悟れない自分が、
 悟っている自分に「なろうとする」のはどこか無理がある。

 だから、悟れない自分、煩悩まみれの自分を認めてしまって、
 じゃあそこで何をしたらいいんだろう、と考えて、
 みんなと一緒に苦しんで、その時ベストの選択だと思うことをする、
 いうなれば「自分なりに生きる」
 そしてあとは「仏さまにお任せする」という生き方をすること…
 そんな私たちの姿を、仏さまは陰ながら見守ってくださっている、
 ということなのかな、と…

 お任せする、というと、なんか責任放棄にも感じるんですけど、
 「結果にとらわれない」
 ということなのかなと思います。
 いい人になろう、とかこうなろう、とこだわらないこと、
 それが仏教の言う「中庸の道」にもつながるのかな、と。
 
 キリスト教などは「裁きの宗教」ですよね。
 善悪があって、強い神がいて、それを裁く…
 なんかこういう裁き系の宗教だと苦しいな、と思ってしまいます。
 もちろん貧しい人、苦しい人こそ救われる、んでしょうけど
 なんか極端だな~というか…

 歎異抄で書かれているものを見ると
 もっと普段の生活の中で、
 善も悪もしていいんだよ、と言われているような優しさを感じます。
 悩んでもいい、怒っても泣いても苦しんでもいい、
 でも行き過ぎないようにしなさい、
 中庸にまた戻って来たらいいんだよ、と…
 そうやって、悩んだり苦しんだり悪を犯したりする私たちに対して、
 陰ながら、一緒に泣きながら見てくれている神さまがいるのかな、と思います。
 (キリスト教の神だと、悪をしている人は見捨てられそうなイメージがあります)

 さて来週はどんな内容なのかな…
 また勉強させていただきます。
 
 というわけで今回はこの辺で。
 
 
 
 
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2017年10月16日

Eテレモーガンフリーマン時空を超えて「宇宙人も神を信じるのか?」

Eテレモーガンフリーマン時空を超えて「宇宙人も神を信じるのか?」

前回のゾンビはスルーしてしまいました汗
今回は、宇宙人がいるなら宗教や信仰心も持つのか?
というテーマに沿っていましたが
本質的には、
 宗教は必要なのか、
 宗教は何のためにあるのか、
 宗教はいつかは必要なくなるものなのか、
 宗教と科学の関係は、
という問いになっていて興味深かったです。

○我々は本能的に、神のような存在を信じたがる?
 最初はボストン大学の児童心理学者デボラ・ケレメンさん。
 ショートカットでキリッとして綺麗な方ですねぇ。
 彼女は子供の「なぜ?」について研究しているそうです

 3、4歳くらいになると子供は質問攻めになる
 彼女は、
 「多くの子供には説明を求める衝動が存在する
  私は子供が自然に考える答え、好む答えに興味がある」
 と述べていました

 彼女は色んな年齢の子供たちに
 「尖った岩が出来ているのはなぜだと思う?
  1長い年月を経て、石のかけらが積み重なった
  2痒いと感じる動物が体を掻けるように」

 「池が静かなのはなぜ?
  1動物が流されずに体を冷やすため
  2水が池に流れ込まないから」
 などの質問をした

 するとどの年代の子も、
 先の質問は2、2番目の質問には1、と答えるそうです
 子供は、自然現象には目的があってそうなっている、
 という考え方を好む

 自然は意思のあるもののために存在する、
 という考え方は宗教に通じる考え方だそうです
 多くの宗教では、神聖なる存在が万物を作った、と考える

 大人になると、岩がとがっているのは地質学的な理由だ、とか科学的な答えが分かる
 しかし彼女は、
 大人でも、本能的には目的論的な考え方を好むのでは、と考えたそうです

 そこで、大人に対し、
 自然現象を目的論に基づいた説明する文章を読ませて、
 正しいと思うか素早く押してもらう実験をした
 すると正しいと考える人が多かったそうです

 彼女によれば、直感的に判断せねばならない場面では、我々は目的論を好む
 物事には目的がある、という考え方を元に推察することに慣れているのだそう

 そして、宇宙人も我々と同じような進化をし、同じような文化を持っているとすれば、
 目的論的な考え方、宗教的な考え方をする可能性はある、
 と話していました

○ゾウやイルカにも信仰心がある?
 次の舞台はタイ北部。
 この比較心理学者は、
 シンク・エレファント・インターナショナル
 という施設でゾウの心理学を研究しているそうです
 ゾウの心理学専門の施設があるんですねぇ…
 (Think Elephants International
 ホームページはthinkelephants.org/
 ゾウの知能の研究とともに、
 ゾウ保護のための子供たちへの教育活動なども行っているそうです)

 ゾウは動物のなかでもトップクラスの知能を持っているので、
 行動と知能の進化を見るにはいいのだそう

 彼がしたのは、ゾウに鏡を見せる実験
 鏡を見るのは人間にとっては当たり前だが、
 自己認識、という複雑な能力が必要なのだそう

 彼はオスの20歳のゾウ、ソムジャイに初めて鏡を見せた
 すると不思議そうに後ろを見たりした
 普通の動物は鏡を見ると、無視するか他の生き物と思って見つめたりするそうです
 しかしソムジャイは、映っているのが自分だと気づいたようで、
 口を開けたり足を上げたり、
 自分では普段見られない場所を見ていたそうです
 「これはゾウにも自己認識があることを示しているのではないか」 とのことです

 彼は、ゾウに自己認識があるということは
 ゾウにも心の理論があるはず、と考えているそうです
 心の理論とは、他者の気持ちを推し量ったり理解して行動できること

 そこでこの科学者は
 ゾウは他のゾウと協力できるかを実験したそうです

 部屋のなかにはゾウの好物が入っているケージがあり、
 その前に台が置いてある
 台の回りにはロープがぐるりとまかれ、両端が出ている

 片方だけ引っ張るとロープが抜けてしまうが
 両端を同時に引っ張ると台が動き、ケージが開くようになっている

 ゾウはパートナーと協力して ケージを開くことができたそうです
 「このことから、ゾウは、他のゾウの考えていることを理解している、
  つまり心の理論をもつと考えられる」

 心の理論は他人の存在を意識することなので、
 神のような存在を信じる信仰心にもつながるらしい

 実際、この科学者によれば
 「野生のゾウは家族が死ぬと、その場所に戻り、思いに耽っているような様子を見せている
  ゾウは社会的な動物なので、家族が亡くなったことを理解しているのだと思う」
 とのことです

 他の動物でも、例えばバンドウイルカは
 死んだ子供を背中に乗せて何日か泳ぐこともあるそうです

 動物でも死を悼む気持ちがあるのかもしれない
 宇宙人も、死を悼む気持ちがあるなら宗教心もあるかもしれない、とのことです
 (動物が死を悼むような行動を見せる、という報告はほかにもなされているようです
  http://karapaia.com/archives/52207459.html
  ゴリラ、ゾウ、チンパンジーのほか
  アシカ、イルカ、ヒヒ、オオカミ、ラマ、
  ほかカササギ、ハイイロガンなど鳥などにもそういう行動がみられるんだとか…
  昔、この番組でタコも知性があるとか言ってましたけど
  タコはどうなんでしょう?)

○人は社会を成り立たせるために宗教を必要としている
 次の科学者はカナダのクイーンズ大学の心理学者。

 彼は、宗教は進化の過程を妨げることもあるのに、
 なぜ必要とされるのか疑問だったそうです
 例えば宗教の儀式の間は狩りや採集ができない
 これは何か必然的な理由があるのでは、と考えたそうです

 彼は人に自制心を持たせるためではないか、と考えた
 そう考えたきっかけは、彼が誘惑に負けたことだそうです

 彼はチーズバーガーを食べたかったが、我慢してサラダを食べた
 (ダイエットのためか理由は不明、
 でもこの方そんな太ってない、ていうかたくましそうな体ですけどね…)

 しかし誘惑に負け、アイスクリームを食べてしまった
 その時彼は、宗教の役割は自制心を持たせることではないか、と考えた
 自制心がないと、浪費や奪い合いにより文明は滅びてしまう

 彼はこれを確かめるため実験を行った
 被験者に単語を5つ提示し
 1つを外して4つで意味のある文を作らせる

 この際、2つのグループに分け、
 片方のグループは一般的な単語、
 もう片方のグループは神とか宗教的なイメージを起こさせるような単語を混ぜた

 このあと、不味い飲み物をのんでもらう
 オレンジジュースとお酢を混ぜたものだそうで
 吐きそうなほど不味いんだそうな。

 これを飲ませた時の違いを見ると、
 宗教的な単語を混ぜた方が不味い飲み物を2倍飲んだそうです

 これは宗教的な言葉が自制心を起こさせたからではないか、とのこと

 自制心がないと他人に攻撃的、反社会的な行動を取るようになってしまう
 宗教は社会を作るために必要なのではないか、と彼は述べていました

 (個人の信仰心や道徳心に訴えかけると不正は減る、
 という結果は他にも聞いたことがあります

  経済学者のダン・アリエリーさんの実験なんですけど
  (NHKBS世界のドキュメンタリー「(不)正直な私たち~“ウソ”を巡る“本当”の話」
  で紹介されていました)

  この実験は
  被験者に簡単なテストを受けさせて、
  採点は自分にさせ、点数も自己申告する。
  点数に応じてコインを持っていってもらう
  答案はシュレッダーにかけるので、点数をごまかしてもバレない、
  というもの

  ただしこれはダミーの実験で、
  実際は答案はシュレッダーされてなくて、
  後から答案を回収して誰が不正したかを調べる、というのが真の実験です。

  この場合普通は不正を働く人が多いそうですが
  このテストの前にモーゼの十戒とか、
  信仰心を思い起こさせるものを書かせると不正は減るのだそうです

  この実験では、
  倫理規定に従います、という誓約書を書かせても同様に不正が減るという結果でした。

  ですので自制心を持たせるのは宗教じゃなくてもいいのかも、
  とも思います。
  良心を起こさせるもの、
  例えば他人への同情とか、
  しない方が合理的と判断する知性、
  などでもいいのかもしれません)

○数学的には宗教はいずれ無くなる?
 次の方はノースウェスタン大学の応用数学者、ダニエル・エイブラムスさんでした

 彼は最初、メトロノームをたくさん、
 キャスターつきの台の上に乗せて動かした

 メトロノームの振り方は最初はバラバラ、
 しかししばらくそのまま放置すると、
 全てのメトロノームが同じリズムになる、つまり同期する

 これはなぜか?
 しばらくしていくつかのメトロノームが同じ動きになっていくと、
 その動きは、キャスターを通じて他のメトロノームに伝わる
 そうなると他のメトロノームの動きもそれに従うようになる

 こうして同期するものが大多数になると、
 少数派もその同期に加わらざるを得ない瞬間が訪れるそうで、
 それを転換点といい、そこからは後戻りできず、雪崩を打って全部同期するのだそう

 (メトロノームの同期については、少し前に又吉さんの番組「ヘウレーカ!」で紹介されていました
  数学的には、同期モデルを式で説明した蔵本予想、という式があって
  (京大の蔵本さんという方が昔予想した式)
  それを九州大の若き研究者、千葉さんが解いたそうです

  やり方などはhttp://www2.math.kyushu-u.ac.jp/~chiba/paper/sugaku2016.pdf
  などに書いてありますが、さっぱりわかりません(笑)

  平たく言うと、
  それぞれのメトロノームが下の台車で連結している場合は、
  お互い少しずつ影響しあい、引力が働く
  その力がどんどん大きくなって動きを合わせていく、みたいなんですが
  数式にするとかなりめんどくさいですね(笑))

 さてエイブラムスさんによると、人間社会にも転換点があるそうです
 例えば言語。

 彼はホットドッグ屋さんで、
 謎の言語で注文していました
 これは滅びかけている古代インか帝国のケチュア語だそう
 しかしホットドッグ屋さんは誰も理解できない

 インカ帝国はスペインに征服されたが、
 スペイン語が多数になると、転換点が訪れると考えられる
 彼によると、
 みんな多数派になりたがるのはそれが楽だから、だそうです

 彼の予測によれば、
 ケチュア語は既に転換点を越えており、今世紀末には滅びるだろう、とのこと
 (ケチュア語がほろんだのは、文字を持たない、というのも大きかったのかもしれません。
  しかしこのケチュア語について詳しく書いてくださっている方もいました
  http://quechua-japanese.blogspot.jp/2011/08/blog-post.html
  (「ケチュア語講座」←発音などもアルファベットに対応して表記してくれています。
    最近更新されていませんが))

 エイブラムスさんは、
 宗教にも同じようなことが起きるのか興味を抱き、
 色んな国の国勢調査を分析したそうです

 すると世界85か国を調べた結果、
 どの地域でも無宗教の人が急速に増大しているそうです

 9か国
 (オーストラリア、カナダ、フィンランド、アイルランド、スイス、チェコ、オーストリア、オランダ、ニュージーランド)
 を数学的に分析しただけでも
 どの国も2050年には世界で無宗教が大多数になり
 宗教はなくなっていく、という推測結果になったらしい

 彼はこの理由として
 人々が宗教から得られる利益が減ったからではないか、と述べていました
 かつては教会などに属していないと生活しにくかったが
 今は所属しなくても生活できる

 彼によれば、
 「物理の法則は宇宙のどこでも成り立つはず」
 従って
 「宇宙人がいたとしても
  とっくの昔に転換点を迎えて宗教はなくなっているのかもしれない」
 とのことです

○人工知能も宗教心を持つ?
 次に出てきたのは香港に住む人工知能の研究者
 彼は瞑想が好きだそうですが
 (ベン・ゲーツェルさんという方で、ちりちりの長髪でがっちりしているので、
 瞑想姿は何となくサイババを思い起こさせる…(笑))

 テクノロジーは精神性を無くすのではなく
 むしろ増大させるのでは、と考えているそうです

 今のテクノロジーは新たな連帯感を産み出している、
 人々は多くの人と繋がり、精神的に豊かになっている。
 テクノロジーは精神性には重要、と話していました

 彼は人間と同じやり方で、
 人工知能が周りを理解していくプログラムを考えたそうです

 具体的には、 
 バッテリーを手に入れるために階段を作るロボットキャラクターと、
 そのキャラクターを見て、階段の作り方を学ぶ少女キャラクターを作った
 主人公たちは世界を巡りつつ新しいものを作っていく

 これらのキャラクターは
 世界を巡りながら自分や世界について学んでいくそうです

 このようなやり方なら
 人工知能も我々と同じようなやり方で意思や精神性を獲得するかもしれない、とのこと

 さらに、人工知能は情報をメール交換のようなやり方で共有できるので、
 彼らのやり方で精神的な体験を他の人工知能と共有しあえるかもしれない、
 それは独自の宗教を産み出すかもしれない、
 とのことです

 彼は更にボディを持つロボットを作り、
 現実世界でもこれを人工知能に体験させることを考えているそうです

 彼は、
 テクノロジーは神の概念を弱めるのではなく、
 むしろ強くするのではないか、と話していました

 テクノロジーは人と人との結び付きを弱める、温かみを奪うと心配されているが
 ロボットが精神性を獲得し、
 そういうロボットと交流すれば、
 我々はむしろ豊かになれるのではないか、
 とのことです

 高度な文明を持った宇宙人も、既に人工知能と互いに交流しているのかも、
 宇宙人と人工知能が結びつき、考えられないような高度な文明ができているのかも、
 そうして宇宙の謎を解明しているのかも、
 と話していました

○数学が宗教に代わる?
 次に出てきたのは理論物理学者のマックス・テグマークさん。
 この人よく出てくるんですけど、私はこのおじさん好きです(笑)
 独特なワールドがあるのよね…
 (ただ数学が世界のすべて、という彼の考え方には賛同できないけど)

 彼は科学の力で、全てを解き明かしたいと考えているそうです

 彼はスウェーデン出身で、
 スウェーデンにはトール(僧侶)がハンマーで巨人と戦う神話があるそうですが、
 彼によれば現代の神話は数学に基づく、とのことです
 このため我々はたくさんの数値を計測し、計算して予測し、問題を解決する

 彼のハンマーはマックスウェルの方程式なんだそう
 「あらゆる電気的な事象を説明するだけでなく、
  新たなテクノロジーを与えてくれるんです」
  よほど好きなのか、立派な額縁に入れて飾ってありました。
  やっぱりこの人おもしろい…(笑)

 彼によれば、数式で科学の全てを解明できれば
 宗教は要らなくなるだろう、とのことです

 宇宙はチェスの駒のようなもので
 真っ直ぐしか進めない駒とか
 斜めにしか進めない駒とか
 それぞれの駒にはルールがある

 宇宙のものも数学というルールが全てで、
 これは宇宙の全ての構成要素に当てはまる

 宇宙の構成要素は、電子やクオークなどの素粒子
 この素粒子は、数学的な特性に従うだけであり
 それを完全に説明する方程式を発見したら
 宇宙の全ての謎が消滅する
 そうなると、宗教は必要なくなる、とのことです

 しかし、次の科学者であり哲学者である方は
 人類はそのような数式にたどり着けないのではないか、
 と考えているそうです
○人が知ることができることには限界がある
 次の科学者は、マルセロ・グライザーというダートマス大学の方。
 テグマークさんは何となくギラギラしてますが、この方は穏やかな雰囲気でした
 (私の勝手な印象ですが(笑))

 彼は科学による宇宙の解明をフライ・フィッシング(フライ(偽の魚)を使った川釣り)に例えています

 フライ・フィッシングはフライを投げないと何があるか分からないが、
 投げれば分かる
 科学も同じで、観測機器などを使うことで見えない世界が見えてくる、と彼は言います

 しかし、科学でいつか宇宙の全てを解き明かせる、という人もいるが、
 彼は科学では永遠に解き明かせない、と考えているそうです

 その根拠となるのはクルト・ゲーデルという数学者の定理
 ゲーデルさんは最高の数学者の一人だそうですが
 彼は1931年に
 「不完全定理」
 というものを発表しているそうです

 「これは簡単に言うと、
  自己完結的な論理の形式体系では、
  可能な主張は体系内では説明できない」

 …全然簡単じゃないんですけど(笑)、
 金魚鉢の中の金魚は、
 金魚鉢の中にいる限り、
 金魚鉢の中のことを全て説明できない
 という感じの意味みたいです

 彼はゲーデルの思考実験を紹介していました
 真理マシーンがいるとする
 この真理マシーンは私が真実を言えばそれをおうむ返しに言い、
 真実でないことを言えば黙る

 この真理マシーンは
 「2+2=5」というと、
 これは嘘なので沈黙する

 「「2+2=5」を私は2回言えない」
 というと、これは真実なので繰り返す

 しかし
 「「2+2=5」を私は2回言えない」
 「「2+2=5」を私は2回言えない」
 というと、困惑してしまう
 「「2+2=5」を2回言えない」は真実だから返さねばならないが
 「2回言えない」と言いながら2回言っているからこれは真実ではない

 グライザーさんは
 「このように、真理マシーンが発見できない真理をいくつか知っている」
 と述べていました

 このように、数学、物理学などどんな知識体系も
 定義上全ての法則は不完全なのだそうだ

 マトリョーシカの中に知識の領域があるとして
 その中の紙を知識とすると
 全てを理解するとはできない。
 もっと大きなマトリョーシカの中になら
 説明できる原理があるのかもしれない。 

 これを繰り返してさらに領域を増やすと
 最終的に、宇宙の全てを理解するには
 宇宙の外の領域に出なければならなくなる。
 しかし、我々は宇宙の外に出ることはできず、それは不可能

 つまり我々が知ることができることには限界があるのではないか、
 とのことです

 そして、我々がどうしても知り得ないところに
 神の領域、概念が入り込む余地があるのではないか、とのこと

 他のいかなる星にもそれは当てはまるので
 宇宙人にも、すべてを知ることはできないのではないか、とのことです

モーガンさんは
知識の追求には永遠にゴールがない、とすれば
どんなに高度な宇宙人にも、我々にも永遠に埋められない空白がある、
そこに神が存在する余地があるのかも、
という感じで締めくくっていました

〇感想など
・最初の「人は理由ある説明を好む」
 というのは、どちらかいうと心理学、脳科学的な心の働きではないかと思いました。
 ヒューリスティックスと呼ばれるものの一つ?

 人間って目的があって何かすることが多い、というか、
 何かをするときに目的があった方がやる気が出やすいから目的を探すけど、
 モノとか現象に対しても、擬人的な解釈をしたくなるんでしょうね。
 例えば「雷さんが怒っているから雷が鳴る」
 という解釈をした方が、なんとなく自分と似たものを感じて恐怖が和らぐし、
 「怒ってるならそのうち機嫌が直るだろうから、待とう」みたいに我慢の心も出てくる。

 つまり感情や本能的なものが暴走しないように、
 そういう心の動きが反作用的に生まれたのかなと思います。
 宗教ができたのも、人間が感情などで暴走しないように、
 ということなのかもしれない。

 しかし知性が発達してきて、
 科学や理性が感情をコントロールできるようになったら、
 宗教も要らなくなるのかも…
 とも思います
 ただ緊急時、理性が動きにくい瞬間には信仰心がよりどころとなるのかもしれないが。

・テクノロジーと精神性、人工知能の話は興味深かったですが
 人工知能が精神性を獲得していく過程をもう少し知りたかったです。

 最近やっていたAIの番組(「人間ってナンだ?超AI入門」)で
 人工知能も、モノをつかむなどの行為は
 練習、体験を繰り返して学習していく、
 という話をしていましたが

 意思とか精神性(善悪?)とかいう抽象的なものについては
 体験を通じてどういう風に学習するんだろう?
 と思います
 もちろん人間でも、子供は最初具体的な概念しか分からないけど、
 小学校3、4年くらいから抽象概念を覚えていく、と聞いたことがあるが
 (算数の「10歳の壁」ってやつですね)

 善悪、好き嫌い、意欲などは人それぞれ、
 同じ経験でも善人になる人もいれば、悪の道へ行く人もいる
 その違いがどう生まれていくのか、知りたいです。
 まだそこはブラックボックスなのかな?偶然の産物?

 高度な精神性を持つテクノロジーは、すべて善の道に歩んでいくのか?
 神の世界とかだったらそうなんだろうけど、
 実際は悪用の恐れもある。
 そこを解明しないまま進んでいくのは危うい気がするのですが…

 それとも、そこを善の道に戻すのが信仰心なのだろうか。
 信仰心、宗教心は、
 テクノロジーがどんなに発達したとしても、
 良心の砦として、どこまでも知性に必要とされるのかもしれないですね。

・最後のテグマークさん、グライザーさんの対照的な考え方が印象に残りました。
 数式ですべて説明できるはずだ、
 というテグマークさんの考え方は物理屋、数学屋らしい考え方だなと思います。
 ある意味野心的というか…
 でも個人的にはグライザーさんが言うように
 「我々がすべてを知ることはできない」という考え方に同意してしまいます。

 まあ科学者からしたら「そんなの科学の放棄だ」かもしれないんですけど
 たぶんこの地球上にいるとか、肉体を持っているとか
 そういう時点で我々には制約がかかっている気がするのですよね。
 光より早いものはどうしても見られないし
 量子力学の「同時に存在している複数の粒子」は見ることができない。
 (なぜなら、自分が観察した時点でほかの粒子が消えてしまうので)
 そうなると妄想の世界(宗教?)だけど、妄想の世界は証明できない…

 宗教というか、神や大いなるものを感じる世界、神秘体験の世界、てのはどちらかいうと「主観の世界」
 科学は「客観の世界」だと思うのですが、
 最近の量子力学とか見ていると、
 科学も主観的な視点が加わってきた気がします。
 っていうか、そういう視点を持たないと理解できない科学の領域が出てきたのだろうと思います。

 そうなると、今までのやり方ではどうしても証明できない科学の領域を理解するのに、
 神や大いなるものを感じる感性、みたいなものが必要になるのかもしれない、 
 とも思いました。

・原始的な「神様が救ってくれる」考え方とか、神様によりかかる宗教、
 てのは社会に秩序をもたらすために生まれただけで、
 文明が高度になれば廃れるのかもしれない、と思います

 でも、「自分たちを超えた大いなるものが確かに存在する」とか、
 「目に見えない世界、あの世みたいなものもある」というような感性や
 人類みな兄弟、みんなつながっている、という善なる心、
 などというものは、(宗教という名前なのかは分からないけど)
 文明が高度になればむしろ強まるのかもしれない、とも思います。

いろいろ考えさせられました。
というわけで、今回はこの辺で。

 
 

 
 

Eテレ「人間ってナンだ?超AI入門「第2回 感じる」」

Eテレ「人間ってナンだ?超AI入門「第2回 感じる」」

全12回シリーズでAIを感覚的に理解する番組。

今回は「感じる」というお題だったので、感覚器官の話かと思っていたのですが、
動く、試すなどの能動的な行動も含めた
「身体を通じた経験」
の話でした

人工知能云々より、人間の知性って何なんだろうと考えさせられる内容でした。

出演はチュートリアルの徳井さんと東大のAI研究者松尾豊氏、
ゲストは元陸上選手の為末大さんでした

○なぜ人間は荷物だけを運べるのか
 最初に、テーブルの上に荷物が置いてあり
 松尾氏が
 「荷物を取ってもらえますか」と二人にお願いする

 よく見ると、段ボールの荷物の上にダイナマイトみたいなのが置いてあり、
 徳井さんはそれを取り除いて荷物を運ぶ
 為末さんも同じ

 松尾氏は
 「スゴいですね~」

 「何がですか?」
 「荷物のことしか言っていないでしょう?
  でもお二人はダイナマイトを取り除いて荷物だけを取った、それはなぜですか?」
 と尋ねました

 徳井さんは
 「うーん、我々は普通、爆弾を荷物として認識していないから?」

 松尾氏は
 「ロボットの場合はですね、
  何も言わないと上の爆弾も一緒に運んでしまいます。
  では荷物だけを運ぶようにするにはどうしたらいいですかね?」

 為末さんは
 「荷物以外のものを運んじゃダメ、て命令すればいいんじゃないですか?」

 しかしそうすると、AIは目に入る全てのものについて
 これは荷物かどうかをいちいち判断するのだそうです
 よくよく見たら、机の上にはペンとか他のものも置いてある。AIはこれらもいちいち検討する。
 また、もし荷物が机に貼り付いていたら、どうしたらいいか、
 などの可能性も含めて考えてしまうらしい。
 現実には、そうして全て計算しているうちに爆弾が爆発してしまう

 これは「フレーム問題」と言うもので
 ある哲学者が提唱した問題らしい

 例えば荷物に爆弾が仕掛けられたら、
 人間なら何も言われずなくても爆弾を外すが、ロボットは一緒に運んでしまう
 かといって、爆弾が爆発するかも、
 など想定できる事態を全てインプットしてしまうと
 今度は
 「天井が落ちたらどうしよう」「窓が割れたら…」
 とか起きそうな確率の低いことまで考えてしまう

 つまりAIは、全てのことについて同等の重要性で考えてしまい、
 問題解決に必要なフレームを持てない、という問題があるそうです

 では何が重要かを、我々はどうやって判断するのか?
 為末さんは
 「うちに今2歳の子供がいるんですけど、
  あれは荷物だ、あれは爆弾だとか名前付けして教えている
  それと同じなのかな」

 松尾氏も「そうですね」
 子供は遊んだりものを投げたり触れたりして
 物に対し何をしたらどうなるかを学んでいく

 つまり我々は周囲との相互作用を繰り返し、
 五感を通した経験を通じて物事を学んでいくのだそうです

 なので最近は、感覚が知性の発達には重要ではないか、
 体のない知性はあるのか、
 という話が出ているそうです

○五感を備えたロボット
 今年の7月、名古屋で、ロボットが箱の中から決められたものを出す動作を競う大会が開かれたそうです

 参加した日本のチームのロボットは
 視覚センサーを使って箱の中のものを認識し、
 物の中で掴みやすい場所(平坦かどうかなど)を数値化するのだそうです
 そうしてスコアの高い場所にアームを持っていきつかむ、ということを行っているらしい

 日本チームの方によれば
 今後は触覚センサーも着け、
 物に触れた部分の情報で、状態が分かるようにすることを考えているそうです

 これからは、五感を備えたロボットが生まれるかも、とのことです

○動作を学ぶには経験、試行錯誤が大事
 カリフォルニア大学バークレー校で、
 ロボットに物をつかむ学習をさせる研究をしていました

 この研究の代表者ケン・ゴールドバーグ氏によると
 ロボットがものを掴むとき、
 まずつかむ対象について三次元的なイメージを作る必要がある
 重心はどこか、摩擦はどれくらいかなど色んな力学をまなばねばならない

 さらに、そのあと膨大な面の中から、ペアになれる面の組み合わせを探し、
 その2つの面で挟んだときの微妙なバランスのズレなども調べ、
 兆単位の組み合わせから最適なものを選ばねばならない、
 とのことです

 松尾氏の解説によると、
 人がこういう選択を瞬時にできるのは、
 赤ちゃんの時にものをつかむことをたくさん練習しているからなのだそうだ
 赤ちゃんは何回もつかんで落としてを繰り返し、どこをどうつかめば落とさないかを学習していく

 徳井さん
 「赤ちゃんって、ある年齢になると何でも触りたがるけど、
  それはデータを収集しているんですね」

 人工知能も赤ちゃんと同じで、
 何をしたら何が起きるかを学ばねばならない
 ものをつかむには、色々試して、色々失敗しなければならないのだそうです

 つまり学習にはたくさんの経験、失敗が必要なのですね。

○形容詞的な概念
 他に、経験や五感がもたらすものとして
 「副詞、形容詞」の概念があるそうです

 松尾氏は机の上のものについて
 「このロボットは大きいですか」
 「このペンは大きいですか」
 と二人に尋ねていました

 「このロボットは小さいですね」
 「このペンは太い」
 などと二人が答えると
 「じゃあなんで大きい小さいが分かるんですか?」

 「うーん、ロボットって普通もっと大きいし…」
 「色んなペンを知っていて、
そのなかで見たら太い方だから」

 松尾氏によると
 つまり大きい小さいが判断できるのは、他にも色々な物を見た経験があるからで、
 我々は経験を積んでこれは大きい、小さいを学び、
 知識を蓄積していくのだそうだ
 逆にいうと、人は経験の積み重ねがないと判断ができない

 「例えば、お客さんがよく笑う方かどうかも経験で分かりますよね」
 と徳井さんに聞いていました

 徳井さんによれば、芸人さんの間では「重い客、軽い客」といって、
 なかなか笑わないお客さんには
 「今日のお客さん重いなぁ」
 と感じて、
 「本題に入る前にこっちから寄っていって、お客さんを起こしてから本題に入る」
 のだそうです

 松尾氏は
 「そういう風に、いつもと違うことをするとか、
  行動に対しての相対的な評価が副詞的な概念なんです」

 人工知能、ロボットの場合も、
 自分で歩く、あるいは歩くのを見るなどの経験がないと
 速い遅いの判断もできない
 つまり体の経験が知性の本質ではないか、とのことです

 松尾氏は
 「体がない知性、例えば脳だけの人間、ていうのがいるとして、
  その人間が理解できる世界はどういうものだと思いますか」
 為末さん
 「全部記号みたいになりそうですね」
 歩くとはこうだと言われてるからこうすることなんだと判断する、
 みたいな、情報のコピーだけする、
 理解のない知性みたいなもの…
 「知能としてはお粗末な感じですね」

 体験がないと判断の尺度が自分の中にできない、己の尺度ができない、ということなんですね。

○経験を模倣学習する
 先のケン・ゴールドバーグ氏の話によると
 掴む過程の学習は難しいが、
 他の人の動作を分析することで、
 動作の仕方を学ぶことはできるそうです

 例えば手術ロボット
 縫合の作業は患者が変わってもだいたい同じで
 この作業を観察することでやり方が学べる

 これは「模倣学習」といい
 ディープラーニングでも行われているらしい
 この模倣学習では、
 ・動作のデータを集め、
 ・動きを部分(セグメント)に分け、
 ・セグメントごとに動きを学ぶ、
 ・それを後から一連の動作に統合していく
 という手順で学べるのだそう

 徳井さん
 「ハードルも、為末さんのやり方を見ることで、為末さんの経験が受け継げるってことですね」
 松尾氏は
 「ただ、模倣は最初からはできないですよね。
  真似するには何が必要なんでしょう」

 為末さんは
 「うーん、こうすると自分の体がこう動くと分かることと、
  あとはあんな風に動かせば体の動きがこうなる、と頭の中でシミュレーションできることですかね」
 つまり自分の身体感覚と、
 人の動作を見て頭の中でイメージする動作、
 この二つの関連付けができないといけない

 これは脳にとっては難しいそうで
 猿にはできるが犬、猫にはできないそうです

 松尾氏によると、
 模倣は脳が短時間で効率よく学習するための仕組みで、
 人間の脳はこのように効率的に学習する仕組みをたくさん持っているそうです

 そう言えば昔BSの番組で
 (NHK BS世界のドキュメンタリー「勝てる脳の秘密~完璧なアスリートを目指して~」)
 スポーツ選手の能力をイメージトレーニングやシミュレーションでアップさせる、
 という話をしていましたけど
 あれも「模倣学習」ができる人間だからこそなんですね。

○チャンク化
 為末さんは
 「大人は考えなくても物を掴むなどができるけど、それはいつ頃からなのか」と聞いていました

 松尾氏によると、
 人間の脳は、何回も経験を重ねていくと、
 こういうことをするとこんなことが起きそうだ、
 というような予測や計画が立てられるようになるのだそう

 そして、その際脳の中では、
 行動の「チャンク化」が行われている、という。

 チャンク化とはなにか?

 例えば赤ちゃんは、物を持つとき
 「手を近づける」「手を広げる」「手を閉じる」「腕を上げる」
 など色んな作業をいちいち考えないといけないが
 大人は全部をひとかたまりで「持ち上げる」作業と捉える
 そこから、「持ち上げて」「ここに置く」という、より複雑な作業ができるようになる

 為末さんは
 「これはスポーツでも同じ感じですね」
 スポーツでも最初は個々の動きをバラバラに考えるが
 そのうち感覚的に「シュッと投げる」という風にできるようになるそうです

 自転車や車の運転など、
 体と結び付いた記憶(手続き記憶)は衰えにくい
 という話を聞いたことがありますが
 チャンク化されているからなのかな?

○「感じる」と「考える」の関係
 松尾氏は為末さんに
 「為末さんにとっては、頭の中で動作を考えることと
  身体を動かすことは、どういう関係ですか?」
 と聞いていました

 為末さんは
 「ハードルの練習をするときは、
  最初は思いきり飛ぶ練習だけで、その時は腕の動きとかは考えない。
  それから止まった状態で腕の動きを学ぶ。
  それから動きをつなぎあわせて、最後はイメージだけで跳ぶ、という感じです」

 松尾氏
 「じゃあ感じることと、考えることの関係は?」
 為末さん
 「??感情は受け身、考えるのは自分から、て感じですよね…」
 松尾氏
 「バラバラですかね」

 徳井さんは
 「でも野球で打つときは、瞬間的に撃ち方を判断しているようで
 実際は何キロのボールが来てます、腰の回転はこうです…とか判断している、
 そうなると考えるのと感じるのとどこに境界があるんか分からなくなりますね」と話していました

 松尾氏も「そうですよね」
 例えば野球選手は球を撃つとき、
 ランナーがいるから右に飛ばそうとか、カーブだからタイミングをずらそうとか瞬時に考える
 「その時の考えるタイミングと、無意識に撃つ動作との関係はどうなんでしょう?」

 為末さんは
 「うーん、スポーツ選手の場合、
  「考える」は後から来ることが多いんじゃないですかね」
 やってるときは感覚的にやって、
 後から何でうまくいったんかな、こうしたからかなとか考えて
 次にじゃあこうしてみようと考える、
 感じるのと、考えるのには時間のズレがあるのでは、
 と話していました

 (そう言えば、昔一流スポーツ選手はどう身体を動かしているか、
 という本を読んだことがありますが
 (「一流選手の動きはなぜ美しいのか からだの動きを科学する」小田 伸午)
 「スポーツでは、科学的に分析した客観的な動きと、実際動かす本人との感覚にはズレがある」
 と書かれていました。
 スポーツの場合、動作をバラバラに考えてそのまま動かすと、
 タイミングが遅すぎてしまうのだそうです。
 つまり1つ1つの動作を考えて動いていると遅すぎになってしまう。
 (例えば野球の外野の人が、ボールを投げるタイミングを気持ち早めにした方が遠くに投げられた、という話。
 ただし早めにするのはあくまで主観的な感覚の方で、実際の体の動きはそれとは別)
 これは、考えるという行為は、感覚とか動くより時間がかかる、ということなんだろうと思います)

○感じる、行動するのが先、考えるのは後?
 松尾氏は
 「「考える」は「感じる」ことをブースト、加速させるという考え方があります」

 最近の脳科学では
 「脳が考えて体を動かす」のではなく
 「体が動くから、脳が動かした、と感じる」
 という考え方があるそうです

 神経科学者のベンジャミン・リベットの実験によると
 人は、動作をする0.2秒前に意識的な決定をするシグナルが脳に出ているが
 さらにその0.3秒前には、意思決定に関わる無意識的な脳の活動があるのだそう
 つまり、我々が意識する前に無意識の領域で行動は決まっている

 松尾氏は
 会社の取締役と現場の従業員、という例えをしていました
 脳は取締役、体は現場
 取締役は、だいたい大雑把な方針を決めるだけで
 現場が細かいことを決めている
 なので現場のことは取締役は詳しくは分からない
 ほとんどの行動が無意識なのはこのため

 しかし問題があったら上に上がってくる
 だから意識的な行動とは、よっぽど大きな問題が起きている時ではないか、とのことです

 為末さんは
 「反射系のスポーツ、バトミントンとかだと、
  考え出すとうまくいかなくなった、ていう話があるんです」
 これは先の例えでいうと、
 社員だけでうまくいってたのに
 取締役が出てきてゴチャゴチャ言うから現場が混乱する、
 というのと同じことではないか、と話していました

 うまくいっている会社なら現場が何も言わなくても適切に働いてくれる。
 これは現場をちゃんと訓練しているからそうなっている。
 一流のスポーツ選手の体でも現場は勝手にうまいことやってくれている、ということなのかな?

 それから為末さんは
 「考えなくてうまくいっていた選手が
  考え出すとうまくいかなくなる
  でもそこを乗り越えて考えたらまた強くなる、っていうのはよくある話なんですよね」

 いわゆる、天才がスランプに陥るパターンですね…

 これは脳科学的にはどういうことか?
 松尾氏の分析では
 考える、言葉にする、
 というのは抽象化し、要約すること、
 つまりいったん情報を削ぎ落とすことなのだそう
 しかしその代わり、保存性はよくなる

 情報を落とすのは一見効率が悪いが、
 知識を保存しやすくすることで、
 細かく情報を分解して効率的な方法を考えられるし、
 経験を蓄積したりできるのだそうです

 だから、スポーツ選手も
 感覚的にやってたことをうまく頭で要約できれば、
 改善もできるし、再現もしやすくなるのだろうけど
 その過程で間違って必要な情報も落としてしまったらうまくできなくなる、
 ということかなと思います

 為末さんは
 「じゃあ人工知能で、動きのまま削ぎ落とさずに保存できたら、また違う動きができるかもしれないですね」
 松尾氏は
 「そうですね、それは面白いかもしれないですね」

○テレポーター
 次に、番組の冒頭からずーっと置いてあったロボットについて。

 徳井さんがこのロボットと会話していましたが
 会話の仕方がなんか人間臭い。

 このロボットは、実はネットとつながっている
 つながった先の端末を使っている人は、ロボットの経験を体験できる

 例えばロボットの目に当たるところにはセンサーがあるが、
 端末の使用者はゴーグルのようなものを被り
 ロボット目線のものを同じように見ることができる

 また、ロボットに握手すると、使用者の所にも対応するセンサーがあってその感覚が分かるのだそうです

 開発者の方によれば
 「使用者がどこにいてもロボットが身代わりになって色んな人に出会える」とのこと
 テレポーテーションしているみたいなので、このロボットは「テレポーター」と言うのだそう

 今はロボットが体験したものを使用者が遠隔で感じられるだけだが、
 使用者がロボットに自分の動作や思考などを学習させ、それを蓄積していけば
 自分の身代わりロボットにできるのでは、とのことです

 極端な話、自分がいないときや、死んだあとでも自分のアンドロイドみたいに振る舞えるかもしれない、
 そうすると死ぬことに意味が無くなるかもしれない、
 とのことです

○2分で分かるディープラーニング
 毎回動画でやってる、ディープラーニングについて学べる動画です。
 今回は重み付けのことで、
 情報の重み付けが強いほど次の層に太い線で伝わり、
 太い線ほど次の層を強く活性化する、
 とかいう話でした
 (ホームページからも見られます)

○まとめ
 最後、「人間ってナンだ?」
という質問に
 為末さんは
 「自分を知らない生き物」
 自分は自分のことを知っていると思っていたけど、大きな勘違いだった
 知能は、体が無意識にやっていることに支えられているけど、
 そのやっていることを自分は何も知らないんだ、
 と思ったそうです

 徳井さんは
 「データの集合体プラスアルファ」
 人工知能は人間に似ているけど、
 人間が作るからそれは当たり前で、
 でも人工知能に加わるプラスアルファがあるから人間になるのかな
 …という感じの感想でした

 松尾氏は
 人間が意識しているのは得ている情報の一部に過ぎない、
 我々を構成するほとんどは、
 無意識で感じていることだ、
 と話していました

 今まで人間は考えることが知性、と考えられてきた
 人工知能の分野でも、考えることがクローズアップされてきた

 しかし、「考える」は
 たくさんの無意識的な「感じる」に支えられているんだ、ということだそう

 為末さんは
 「「感じる」とは「データを集めること」
  「考える」とは「データを編集すること」
  でも元のデータがないと、考えることも何もできないんですね」
 と話していました

○感想など
・人工知能って体要らなくない?と個人的には思っていたのですが
 (ロボットは人間が安心するするためのものくらいに考えていました)
 それだと、いつまでも人間がデータをいれてあげないと判断できない子になっちゃうんだなぁと思いました。体って大事なのね。

 でも人工知能が感覚を感じ始めたらどうなるんだろう。
 大きい小さいみたいな、
客観的な程度の判断だけできるならいいけど、
 善悪とか快不快とか、好き嫌いが出来てくるのかな。
 そうなると「こんなことしたくない」とか言い出しそうでめんどくさそう…
 主観的な好き嫌いの判断とか感情も感覚から来るんだろうか?と思いました。

・最初のフレーム問題でも、後半のスポーツ選手の感覚を言語化するのも
 「情報を減らす」
 というのがキーになっているなと思いました。

 フレーム問題では、重要度の高い情報だけを見抜かねばならない。
 言語化の段階でも、色んな人の感性の中で、
 共通して理解できるような概念を抽出して共通の記号で表さねばならない。

 となると、情報を減らす、というのは人間特有の高度な知性の働きなのかなと思いました。

 というか、単に減らすだけなら誰でもできるんだろうけど、
 ポイントを押さえて要点だけ抽出するというのはとても難しい。

 人間でも文をだらだら書くのは誰でもできるが
 要点だけ押さえて簡潔に書くのは難しいですからね…

 それからフレーム問題を見ているときに思い出したのですが
 心理学や経済学に出てくる
 「ヒューリスティックス」というのも、
 情報を減らす行為なのかなと思います。

 ヒューリスティックス、は、
 (私の理解で書きますと)
 経験とか常識、感情で物事を判断する我々の心のクセみたいなもの、ですが
 ヒューリスティックスによると
 我々人間は、
 「よく見聞きするもの」とか
 「ありそうなこと」を選ぶとか、

 強い恐怖など不快な体験をしたものは避ける
 (逆に快いものは選ぶ)
 などという傾向があるようです

 これも、膨大な情報の中から必要そうな情報を選び、
 ほかの要らない選択肢は削ぎ落とす脳の働きの1つなのだろう、と思います

 ただ、ヒューリスティックスに見られるように
 人間の脳が削ぎおとした情報は、本当に要らない情報だったのかは怪しい所がある

 ここにAIの能力が入り込む余地があるのかもしれないですね。
 為末さんが言うように、
 落とさない情報も保つことができればまた面白いかもしれない。

 ちょっと前にNHKで、マツコデラックスさんとAIの番組があって、
 AIに情報を入れて社会問題を解決させる
という少々無茶ぶりした企画だったんですが

 番組を見ていたら、AIの出してくる答は人間の常識からしたら「??」というものがありました。
 これも、人間が常識とかで要らない、と勝手に判断したものを
 AIが削ぎ落とさずに持っていた結果なのかもしれない。

 人間とAIが補いあう、ていうのはこういう活用法もあるのかなと思いました。

 個人的にはAI自体にはそんなに興味がないんですが、
 (将来必要かなと思ってAI関係の情報は集めていますが)
 AIの研究を通じて、人間の脳や進化、発達などについてあぶり出されるのが面白いなーと思います。
 また次回も見たいと思います。

というわけで今回はこの辺で。